@森繁和インタビュー 前編 コロナ禍で外国人選手の来日に影響が出た今季、あらためてその存在の大きさがクローズアップされて…

@森繁和インタビュー 前編

 コロナ禍で外国人選手の来日に影響が出た今季、あらためてその存在の大きさがクローズアップされている。とくにセ・リーグでは、ひとりも開幕に間に合わなかったDeNAが出遅れ、チームづくりにおける外国人選手の重要性が浮き彫りになった。

「外国人は"助っ人"。チームにとって大きいよ」

 そう語るのは、2004年から中日でヘッドコーチや監督などを務め、渉外担当も兼任した森繁和氏だ。 "参謀"として落合博満監督を支えた同氏は、2010年にヘッドコーチに就任して以降、外国人選手との契約を球団からすべて任されたという。



中日在籍時代、独自のルートで多くの外国人選手を獲得してきた森繁和氏

「ドミニカには15回くらい行った。当時、川上憲伸や山本昌などピッチャーの人数はある程度いた頃で、オレは"道"をつくりに行ったんだよ」

 カリブ海のドミニカ共和国を皮切りに、ベネズエラ、キューバなど野球強国として知られる中南米諸国と森氏はパイプを築いた。2018年限りで中日の監督を退任、翌年にはシニアディレクター職からも離れたが、現チームにもその影響は残っている。育成を含めて7人の外国人選手のうち、キューバ人が4人、ドミニカ人が1人とラティーノが多数を占めるのだ。

 昭和のプロ野球を振り返ると、助っ人と言えばアメリカ人選手が主流だった。それが令和の現在は、世界各地に広がりを見せている。以下、2021年開幕時点で12球団に登録されている外国人選手の国籍別割合だ(育成選手、10年以上在籍し登録上は日本人扱いの選手を含む。日本の学校を卒業後、ドラフトで入団した外国人選手は含まない)。

 アメリカ:35人、ドミニカ:22人、キューバ:11人、ベネズエラ:7人、台湾:4人、プエルトリコ:2人、キュラソー:1人、ブラジル:1人、南アフリカ:1人、リトアニア:1人

 計85人のうち、中南米諸国出身は44人。各球団が同地域から多くの選手を獲得するようになるうえで、影響を及ぼしたのが森氏だった。

 古くは1970年代に阪急(現・オリックス)で打点王に輝いたボビー・マルカーノ(ベネズエラ)、1980年代末から西武の優勝に貢献したオレステス・デストラーデ(キューバ)などが活躍してきたが、あくまでアメリカ球界を経由した者たちだった。1997年から2001年まで西武、巨人でプレーした大砲ドミンゴ・マルティネス(ドミニカ)もそのひとりだ。

 森氏は西武で一緒になった際、マルティネスに言われた言葉が頭に残ったという。

「ドミニカやベネズエラ、プエルトリコ、コロンビア、メキシコではウインターリーグが開催されている。そのなかにいい選手がいるから、見にくれば面白いんじゃない?」

 森氏は1977年に開催された第3回インターコンチネンタルカップで日本代表として中米のニカラグアを訪れたことがあり、カリブ海のウインターリーグに「そのうち行ければいいな」と思っていた。

 そしてチャンスが訪れたのは2004年オフ、中日のコーチとして1年目を終えた頃だ。

 当時、5年ぶりのリーグ優勝を果たした中日は立浪和義、福留孝介、谷繁元信、井端弘和、荒木雅博らレギュラー陣に脂が乗り、年俸総額が高まっていた。外国人には台湾の大学から獲得したチェン・ウェイン(現・阪神)、森氏とともに横浜(現・DeNA)から移籍してきた右腕ドミンゴ・グスマン、2年連続21本塁打のアレックス・オチョアが在籍し、翌年には2年連続本塁打王のタイロン・ウッズが横浜から加わることも決まっている。新たな補強に使える予算は限られていた。

 一方、森氏は自分の目で見て新外国人を獲得したいと考えた。エージェントが売り込んでくるのはいい面ばかりで、自身で見ないと総合的に判断できない。そうして浮かび上がったのが、常夏の国ドミニカのウインターリーグ視察だった。

「ちょうどメジャーリーグがドミニカにアカデミーをつくり始めている頃で、若くていい選手がいっぱいいると聞いていた。実際に見に行って、これはすごいなと思ったよ」

 メジャー傘下の若手選手に加え、契約先を探す選手がウインターリーグでアピールしていた。アメリカ行きがかなわない選手のなかにも、ポテンシャルを秘めた者が多くいる。彼らなら予算の範囲内で獲得でき、投資としてローリスク・ハイリターンを狙うことができる。

