王者の源流~大阪桐蔭「衝撃の甲子園デビュー」の軌跡第2回第1回はこちら>> 現在、大阪学院大高で総監督を務める森岡正晃は…
王者の源流~大阪桐蔭「衝撃の甲子園デビュー」の軌跡
第2回
第1回はこちら>>
現在、大阪学院大高で総監督を務める森岡正晃は、今も選手たちに伝えていることがある。
「最後の夏くらいオール3年生でメンバーを組みたいやろうけど、下級生が多く入る年だってあるんや。せやけど、勝っていても負けていても、必死に後輩を応援できる先輩になれ」
これは、森岡が大事にしている教訓でもある。選手時代もそうだったし、大阪桐蔭の部長時代もそれをチームに浸透させた。
「日本一になれる」と確信する1年生のうち、井上大と萩原誠、兵庫から来た澤村通が主力、控えには白石幸二と、4人が夏の大阪大会でメンバー入りを果たした。
主将だったPL学園時代、「力がある人間がレギュラーになるべき」と、エースの座を下級生の西川佳明(南海ほか)に譲った経緯もある森岡は、3年生と2年生に頭を下げた。
「コイツらはおまえらの代で甲子園に連れていきたい」
上級生全員が本当に納得してくれたかはわからない。ただ、高圧的ではなく選手目線で訴えかけたことで、多くが「わかりました。悪い伝統をなくしましょう!」と賛同してくれたと、森岡が今も感謝する。
「正直『こいつらを1年からメンバーに入れて甲子園に近づけたい』という思いは強かった......。当時の3年生と2年生にもやんちゃな子はおったんですけど、後輩の実力を認めて一生懸命サポートしてくれました」
1989年の夏は、大阪府大会ベスト16で四条畷にサヨナラ負けを喫したが、大阪桐蔭には上下関係のないスタンスが根付いていった。
1期生で中日に入団した今中慎二が寄贈してくれたウエイトトレーニング場はいつでも利用可能で、水分補給も自由にできた。「3年は神、1年は奴隷」といったヒエラルキーが存在していた当時の高校野球において、大阪桐蔭の環境は革新的だった。井上は言う。
「1年の頃は、当時の奥野(裕明)キャプテンがチームをまとめて、やりやすい環境をつくってくれたと思います。その点に関しては、当時からすごく柔軟でした」

センバツ初戦の仙台育英戦でノーヒット・ノーランを達成した大阪桐蔭・和田友貴彦
同年秋になると、さらに多くの1年生がメンバーに入った。彼らが経験を積み、パフォーマンスを最大限に発揮できた背景には、監督である長澤和の存在も大きい。
長澤は、関大一から関西大に進み、山口高志(元阪急)らとともに、1972年の全日本選手権、明治神宮大会で優勝。社会人野球の大丸では7年連続して都市対抗野球に出場し、1977年には日本代表選手としてニカラグア遠征も経験した。いずれも4番打者を務めた強打者だった。
そんな長澤は、とくに自主性を重んじていた社会人野球に強い影響を受けたという。だからこそ、1988年に大阪桐蔭で初めて指導者となってからも、そのスタイルを貫いた。
投手、打者関係なく、型にはめることなく、本人のスタイルを尊重した。長澤がその狙いを説く。
「バッターでいうと、同じフォームばかり並んでいたら、ピッチャーは決まったタイミングで放ればいいので、投げやすくなる。なので、『脇を締めて打て』や『こういうフォームで投げろ』など、一度も言ったことはありません」
森岡と長澤が築いた土壌で、急成長を遂げたひとりが和田友貴彦だ。
多くの選手がボーイズリーグなど硬式のクラブチーム出身のなか、和田は和歌山・伏虎中の軟式出身である。中体連では近畿大会まで出場し、和歌山では名の知れた投手であったが、大阪では無名だった。
もともとは地元の公立校を志望していたが受験に失敗。かねてから目をつけていた森岡から「再募集の試験で大阪桐蔭を受験しないか?」と誘われ、言われるがまま受験し、入学した。
「大丈夫かな?」
これが和田の偽らざる第一印象だった。
「グラウンドも寮も山の上で『ホントにこんなところで野球やるの?』って(笑)。あとから聞いたのですが、(コーチの)有友(茂史)先生は『すぐ辞めるだろうな』と思っていたようで、同級生からも『おまえがあんなピッチャーになると思わなかった』って言われますから」
この世代のエースの候補は、背尾伊洋(せお・よしひろ/元近鉄など)だった。和田と同じく中学時代は部活動の軟式出身ではあるが、「何度もノーヒット・ノーランを達成した」といった逸話があるほど大阪では有名な投手で、同級生の間では「オレらの代のエースは背尾」で一致していた。
長澤も和田について「見るからに細くて、ひ弱な感じがした」と印象を受けたほどで、ストレートの球速も120キロ程度。そんな男が「化けた」背景には、2つの大きな理由がある。
ひとつは投球フォームの改造だ。中学まではオーバースローで、制球も安定しなかったが、高校1年夏にスリークォーターに変えた。きっかけは、ピッチングコーチも兼任していた森岡からの「好きに投げていい」というアドバイスだった。森岡が明かす。
