異能がサッカーを面白くする(13)~両利き編(1)から読む>> 日本サッカー界が生んだ多芸な選手と言われて、真っ先に名前…
異能がサッカーを面白くする(13)~両利き編
(1)から読む>>
日本サッカー界が生んだ多芸な選手と言われて、真っ先に名前が出てくるのは小野伸二だろう。左右、両足をほぼ同等のレベルで操る特異性を備えた選手だ。右利きでありながら、左足を無理なく自然に、もともと左利きであるかのごとく使いこなす。芸の幅は自ずと広がる。
どちらの足が利き足か、ひと目でわかる選手のほうが多数派だ。小野的ではない選手である。右利きが強い選手(右利きであることがはっきりとわかる選手)、あるいは左利きが強い選手は、次のプレーを相手に察知されやすい。プレスの餌食になりやすい。
一般的に1対9の割合と言われる左利きと右利き。それが正しければ、左利きはスタメンに1人いるのが平均だ。かつては、その特異性を誇示するようにプレーしたものだが、20年ほど前からだろうか、ピッチの中央でプレーする左利きが強いゲームメーカータイプのレフティは、急速に数を減らすことになった。プレッシングサッカーの興隆で、価値観に大きな変化が起きたのだった。
現在のサッカー界が求める理想的な選手は、左利きか、右利きかがわかりにくいボールの持ち方をする、次のプレーを予測しにくい選手なのだ。
そうした現代サッカーのニーズに適合した左利き選手のはしりは、ラウル・ゴンサレスになる。ご承知のとおり、1990年代から2000年代にかけて、レアル・マドリードの看板選手として活躍した名手である。身体の真ん中にボールを置くことが多かったので、まさに進行方向を読まれにくいという特性があった。4-2-「3-1」の「3-1」なら、どのポジションもこなす、多機能性かつ現代性を備えたアタッカーである。
しかし、ラウル以上にこちらの眼を驚かせたのは、反対に、実際は右利きなのに、「左利きかも?」と思わせる選手だった。両足ともに、まったくと言っていいほど同レベルの巧さを誇ったので、事実上の両利きだった。

1996年のバルセロナ戦後、カンプノウで記者に囲まれるルク・ニリス(当時PSV) photo by Sugiyama Shigeki
ラウルより10歳年上のベルギー人。1994年のアメリカW杯、1998年フランスW杯、さらには2000年ユーロに、同国代表の看板アタッカーとして出場した選手だ。
ルク・ニリス。引退して今年で20年が経過する。それ以前も、それ以降もサッカーを見続けてきた筆者だが、彼を超える両利き選手に、いまだ遭遇したことはない。
ニリスが、アンデルレヒトからオランダのPSVアイントホーフェンに移籍したのは1994-95シーズンだった。PSVのライバルチームであるアヤックスが、ウィーンのエルンスト・ハッペルで行なわれたチャンピオンズリーグ(CL)決勝でミランを倒し、22年ぶり4度目の欧州一に輝いたシーズンと一致していた。
オランダへ出かける目的は一にアヤックス、二にオランダ代表チームという感じだった。その合間に観戦するPSVの試合にしても、当初、一番楽しみにしていたのはニリスと同じタイミングでPSV入りしたブラジルの至宝、ロナウドだった。その直前に開催されたアメリカW杯で、ベルギー代表として出場したニリスのプレーを見ていたはずだが、観戦動機の中に含まれていなかった。
それだけに驚かされることになった。アヤックスの選手より、PSVの9番ロナウドより、ロナウドと2トップを組むPSVの10番に目を奪われた。実際、1995-96シーズンには、同僚のロナウドやアヤックスの面々を抑え堂々、オランダ年間最優秀選手にも選出されている。
ロナウドは引退後、最高のパートナーはと問われると、ニリスの名前を挙げたという。その後、ロナウドがバルセロナに移籍した後、コンビを組むことになったルート・ファン・ニステルローイも同様だった。ニリスこそ、ベルギーサッカー史上最高の選手だと論じている。
筆者もまったく同感だが、こう言っては何だが、当時、CLを制したアヤックスの快進撃でさえ満足に視聴できる環境になかった日本在住のサッカーファンには、賛同を得にくい話だと思う。
