「輪島育ちには、このチームは『希望』なんですよ。だから、入場行進もスタンドから見守りたかった。でも今は、避難所を…

センバツの開会式で、甲子園のグラウンドに立つ日本航空石川の選手たちを避難所のテレビで見守る古谷裕さん=石川県輪島市西脇町の河原田公民館で2024年3月18日午前9時21分、川地隆史撮影

 「輪島育ちには、このチームは『希望』なんですよ。だから、入場行進もスタンドから見守りたかった。でも今は、避難所を守らないといけない」。18日、阪神甲子園球場で開幕したセンバツ。この日、能登半島地震の避難所のテレビで日本航空石川の選手たちが甲子園の黒土を踏む姿を見つめる男性がいた。

 石川県輪島市西脇町の河原田公民館長、古谷裕さん(66)。公民館は今年元日に発生した能登半島地震で、避難所となり多い時で188人が身を寄せた。今も30人が避難生活を送る。

 「日本航空石川が初めて甲子園出場を決めたとき、輪島の人は自分のことのように喜んだんですよ」。古谷さんは、懐かしむ。

 2009年夏。石川大会を制して甲子園行きを決めると、当時の輪島市長は防災無線でこのニュースを速報し、花火まで打ち上げられる盛り上がりようだった。

 輪島の人々が喜んだのには訳があった。石川の高校野球界は星稜や遊学館といった実力校が金沢を中心に集まる。能登半島にある高校はこれらの実力校に阻まれ甲子園に出場できない時期が長らく続いた。日本航空石川のつかんだ甲子園切符は、能登勢で春夏を通じて初の切符だった。

 野球部の選手は県外出身者も多かったが、07年に能登を地震が襲ったときに、炊き出しをしたり、部員が支援物資の搬送を手伝ったりする姿を市民は覚えていた。

 日本航空石川の野球部は希望――。古谷さんがこう表現するのは高校ができた経緯も踏まえてのことだ。

 輪島市は朝市や伝統工芸品「輪島塗」で知られる観光地として知名度がある。だが、人口は1960年の約5万7000人から23年12月時点で約2万3000人。半島の突端部ゆえの交通の便の悪さも相まってか、人口減少が続く。

 そんな輪島市に03年、観光客の利用を見越し、能登空港がオープンした。開港にあわせて地元で空港業務の従事者らを育てる高校や系列の大学校が設けられた。当時高校は日本航空第二高という校名だった。今の日本航空石川だ。

 輪島は林業が盛んで地元出身の古谷さんは高校を卒業すると、森林組合に職を得た。だが、街を歩いても、子供よりも高齢者が目立つようになり、将来が描けないと感じるようになっていた。そんなタイミングでの空港や高校、大学校の開設だった。

 「若者が能登に来てくれる」。うれしくて、04年に大学校の職員に転じると、その後高校の総務部長なども歴任した。一線を18年に退いた今も学校の運営法人の理事長補佐の肩書が残る。

 過疎の地に高校が新設され、野球部が甲子園出場を果たす。能登半島の中でも先端部、奥能登と呼ばれる地で流れた約20年を振り返って古谷さんは日本航空石川の野球部を「希望」と表現するのだ。

 1月下旬、センバツへの選出が決まると、古谷さんの心は少なからず揺れた。応援に行くべきか、避けるべきか。

 心の揺れの重しとなったのは、今回の地震の被害規模だった。公民館長を務める河原田地区では、6人の死亡が判明。1人は今も行方不明だ。「学校のことは心配しなくていい。避難所に全力を注いでほしい」。学校関係者から激励を受け、地元を守る決意を固めた。

 自宅も半壊した。地震から2カ月半あまり。石川県によると、15日時点で9442人がいまだに避難生活を強いられている。

 金沢市などに2次避難しても「地元が恋しい」と公民館に戻って来る被災者をどうサポートすべきなのか。「避難者が一人でもいる限りは、私もここにいる」。心を砕く日が続く。

 日本航空石川は大会6日目に1回戦で常総学院(茨城)とぶつかる。春夏の甲子園で優勝経験を持つ強豪だ。避難者と公民館のテレビを囲むつもりだ。「華やかな応援はきっとできない。でもしっかりと応援したい。選手には胸を張って全力を出してほしい。その姿はきっと復興の一歩につながる」【川地隆史】