「オレが連れてきた選手は年俸約3000万から4000万くらい。3人連れてきても1億はかからない。5000万とか8000万、1億で連れてきて、『当たらなかった』とか言われるのはしゃくだからね」

 2004年オフには無名の3選手を獲得。目的は補強というより、現地で「なんとかしてくれないか」と頼まれたからだった。ルイス・ブラウン、クリスチャン・ベロアは出場機会ゼロに終わったが、ルイス・マルティネスは2年間で14勝を挙げている。約3000万円という年俸を考えれば御の字だ。そしてグラウンドでの活躍以上に、現地球団とパイプができたことが大きかった。

「獲得だけじゃなく、左ピッチャーをドミニカへ連れてこないかと言われた。それで2005年に長峰昌司と高橋聡文を派遣したら、うまくいった。数えたら、30人近くの日本人選手がドミニカに行っている。オレにとっての目的は、途中から変わっていった」

 吉見一起や中田賢一(現・阪神)、浅尾拓也らがドミニカのウインターリーグで飛躍のきっかけをつかんだ。中日の成功を見て、若手を中南米へ武者修行に行かせる流れはソフトバンク、巨人らに波及していく。

 一方、森氏は補強でも力を発揮した。"掘り出し物"だったのが、2008年春季キャンプでテスト入団したマキシモ・ネルソンだ。同年の沖縄キャンプを終えて空港から移動する際、カバンの中から実弾が見つかり大騒動になったこの右腕投手は、ドミニカ野球の奥深さを物語る投手だった。

 ヤンキースから"プロスペクト"(有望株)と見込まれたネルソンの実力を森氏は2006年オフに聞きつけ、ドミニカにある広島カープのアカデミーを借りてテストを行なった。サトウキビ畑の中から裸足で現れたネルソンは、ウォーミングアップも行なわないまま1球目から球速151キロを計測。次は153キロを投げ、森氏は「もういいよ」と合格を出した。

 ドミニカではキャッチボールの1球目から強い球を投げるのは当たり前の慣習だが、ネルソンにはテストを早く終わらせたい理由があった。

「とにかく腹が減った。ハンバーガーとホットドッグが食べたい」

 ネルソンはヤンキース時代の2005年、アメリカでドミニカ人グループによる結婚詐欺に関与して解雇された。母国に帰国後はサマーリーグでプレーしつつ、農業などもかけ持ちしながら食いつないだ。そんな折、森氏に才能を見込まれる。ネルソンには約1070万円という年俸に加え、結果を残せば残すほど稼げる出来高が魅力に映った。

「『1試合投げたら出来高がこれだけだよ。1イニング投げたらこれだけだよ』と言ったら、『毎日投げたい』って言っていたよ」

 イスラエルリーグを経て2008年に中日入りしたネルソンは4年目の2011年にリーグ最多の31試合に先発して、10勝をマーク。入団テストに裸足で現れた右腕は、森氏の期待に応えた。

「ピッチャーなら先発して10勝してくれるか、1イニングで150キロ以上投げられるリリーフをまずは探した。そうしているうちに、落合監督から『バッターも頼む』となったんだよ。オレが見てもわからないけど、『ピッチャー目線で、投げていて嫌な選手を探してこい。長打があると思ったら、連れてくればいい』と言われてね」

 結果、"大当たり"したのがトニ・ブランコだ。メジャーリーグでは活躍できなかったものの、森氏は可能性を見出した。

「巨人にいた会田有志という右のアンダースローがウインターリーグに来ていて、彼から2打席連続ホームランを打ったんだよ。速いボールは詰まってファウルばかりだけど、スライダーを投げたらライトポール側に場外を2本。これだったらなんとかなるなと思った。速いボールに三振ばかりしていたけど、ヒットが出る時はほとんどホームラン。そこが魅力だった」

 ブランコは来日1年目の2009年にリーグトップの157三振を記録したが、39本塁打、110打点で二冠に輝いた。年俸は約3000万円。これほど"お買い得"の助っ人は、そう簡単には見つからない。

「オレは別に3000万にこだわっているわけじゃないよ(笑)。1億あれば3人とれるという考え方だよ。『この額なら、よそのほうがいい』と言われればそれまでだけど、先に契約金を提示する。それが魅力的に映ったのかもしれない」

 ドミニカに"道"をつくりにいった森氏は、現地球団とのパイプを太くし、魅力的な外国人選手を連れてくるようになった。そしてドミニカに飽きたらず、中南米各国にルートを広げていく。

 そうして生まれた新たなトレンドが、外国人選手を「育成」で獲得し、日本で育て上げるという手法だ。

(後編へ続く>>)