ベルギーと言えば、まず1986年メキシコW杯で名を売ったヤン・クーレマンス、ベルギーの至宝と呼ばれたエンツォ・シーフォ、2002年日韓共催で活躍した闘将、マルク・ヴィルモッツの名前を想起するだろう。現役選手では、エデン・アザール、ロメル・ルカク、ケビン・デ・ブライネあたりになるだろう。そうした意味でニリスという希代の両利きは、エアポケットにはまったかのような状態にある、判官贔屓を掻き立てられる選手になる。
右利きながら左足キックがうまい人はいくらでもいる。しかし左利きでも難しそうな無理な体勢から、ボレーを含むパンチ力に富む鋭いキックを蹴り込める選手はそういない。切り返しだったり、ドリブルだったり、シュート以外の細かなボール操作も左利きと同じように行なう。
スピーディーで、ドリブルは切れる。その流れでシュートに持ち込む一連のアクションには何といっても華がある。シュートシーンから逆算されたような動きをする。シュートで完結しそうなボールの運び方。それを可能にしているのが、両利きならではの特性だ。右なのか左なのか、進む方向がわかりにくい。これこそが、相手の守備陣が混乱に陥る一番の要因だ。相手の守備網を正面からドリブルでズタズタに引き裂きながら、シュートポイントに向かって進んでいく。
最も記憶に残る一戦は、1995-96シーズンのUEFAカップ(ヨーロッパリーグの前身大会)準々決勝対バルセロナ戦だ。当時は、CL本大会出場枠は各国リーグとも各1チームだったため、UEFAカップでの対決が実現したのだが、試合は大接戦だった。トータルスコアは4-5。カンプノウで行なわれた第1戦(1996年3月5日)は2-2。フィリップス・シュタディオンで行なわれた第2戦(同年3月19日)が2-3でバルセロナが勝利した。
第1戦のニリスは、2ゴールを叩き出す大活躍を演じた。開始早々、直接FKで奪ったゴールは、壁の右外を巻く右足のカーブキックだったが、後半5分に挙げた2点目のゴールは"自慢"の左足だった。CKのチャンスに反応したPSVのDFエルネスト・ファーベルのヘディングシュートがバルサゴールを強襲。そのリバウンドがペナルティエリア左隅あたりに転々とするところに現れたニリスは、ためらうことなく左足を振り抜いた。
パンチの効いた、火を吹くような強烈なキックではあったが、僅かにスライス軌道も描いていた。左足のインステップと言うより、ややアウトに掛かった部分にボールをヒットさせる繊細なアクションでもあった。左利きの名手のキックフォームを重ねたようなシルエットを、ニリスはその瞬間、描いたのだった。
翌1996-97シーズン、移籍の自由と外国人枠の事実上の撤廃を謳う「ボスマン判決」が施行された。時代の波に乗じてロナウドはバルサ移籍を果たすも、ニリスはPSVに残留した。その後、PSVでニリスとともに活躍したファン・ニステルローイも、同様にマンチェスター・ユナイテッドに移籍。同僚のボウデヴィン・ゼンデン、フィリップ・コクーもバルサへ移籍した。
ニリスがPSVを後にしたのは2000-01シーズン。33歳の時だった。移籍先は前シーズン、プレミアリーグ6位に終わったアストン・ビラ。ニリスのファンとしては、やるせない気持ちに襲われたものだ。
2000年8月27日、ニリスがプレミアデビューを果たしたのはその開幕2戦目で、チェルシーとのホームゲームだった。背番号20。ニリスは開始10分。ビラパークを埋めた地元ファンに挨拶代わりの一発を披露する。左SB、アラン・ライトのグラウンダーの折り返しを、軽く浮かすようにトラップした。フランス代表、フランク・ルブーフの背後からのプレッシャーを受けながら。左足を振り抜いたのは、次の瞬間だった。角度のないところから、浮いたボールを軽業師のごとく、回し蹴りに及んだのだった。
まさに目の覚めるような、ニリスらしい、切れ味鋭い電光石火のファインゴール。だが、これがニリスの現役最後のゴールになった。9月3日に行なわれたイプスウィッチ戦で、相手GKリチャード・ライトと激突。右足のスネを複雑骨折する大ケガを負い、そのまま引退に追い込まれた。
一度でもいいからCLの舞台で見たかった両利きの名手。UEFAカップ準々決勝対バルサ戦、カンプノウで決めた左足の一撃は、いまだ脳裏に焼き付いて離れないのである。