「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」第2回 中村渉・後編前編はこちら>> プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはや…

「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」
第2回 中村渉・後編

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 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てる新連載「なんで、私がプロ野球選手に!?」。畳職人からプロ野球の世界に飛び込んだ中村渉(元・日本ハム)の後編をお届けする。



2004年の都市対抗準々決勝の東芝戦で完封勝利を挙げた中村渉氏

「それくらいちゃんと捕れよ!」

「なんだと、この野郎!」

 シートノック中、先輩も後輩も関係なく胸ぐらをつかみ合う選手たち。チーム唯一の補強選手に選ばれた中村渉は、殺気立った練習のムードに戸惑いを隠せなかった。

 都市対抗東北二次予選での好投が認められた中村は、宮城県の企業チーム・JTの補強選手に選ばれた。JTは2004年、同年限りの廃部が決まっていた。

「練習からピリピリしていて、すげぇな、野球でここまで熱くなれるんだなって。最後の都市対抗にかける思いが伝わってきました」

 チーム合流当初は力みから本来の力を発揮できずにいた中村だが、大会直前にチームのキャプテンからこんな言葉をかけられる。

「補強選手だからって、チームのためとか関係なく、自分のために投げてくれればそれでいいからな」

 この言葉で、中村は「すごく楽になった」という。都市対抗では初戦の三菱重工名古屋戦でリリーフ登板し、3イニングを無失点に抑えて勝利に貢献している。

 2回戦の倉敷オーシャンズ戦を9対1と快勝して迎えた準々決勝、中村に先発登板という大役が回ってくる。相手の東芝は、その時点で都市対抗優勝5回(現在は7回)の名門だった。

 試合前夜に先発起用を告げられた中村は、不思議な感覚にとらわれたという。

「一瞬、ドキドキと胸が高鳴ったんですけど、焦ろうが落ち着こうが、どちらにせよ試合まで流れる時間は同じ。それなら焦って過ごすより、いつもどおり過ごしたほうがいいなと。その夜を平常心で過ごせて、翌朝はスッキリした状態で起きられました」

 JTの応援スタンドには、最後の都市対抗を見届けようと連日大勢の観客が押し寄せた。JTのワンプレー、ワンプレーのたびに起きる喝采が東京ドームを揺らし、異様な熱気に包まれた。中村は「人が多くて『すげぇ』と思いましたけど、ほどよく緊張感を持ってマウンドに立てました」と振り返る。

 中村は初回に二死から3つの四球を与えたものの、無失点に抑える。その後は「失うものはないので当たって砕けろ」と、開き直って東芝打線を封じていく。

「相手からすると、わけわかんない青森の田舎のピッチャーに抑えられて、『え?』という感じでしょうね。名門のプライドもあるでしょうし、それで攻撃がちぐはぐになったんじゃないですか」

 スカウト陣の集まるバックネット裏もざわついた。まったく無名の左腕が、スピードガンの数字以上に速く見える好球質のストレートを武器に優勝候補を抑え込んだのだ。しかも、所属は「三菱製紙八戸クラブ」という無名のクラブチーム。中村が畳屋で働いていることを知っていたのは、日本ハムのスカウトくらいだろう。

 序盤から飛ばしたため終盤には球威が落ちたが、中村は最終回まで投げ切る。2対0、5安打シャットアウトでJTをベスト4進出へと導いた。

 この東芝戦の快投が中村の人生を変えた。その後は日本ハム以外のスカウトからも注目されるようになり、ドラフト前には複数球団からの調査書が届いた。中村は「だんだんと目標に近づいているな」と実感した。

 とはいえ、ドラフト会議当日は「期待より不安100パーセント」と揺れる心境で迎えた。八戸市の三菱製紙社内の一室に監督や部長と詰め、ドラフト会議のテレビ中継を見守った。日本ハムの4巡目指名で「ナカムラ」の名前が呼ばれると腰を浮かしかけたが、よく聞くと「マイケル中村(MICHEAL)」。思わぬ"中村違い"に、関係者は「なんだよ、マイケルって!」と苛立ちを隠せなかった。

