ホームランに憑かれた男~孤高の奇才・門田博光伝第7回 長いシーズンの中の1/143なのか、それともほかとは違う特別な1試…

ホームランに憑かれた男~孤高の奇才・門田博光伝
第7回

 長いシーズンの中の1/143なのか、それともほかとは違う特別な1試合なのか......。毎年、開幕が迫るなかで話題となるクエスチョンに門田博光はあっさり答えを出した。

「そら特別ですよ。開幕戦には、そこに立った者にしかわからない特別な雰囲気がある。選手にしたら1年のなかで唯一、真っ白な気持ちで素直にプレーできる試合なんです」

 門田は独特の言い回しで開幕を表現した。どんな話題にも自身の経験を踏まえて返してくる門田の言葉を聞くたび、現役の選手たちに聞かせたいと強く思うが、その願いが叶うことは、おそらくこの先もないだろう。



1989年のオフ、来るべきシーズンに向けて準備をする門田博光

 稀代の打撃職人は、こちらの心の内を見透かしたようにこう言い放った。

「いつも言ってるでしょ。僕を扱える人間がおらんかった......ということですよ」

 門田は引退後、一度も指導者としてNPBのグラウンドに立つことなく、今年2月で73歳になった。

 定期的に門田と会うようになって約10年。この時期はやはり開幕戦にまつわる話が多くなり、今回もそうだった。

「キャンプの時から開幕をターゲットに置いてやっとったからね。あの頃の南海(現・ソフトバンク)は阪急(現・オリックス)とよく開幕で当たっていたから、もちろんいつも頭にあったのは(山田)久志。あの強烈に下から浮き上がってくるボールをどうやって打つか......そればかり考えてスイングしとったわ」

 ライバルとの対決をひとしきり語ると、今度は23年間の現役生活のなかで強く印象に残っているという1980年の開幕戦へとつながった。

「一歩間違えば造反やったんや」

 その前年2月のキャンプ中に門田は右足のアキレス腱を断裂。再起不能とも言われた大ケガからシーズン終盤に一軍復帰。本塁打も2本放ったが、80年はキャンプ、オープン戦と状態が上がらなかった。その状況に、当時の監督である広瀬叔功は門田を開幕スタメンから外すことを決断するが、それを聞いた門田は直談判に出た。

「開幕前の1カ月ほど練習らしい練習ができなかったのは事実。それで広瀬さんとヘッドの横溝(桂)さんから『スタメンから外す』と言われたんやけど、ちょっと待ってくださいとなってな。それで『開幕の1試合だけは何があってもスタメンでお願いします。何番でもいいので出してください』って、オレも引かなかったんや」

 首脳陣からは「練習も満足にできてないんやから無理するな。今回だけは我慢せえ」と説得されたが、門田にはひとつの確信があった。

「開幕戦だけは練習をやっているとか、やっていないとか、調子がいいとか、悪いとか、そんなこととは関係ないものがある。やったことのある者にしかわからん特別な感覚がある試合、それが開幕戦なんや」

 鬼気迫る主砲の直訴に最後は広瀬が折れ、「6番・指名打者」での出場となった。当然、首脳陣に直訴したからには、相応の結果を出さなければならない。そんなプレッシャーのなか、門田はこれ以上ない結果を出した。

「イニングは覚えてないけど、ノーアウト一塁、カウント3-0からの1球を仕留めたんや。相手は鈴木啓示や。あの時のオレは練習もできてなかったし、あの試合の、あの打席の、あの1球しかスタンドへ持っていける球はなかった。ど真ん中の真っすぐや」

 相手は近鉄(現・オリックス)のエースで、走者一塁でカウントは3-0。普段の門田ならあり得ないことだが、あの打席ならベンチから「待て」のサインが出ても不思議ではなかったと振り返る。ただ、サインが出たとしても、好球が来れば打ちにいくつもりだったと門田は言う。

「若い時から散々19番(野村克也)に怒られて慣れとったからな。怒鳴られようが、次の試合から外されようが、そこはお構いなしやった」

 結果、「待て」のサインは出なかった。門田が続ける。

「それまで3番、4番を打っていた門田があったから、ベンチも『待て』は出さんかったんやろう。逆に鈴木啓示にしたら、6番を打っとるオレはそれまでの門田とは違うという感覚があったはずや。そこにギャップが生まれて、鈴木啓示が一番自信を持っとるストレートで、しかも真ん中近辺にストライクを取りにくると。狙いが定まったところで、1試合に1球あるかないかの球がきたんや」

 打球が日生球場(※)のライトスタンドに突き刺さると、門田は「オレの理論は正解やったな」と、満足感に浸りながらダイヤモンドを回った。
※大阪市中央区森之宮にあった球場で、近鉄が1958~83年まで本拠地、84~96年まで準本拠地として使用。97年限りで閉鎖となった

「1カ月間、練習らしいことをしなくても、開幕戦のあの雰囲気が集中力を生んで、勝負師の勘も働いて、300勝投手から打つことができたんや。やっぱり、開幕戦は特別やということを確信した試合やった」

 この1本で調子に乗った門田はこの年、自身初の40本塁打を記録。アーチストとしての道を歩み始めた。

 開幕戦の思い出話は、やがて打倒に執念を燃やしたゴールデンルーキーとの初対決へと広がっていった。

 ゴールデンルーキーとは、1990年に新日鉄堺から近鉄へ入団した野茂英雄だ。前年秋にドラフト史上最多となる8球団から1位指名を受けたルーキーの登場は、すでに40歳を迎えていた門田の心に新たな火をつけた。

