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第14回バウド(前編)
ブラジルのサッカー選手というと、皆さんはどんなイメージを持っているだろう。
テクニックはすごいが、陽気でお祭り騒ぎが好きでちょっとクレイジー。そんな感じだろうか。しかし、バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョことバウドは、多くのブラジルの選手とはまったく違うキャラクターの持ち主だ。
彼にとっては高級レストランでの食事や高級車は、何の意味もなかった。重要なのは、サッカーを研究し、若い選手たちを助け、なにより落ち着いてプレーすることだった。彼が喧嘩をしたり、問題を起こしたり、問題に巻き込まれたという話は一度も聞いたことがない。物静かで、冷静、もちろんその才能もすばらしかった。ブラジル代表で、ロナウド(インテル。レアル・マドリードなどでプレーした)が登場する以前に「フェノメノ(超常現象)」のニックネームで呼ばれていたのは、このバウドだった。
彼は所属したすべてのチームでプレーメーカーを務めた。困ったシチュエーションに陥っても、バウドにボールを出せば、すべての問題を解決してくれた。彼が知っていたのは、ボールを持ってどうすればいいかだけではない。チーム内の込み入った問題も、彼にかかればすぐに解決された。こうしてバウドはどこに行ってもリーダーとなった。彼を獲得したチームは幸いだ。チームの導き手であり、ボールの天才、そして何より彼は若手を指導する才能があった。

ドゥンガ、ロマーリオらと1990年イタリアW杯に出場したバウド photo by Yamazoe Toshio
バウドは振る舞いだけでなく、その外見もサッカー選手らしくなかった。筋骨隆々としたプロスポーツ選手のイメージからは程遠く、小柄で華奢だった。だが、このことは彼にとってプラスに働いた。身軽なために敵の間をすり抜けることができ、悪質なファウルからも逃げることができたのだ。ポジションはボランチだが、中盤から攻め上がることもよくあり、アタッカーの役目を果たすこともあった。彼が40歳近くまで現役でいられたのも、この俊敏さによって多くのタックルを免れてきたことと無関係ではないかもしれない。
バウドは故郷のサンタ・カタリーナ州のフィゲイレンセという小さなクラブでキャリアをスタートし、その後グレミオに移籍。しかし彼が主に活躍したのはヨーロッパである。二度にわたるベンフィカでの所属時には、クラブをリーグ優勝に導き(1988-89、 1990-91)、リーグ最優秀選手にも輝いた。パリ・サンジェルマン(PSG)ではフランスカップを手に入れ、ここでも2度リーグ最優秀選手に選ばれた。
ブラジル代表ではその世代の三指に入る選手とみなされていたが、これはすごいことである。なぜなら彼の世代とは、ジーコやソクラテス、ファルカンなどが活躍したあのブラジルの黄金時代だからだ。代表では不動のレギュラーで、1986年と1990年のW杯でプレー。1989年にはコパ・アメリカで優勝し、1987年にもパンアメリカンカップで金メダルを取っている。また、ソウルオリンピックでは銀メダルを勝ち取った。
90年のイタリアW杯でブラジルは初めて3-5-2でプレーし、バウドは巧みに中盤を指揮した。しかしディエゴ・マラドーナのアルゼンチンに敗れたことで、セバスティアン・ラザロニ監督をはじめ、多くの中心選手が有罪とみなされ、代表から締め出された。もしそうでなかったら、彼は94年アメリカW杯で世界を制するメンバーのひとりとなっていただろう。
90年のW杯では、彼がいかにブラジル代表にとって大事な選手だったかを物語るエピソードがある。ブラジルでは「洗礼水事件」と呼ばれる出来事だ。
それはトリノで行なわれた決勝トーナメント1回戦、ブラジル対アルゼンチンの試合の最中だった。プレーが中断された時、ブラジルのDF、ブランコがベンチに飲み物を要求した。すると、近くにいたアルゼンチンのマッサーが、すかさず彼に飲料のボトルを渡してくれた。これは後にマラドーナがテレビで認めたことだが、その水には体調が悪くなるような成分が仕込まれていた。
実際、ブランコはこの水を飲んで具合が悪くなった。親切と思って受け取ったアルゼンチンからの飲み物に、まさかそんな仕掛けがあるとはつゆほども思わなかっただろう。
そしてマラドーナは、この「特製の水」を飲ませたかった選手のひとりはバウドだったと告白している。
「ブラジルの中盤では一番危険な存在で、ブラジルの攻撃を指揮していたのは彼だったからだ」
しかしバウドはこれを飲みはしなかった。マラドーナに声をかけられても、それを断ったそうだ。
「私は常日頃から、試合中に飲み物を口にすることはほとんどなかった。水分補給は大事だとはわかっていたが、ハーフタイムにコーヒーを飲めばそれで十分だった。何年も経ったあとで、あの時のアルゼンチンの標的は私だったことを知った。そういえばあの試合で、マラドーナに何度も『バルド、バルド』と呼ばれたのを覚えている。しかし私はそれを断り続けた」
代表でバウドは49試合プレーした。その内訳は28勝12敗9引き分け。プレースキッカーも務め、4ゴールを決めている。
ポルトガルで、彼は「魔法使い」とも、「小さな天才」とも呼ばれた。フランスでは当時まだ貧乏クラブだったPSGにタイトルをもたらし、「Le dix de tout yes dix(十全十美)」とも呼ばれた。
彼は選手として成功したが、決してスポットライトを求めなかった。自分のことを語ったりもしない。本当にこの世界では稀有な存在である。そんな彼だからこそ、日本の水はとても合っていたようだ。
「日本で見つけた静けさ、落ち着き、そして謙虚さは、私がずっと探していたものだった。日本では私は本当の自分でいられた。ラフなプレーから逃げ回る必要もない。日本のサッカーは、他の世界のように危険でも、汚いものでもなかった。私は日本で本当に幸せだった」
97年、彼が名古屋グランパスに加入した時には33歳だったが、すぐにチームに欠かせない選手となり、サポーターのアイドルとなった。
(つづく)
バウド
本名バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ。1964年1月12日生まれ。1983年、フェイゲイレンセでデビューして翌年、グレミオに移籍。その後ベンフィカ、パリ・サンジェルマンを経て、1997年のセカンドステージから1998年のファーストステージまでの約1年間、名古屋グランパスでプレーした。ブラジル代表では1986年メキシコW杯、1990年イタリアW杯に出場。1989年のコパ・アメリカでは優勝している。