 それでも、日本ハムの7巡目に中村渉の名前が無事に呼ばれた。中村は大学卒業後の3年間の孤独なトレーニングを思い出し、「コツコツやってきたことが報われて、本当によかった」と喜びを噛みしめた。一度は「家業を継ぎたい」と申し入れていた父には合わす顔がなかったが、父も「おまえがやりたいようにやれ」と後押ししてくれた。

 だが、「1年目から5~6勝はいけるかな」と淡い期待を抱いて飛び込んだプロの世界で、中村は「よくそんな甘いことを思えたな」と振り返るほど鳴かず飛ばずだった。肩やヒジを痛めた時期もあったが、長期離脱するほどの重傷ではない。中村は「目標設定の甘さがすべてだった」と断ずる。

「僕はプロに入るのが目標で、プロに入ってから何勝したいとか、何億稼ぎたいといったものがなかった。そんな目標があれば、そのために何が必要なのかを逆算して練習できたはずです。ほかの人はもっと具体的な目標があって、実績もあるのに。僕は『プロになりたい』という、まるで小学生のような幼稚で漠然な目標しかなかった」

 プロではいい思い出が残っていない。夜の室内練習場で自分の苛立ちをボールに込め、力任せにネットに叩きつけた記憶ばかりが残っている。2年目の秋から生き残りをかけてサイドスローに挑戦、フェニックスリーグで結果を残した時期もあったが、3年目の一軍キャンプで結果を残せず二軍に落とされた。

 同期入団のダルビッシュ有(現・パドレス)が15勝5敗の好成績でリーグ連覇に貢献する陰で、中村はひっそりと戦力外通告を受け、プロ球界を去った。

 日本ハム退団後は青森に戻った。八戸市で会社員として勤める傍ら、古巣の三菱製紙八戸クラブでプレーした時期もあったが、「もう一度プロに戻りたいという思いはなかった」と長続きしなかった。2015年から実家の中村畳工店に戻り、いずれは8代目として父の後を継ぐ予定だ。

 かつては、「野球を続けたいから実家で働く」という消極的な姿勢だった。だが、プロ野球の世界を経験した今は違う。「畳のよさを伝えたい」という使命感に燃えている。

「人間が生きていくのに水、食べ物、ガス、電気は必要ですけど、畳って必ずしも必要ではないですよね。でも、昔から日本人のDNAに畳のよさは刻まれていると思うんです。畳はゴロゴロと安らげる、一家の団欒の場になっていました。今は生活様式が変わって畳の注文数も減っているんですけど、少しでも畳のよさを知ってもらいたいんです」

 畳に触れる機会を増やすため、知り合いの革職人とタッグを組んで、バッグや財布などの革製品に畳をスタイリッシュに組み込む商品を開発した。

「おかげさまでオリジナリティーがあると好評をいただいています。国産のいいイグサを使っているので、時間が経過するといい感じに変色するんです。長く使うものだからこそ、時間とともに楽しんでいただけるといいなと」

 かつて「どうせ自分なんて田舎者だし」と卑下した姿は、今はもうない。本業に勤しむ傍ら母校・八戸西の野球部コーチを務め、2020年秋に同校は東北大会ベスト8に進出。今春の選抜高校野球大会では21世紀枠として甲子園に初出場した。

 母校の後輩に、中村は人生を変えた東芝戦の話をすることがあるという。

「高校生は試合で緊張して、自分の力を出し切れない子も多いと思います。そんな子には東芝戦の前の日、自分がどう過ごしたかを話すんです。あの夜、平常心になれたことでいいスイッチが入った。ほどよく緊張感を持って、楽しく投げられた。あれは自分にとって大きな教訓になっています」

 畳屋からプロへと羽ばたいた変わり種サウスポーは、青森の地で畳と野球の奥深さを伝え続けている。

(おわり/文中敬称略)