根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第25回証言者・渡辺久信(2) 西武入団3年目の1986年。…

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第25回
証言者・渡辺久信(2)

 西武入団3年目の1986年。渡辺久信は16勝を挙げて最多勝、最多奪三振の二冠に輝き、チームのリーグ連覇と日本一に大きく貢献。早くも主力投手陣の一角にのし上がると、プライベートでは六本木に遊びに行くようになり、弱冠21歳にして銀座に飲みに行くこともあった。

 だが、それでも若手合宿所=若獅子寮での生活は変わらない。監督の広岡達朗が採り入れた玄米食を除けば食事には何も不満はなかったが、部屋は四畳半ほどで狭く、暖房はあっても冷房がない。夏場の先発前日に暑さで十分な睡眠がとれず、仕事に支障をきたす可能性があった。

 入団4年目、西武鉄道から出向の「鬼寮長」に事情を話し、自ら冷風機を備え付けた。本来はルール違反だから、寮長は黙認したも同然だった。そうして初めて快適な夏を過ごしたが、制限の多い日々は変わらず。解放されるためには、球団管理部長の根本陸夫から許可を得る必要があった。現在は西武でGMを務め、「根本さんが目標」と言う渡辺に、当時の状況を聞く。



入団3年目に最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得した渡辺久信

「西武の寮のルールでは、高卒の選手は5年間、寮にいなくちゃいけなかったんです。でも、私は一軍でけっこう結果を出していたので『そろそろ、合宿所を卒業したいな。外に出ても大丈夫かな』と。ひとり暮らしに憧れた部分もあって、4年目が終わった時、根本さんのご自宅まで手土産を持って直談判に行ったんです」

 埼玉・所沢市、小手指にある根本の自宅。工藤公康をはじめ、ほかの選手は食事に招かれるなどしていたが、渡辺は「そこまで近しい関係じゃなくても......」という考えで、あえて根本とは距離を置いていた。ゆえにまったく初めての訪問で単刀直入に切り出した。

「今年で寮を出させてください」

「出さない」

「出せさてください。お願いします」

「最低5年、いないとダメだ。出さない」

 押し問答がありながら、小一時間、話し合いが続いた。選手の行きつけの店をすべて把握し、常々、各方面から情報を得ていた根本にすれば、譲れない部分があったのだろうか。最終的には「おまえはあと1年いろ」と命じられ、それで話は終わった。

 だが、そこまできっぱり拒否されると、どうしても出たいという気持ちが湧き上がってくる。いったん寮に帰った渡辺は、思案して行動を起こすことにした。

「もう1回、根本さんのところに行こうと決めました。二度目のチャレンジじゃないですけど。ただ、普通に行っただけでは、たぶん答えは一緒だな、と思ったんです。それで何か寮を出るための秘策はないかな、と考えている時に、マンションを買っちゃえばいいんだ、と気づきました。賃貸を借りるのは誰もがやることなので、これはもう買うしかないと」

 決断した渡辺は「とにかくマンションを買いたいんで」と不動産会社に依頼。1週間で条件に見合った物件を探し出し、東京の多摩地区にあるマンションを購入した。そうして再び、手土産を持って根本の自宅を訪ねた。

「マンションを買いました。そこは又貸しできない物件で、契約した人がオーナーとして入居しないといけないんです。だから出してください」

 しばらく黙ったあと、根本が言った。

「ナベ、おまえ、考えやがったな!」

「正直に言います。考えました」

「じゃあ、もういいよ。出してやる」

 根本は半ばあきれている様子だったが、すぐさま寮から出ることを許された。渡辺としては、「買ってしまえば絶対に出してくれる」という確信に近い思いもあった。

「根本陸夫という男は、普通に、正攻法でいったらダメなんです。私は入団してからの4年間でそういうふうに感じていたので、その時も、ストレートじゃなくてスライダー気味に入っていったんですね(笑)。だから出してくれたんだ、と思います」
 
 必要以上に親密にならず、距離を置きながらも、渡辺は根本の気質を洞察していた。そのうえで頭を使い、この人はどういう攻め方でいけば攻略できるか、考えて答えを出した。根本から特に多くを教わることはなかったが、この時の経験から、何事も工夫が必要で、いろいろな物の見方をしたほうがいい、と学んだ。

 結果、私生活で自由を得た渡辺は、そのぶん、チームではエースとしての責任を果たしていく。5年目の88年は15勝を挙げて二度目の最多勝に輝くと、89年も15勝を挙げ、90年は18勝で三度目の最多勝。監督の森祇晶の下、ライオンズが黄金期を築いていく上で不可欠の存在となった。

 しかし、チームがリーグ5連覇を達成した94年は9勝を挙げるも、監督が東尾修に代わった95年は不調。先発からリリーフに回っても結果を出せず、二軍暮らしが多くなった。96年は開幕からローテーションに入ると、6月11日のオリックス戦でノーヒット・ノーランを達成。これ以上ない形で復活の兆しを見せたが、その後は不振に陥り降格する。

 翌97年、プロ14年目、32歳になるシーズン。「直球が通用するうちに、ピッチングの組み立てを変えろ」と東尾に助言された渡辺だったが、力で押す全盛期のスタイルからなかなか脱却できなかった。12試合の登板で自身初の未勝利に終わり、球団から戦力外通告を受けた。ただ、同年の日本シリーズでは登板していたし、時期的にも想定外だった。

「11月の下旬、オフになりそうな時に急にクビになったんです。球団からは『ほかでやるなら自由契約にします』と。でも、"ほか"といっても他球団の秋季キャンプはほとんど終わっていて、入団テストを受けられるような状況ではなかったんです」

 11月22日、ドラフト会議の翌日のことだった。同年の西武は7人を指名し、すべて投手だったから、渡辺の心境は複雑だった。また、当時は現在のように戦力外を通告する期間も定められておらず、まだ12球団合同トライアウトも実施されていなかった。

 現実問題として、現役続行は厳しいかもしれない。自分を獲得するような球団はどこもないんじゃないか......。そう思ったとき、5年前にダイエー(現・ソフトバンク)に移り、球団専務になっていた根本から電話がかかってきた。

「ナベ、西のほうに来る気はあるか?」

つづく

(=敬称略)