「近鉄に来ると決まって、新聞記者に『(野茂は)どうなんや?』って聞いたんや。そしたら10人中8人が『すごいです』って言いよった。オレの経験から、10人中5人の『すごい』なら大したことない。でも、野茂については8人が言うんやから『これは本物や』となったんや」

 さらに門田が「何がすごいのか?」と聞くと、記者からは「ストレートとフォークです」と返ってきた。そこでフォークについて「兆治より上か?」と聞くと、記者たちは考え込んだ。球界一と称されていたロッテ・村田兆治(通算215勝)に匹敵するフォークと、150キロを超えるストレート。記者たちの反応を見ながら、挑むべきターゲットが決まった。このルーキーから最初のホームランはオレが打つ──。

 オフになるといつ実現するかわからない初対決に向け、門田の表現を借りるなら「静かなる準備」が始まった。当時奈良に住んでいた門田は、12月半ばからキャンプまでの約1カ月半、近くのゴルフ場を借り、朝5時半から真っ暗のなかをひたすら走った。

「まだ一軍の試合で投げてない選手のために、なんでプロの世界で散々戦ってきた40歳のオッサンがここまで苦しまなあかんのか......そんな問答から始まるんや。でもな、いくらそれまで修羅場を潜り抜けてきたからといって、古狸の経験だけで本物はやっつけられない。もう一度、新鮮な思考力からつくり上げていかなかったら、こっちがやられてしまう。それが、オレらが戦ってきたプロの世界なんや」

 そしてこう続けた。

「神仏を味方につけようと思ったら、そこまでやらんとあかんのよ。勝負の世界は、自分に運気をつけるための行動力というのが絶対に必要で、ちょっとほかより変わった練習をしているから勝つんであって、並の練習をやっているヤツに神仏は味方してくれない。最後はそこなんですよ」

 オフの時点で門田が野茂に関して得ていた情報は、ストレートが飛び抜けて速いということと、フォークが村田兆治レベルであるということの2つだけ。

 やがてシーズンに向けて各球団が動き出すなか、野茂の投球映像を初めて見た時に門田は唖然となった。そこで初めて、野茂の投球フォームが"トルネード"だと知ったからだ。この投手からどうすればホームランを打てるか。門田の思いは日に日に増していった。

「神仏に対しても、徐々に理論が変わっていったんや。ただ願うだけやなしに、『オレは1カ月半、真っ暗のなか、雨が降っても、雪が降っても走ってきたんや。これでオレが第1号じゃなかったら、たとえ神仏であっても許しませんで』と。オープン戦はいい。でも、公式戦の野茂からの第1号はオレや。オレが打たなあかんのやと、空に向かってよう言うとったわ」

 いざペナントレースが始まり、野茂のプロ初登板は4月10日の西武戦だった。秋山幸二、清原和博、デストラーデがクリーンアップに並ぶ強力打線との対戦に、門田は「誰もホームランを打つなよ」と念じ続けた。

 その思いが通じたのか、野茂は1本もホームランを許すことなく、4月18日のオリックス戦を迎えた。門田が4番に座るオリックス打線は、1番・松永浩美、2番・福良淳一、3番・ブーマーと強力だった。そこでも門田は「ホームラン打つなよ......」と念じ続けた。

 そして迎えた2回の初対決。先頭打者として打席に立った門田は、この時点ですでに誰が相手でも打てるぐらいの集中力があったという。狙いはストレート1本。迷いなく球種を絞った理由はこうだ。

「ここでフォークを放ってくるようじゃ、ただのマスコミ倒れの選手や。でも、野茂はそうやない。本物やと思ったからな」

 ストレートが2つ外れてカウント2-0。「これ以上ない条件が揃い、ストレートがくるのがわかった」という3球目。門田のバットに吸いつくように真ん中へ入ってきたスピードボールを西宮球場のライトスタンドに打ち込んだ。

 5カ月がかりでターゲットを沈めた瞬間、ゆっくりとダイヤモンドを回りながら門田はこう思ったという。

「これで野茂はもうええな」

 それにしても、なぜそこまで思い込めるのか。そしてその目標に向かって突き進めるのか。すると、再び門田流の答えが返ってきた。

「たしかに、なんでそこまで苦しまなあかんのか......というのが普通の考えや。でもな、目の前に新たな敵、本物の相手が現れたら本気で挑んでいかなあかんのが勝負師のさだめなんや。要は、そこまでの心境になれるかどうかということや。まあ、今の選手にこんな話をしてもピンとこんやろうけど」

 おそらく、今の選手でなくても......だろう。だからこそ、門田は王貞治(868本塁打)、野村克也(657本塁打)に次ぐ567本の本塁打を打つことができたのだ。

 常にターゲットを探し、挑み続けてきた門田の言葉には、プロの世界で生き抜くための"極意"が散りばめられている。しかし、何度も繰り返すが、門田の技術、経験、思考をNPBの現役選手に直接伝える機会は、これまでただの一度もめぐってきていない。

 門田がバットを置いて、まもなく30年が経つ。ペナントレースが華やかに幕を開けた一方で、今年もレジェンドの前を静かに春が通り過ぎようとしている。

つづく

(文中敬称略)