「一番強くボールを投げられる腕の位置を確認するには、遠投がいいんです。和田の場合、遠投での腕の位置が横気味だったんです。だから『もっと腕を下げてみたらどうや?』と」
現役時代はアンダースローだった指導者からのアドバイスよって腕の位置を下げた和田は、それまで安定しなかったコントロールが劇的に改善された。さらに同時期、寮の規則違反でグラウンドの草刈りを命じられたことが、結果的に和田の覚醒をアシストした。
スナップを利かせながら、テンポよく鎌で草を刈っていく。この感覚を身につけたことで、スライダーを習得できたと和田が笑う。
「これ、本当なんです。ちょうどこの時期、フォームも変えて真っすぐもそこそこ投げられるようになっていて、『何か変化球を投げられないかな?』と。草刈り期間が終わってからスライダーを投げたら、すごく曲がるようになっていたんです」
制球力向上と変化球習得は"偶然の産物"だったかもしれないが、球速アップは地道な努力が実を結んだ。
グラウンド周辺のランニングでは、長澤の「握力をつけさせる」目的のもと、両手にレンガを持ちながら走った。また、約30メートルの坂道ダッシュを1日100本こなすことで、球速はもちろん体力も養われていった。
彼らが2年の夏、大阪桐蔭はまたも大阪府大会ベスト16で北陽に敗れた。だがこの試合、2年生で唯一マウンドに上がった和田を「オレらの世代は和田がエースになるんだろうな」と、チームメイトは認めるようになっていた。
最上級生として迎えた秋季大会初戦の藤井寺工戦。キャッチャーの白石は、和田のパフォーマンスに度肝を抜かれた。
「スライダーがやばいくらい曲がるし、ストレートも相当速くなっていました。監督は『和田と背尾は両方エース』という言い方をされていましたけど、あのあたりから和田が覚醒していったんじゃないかな......」
和田と背尾の2枚看板。打線も井上と萩原を軸とした打線がうまく機能した。初戦を1−0の僅差で勝利し勢いに乗ると、初めて大阪を制した。
近畿大会でも初戦で和田が報徳学園(兵庫)を完封。準決勝で天理(奈良)に0−1で惜敗したが、翌年春に開催されるセンバツ大会の出場を確実なものにした。
そのセンバツ大会において、当時の高校野球専門誌での大阪桐蔭の評価は「A」。近畿大会で優勝した天理など、出場32校中「A」評価は6校のみだった。
「大阪で1位だったんでね。あの時から甲子園に行けるどころか、『全国制覇もできる』ってみんな思っていたはずです。だって、打つのも投げるもの異常やったんでね、ウチら」
主将だった玉山雅一が当然と言わんばかりに語る。とはいえ、全国的にはまだ無名だった大阪桐蔭だが、主将の自信が過信ではないことに気づいたのが1991年3月28日。センバツ初出場の大阪桐蔭の力を目の当たりにした観客は度肝を抜かれ、甲子園は揺れた。
狼煙(のろし)を上げたのは、萩原のバットだった。初回に先制タイムリーを放つと、4回にはバックスクリーン右に弾丸ライナーで放り込んだ。「自分でも手応えのある一発でした」と自画自賛するほどの完璧な一発もあり、仙台育英(宮城)を相手に4回までに10-0と圧倒した。
だがこの試合の最大の衝撃は萩原を筆頭とした強力打線ではなく、エース・和田の快投だった。
自身にとっても、チームにとっても初めての甲子園。それでも和田に緊張はなかったという。生命線であるストレートとスライダーが面白いように決まった。事前のミーティングで相手打線は強力だと聞いていたが、「普通に投げていれば抑えられる」と、淡々と腕を振った。
確信に近い手応えをつかんだのは4回だった。先頭を四球で歩かせた直後の打者を1球で併殺打に打ち取った。「今日は調子がいいんだな」と、和田の気分が乗っていく。マスクを被る白石も、和田の快投に酔っていた。
「右バッターに打たれる心配はしていなかったんで、左バッターだけ警戒していました。スライダーのキレは完璧だったんですけど、当てられた打球がポテンヒットとかになるのが嫌だった。だから、高めの真っすぐを使いながら、うまくリードできました。なんか和田が投げているんですけど、自分が抑えているようで楽しかったですね(笑)」
凡打の山を築き、9回二死までノーヒット。そして27人目の打者への101球目。打球が三遊間の深い位置に飛ぶ。
「あっ、セーフだ」
和田は直感的に思ったが、捕球したショート・元谷哲也の好返球が勝り、間一髪でアウト。内野ゴロ14、内野フライ1、外野フライ2、奪三振9、四球1。センバツ史上13年ぶり、史上10人目のノーヒット・ノーラン達成となった。
「『とりあえず勝てた』っていう気持ちのほうが強かったと思います。そこにノーヒット・ノーランがついてきたっていう感じですね」(和田)
14安打10得点にノーヒット・ノーラン。完璧な勝利で甲子園1勝目を挙げた大阪桐蔭。
だが彼らは、それがさも当然であるかのように、帰りのバスで「和田、あんま調子に乗んなよ!」と盛り上がる。そして快挙を達成したエースは、しっかりと上を見据えていた。
「僕ら、優勝すると思いました」
衝撃的な勝利で、全国制覇への機運は高まっていった。
つづく
(文中敬称略)