王者の源流~大阪桐蔭「衝撃の甲子園デビュー」の軌跡第1回「準備はどうや? 今年も上に行けそうやな」 センバツ前、長澤和雄…

王者の源流~大阪桐蔭「衝撃の甲子園デビュー」の軌跡
第1回

「準備はどうや? 今年も上に行けそうやな」

 センバツ前、長澤和雄は大阪桐蔭の監督を務める西谷浩一に電話で激励した。大阪桐蔭が甲子園出場した際には必ずそうすると決めている。

「出たからには、みなさんから『優勝候補』と言われますから。頑張らせていただきます」

 自信や不安といった感情を表に出さず、西谷は淡々と長澤の言葉を受け入れるという。

「西谷は謙虚ですわ。せやけど、実際は負けん気が強いですから。『何回でも優勝したい』と思うとるくらい貪欲な男です」



1991年夏に初出場・初優勝を飾った大阪桐蔭ナイン

 春夏合わせて8度の全国制覇。平成に入ってこの優勝回数は、他を圧倒する。西谷は大阪桐蔭を「最強」と評されるチームにまで押し上げた。関西大の先輩にあたり、1993年に指導者として同校に呼んだ経緯がある長澤が、自分のことのように誇るのも頷ける。

 その名門校が、創部4年目にして甲子園初出場初優勝の偉業を打ち立てたのが1991年の夏。その時の監督が長澤だった。

「もう、30年経つんですね」

 おっとりとした声色に、感慨が帯びる。

「今の大阪桐蔭は全国から優秀な選手が来ますし、チームのレベルはあの頃以上に高いです。当時はPLとか強豪校がどんどん補強していましたけど、選手は自分の力を出せるところに行かないとダメやと僕は思うんです。そんななかうちに集まったのが、あの子らなんです」

 1991年以前の大阪と言えば、PL学園の全盛期だった。1985年夏には桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」で5度目の全国制覇。87年には立浪和義らタレントを揃えた世代が、史上4校目の春夏連覇を達成した。

 そんな最中の1988年、大阪産大高大東校舎が独立し、大阪桐蔭が誕生した。この時、のちに初優勝を遂げるメンバーは中学3年生だった。関西のボーイズリーグなどで名を馳せていた者がこの新設校への進学を選び、高校3年生の1991年に衝撃的な甲子園デビューを飾った。

 当時、主将を務めた玉山雅一が言う。

「PLはもちろんやし、上宮、近大付属とか強いチームがあるなかで、創部4年で甲子園に出て、夏に優勝できたっていうのは、僕らの世代がハマったということです。メンバーも何もかも、すべてのことがピタッとね」

 なぜ彼らは、産声を上げたばかりの高校に集結できたのか? 大阪桐蔭の源流を辿れば、じつはPL学園が深く関係している。

 鶴岡泰の指揮のもと、PL学園が初の全国制覇を遂げた1978年の夏。当時1年生だった森岡正晃は、涙を流しながら深紅の大優勝旗を手にする主将・木戸克彦の雄姿を、甲子園球場のスタンドから目に焼きつけていた。

「優勝旗を持てるのはたったひとりや。この重みと涙は、キャプテンを経験したからこそわかるもんなんや」

 木戸の言葉に心が震えた森岡は「俺もPLでキャプテンになる」と決意し、実現させた。ただ、自身は「はざまの世代ですから」と自嘲するように、森岡が3年生の1980年は甲子園出場を果たしていない。しかし、2学年上の西田真次(現・真二)と木戸のバッテリー、1学年上の強打者・小早川毅彦などの先輩たちはもちろん、甲子園優勝を経験した1学年下の吉村禎章や2学年下の森浩之ら、のちにプロに進む選手たちとともにプレーできた経験を糧とした。

「僕の野球の原点はPLでの3年間です」森岡はそう断言する。

 恩師である鶴岡が、PL学園の次に指揮した高校が大阪産大高だった。森岡は近畿大時代に「教員免許を取れ」と恩師から勧められ、卒業と同時に大東校舎の教師として指導者人生をスタートさせた。そして、大阪桐蔭の誕生を期に、野球部の部長としてチームの強化を託されたのである。

 創部1年目の1988年。1期生の今中慎二が中日ドラゴンズからドラフト1位指名を受けたとはいえ、彼らの世代が夏の予選で初戦敗退だったように、戦力は乏しかった。

 名門出身の森岡は、選手の基礎能力の高さがチーム力に直結することが骨身に染みていた。PL学園には、のちに「伝説」と称される名スカウト・井元俊秀がいた。同校での監督経験もある傑物の眼力は、OBたちの錚々たる顔ぶれを見れば容易に想像がつく。井元は観察眼や決断力に優れ、なによりも行動が早かった。PL学園の血が流れる森岡は、有望選手獲得のため奔走した。

 真っ先に目をつけた選手が、大東畷ボーイズの井上大と萩原誠だった。「吉村のようなバッティングセンスがある井上」と、「清原和博のようなスラッガータイプの萩原」にとことんほれ込み、彼らが中学1年の時から追っていた。

 ある時、中学野球の関係者から、井上の両親の行きつけの中華料理店を教えてもらった。選手の親に交渉することは禁止されていたため、あくまで偶然を装って通い、店主にはそれとなく井上夫妻のことを尋ねていた。

 はっきりと覚えている。3回目だ。当時コーチだった有友茂史とともに、店の暖簾をくぐると井上夫妻がいた。

「私たちに何かご用ですか?」

 相手から切り出されたため、ふたりはありったけの熱意を込めて「大くんを大阪桐蔭で面倒見させてください!」と頼んだ。

 井上の両親は、観念したように森岡と有友にこう告げたという。

「今までたくさん店に来てくれていたみたいやし、話も聞かせてもらいました。うちの大を先生たちに預けますから、3年間頼みます」

 有友と喜び勇んで帰路に就いたあの日のことを、森岡は忘れられないと言う。

 それは決して大人たちの都合ではなく、井上本人が望んだ道だった。本音を言えばPL学園や上宮を希望していたが、具体的な話はなかったという。そんななか中学生なりに考え、大阪桐蔭への進学を選んだ。決め手は、森岡からの言葉だったと井上は明かす。

「『甲子園だけが高校野球じゃない。井上くんには長く野球をやってもらいたい。そのために、うちで一緒にやってくれないか?』と言われまして。高校球児なら甲子園を目指すし、僕ももちろん行きたかったですけど、『そういう考えをする人がいるんだ』って。だったら、大阪桐蔭で野球をやってみようかな、と」

 そんな井上の想いを森岡に伝えると、少し照れくさそうに返す。

「それしか言えませんでしたから。甲子園に出ていない学校なのに、それを出したところで中学生は響かないと思ったんで......。僕はPLから上のステージに進んで野球を続けている人をたくさん見ていますから、『長く続けてほしい』と伝えさせてもらっただけです」

 森岡は、その後に起こる出来事の「きっかけは井上」と言い切る。

 意中の井上が大阪桐蔭への進学を決めたのは中学3年の4月頃だという。ちょうどその頃、大東畷ボーイズは春季全国大会で初優勝を遂げていた。その強豪チームの4番に君臨していた打者が「無名の高校へ行く」という情報は、瞬く間に知れ渡った。

「大阪桐蔭いう高校、本当に行くんか?」

 玉山はその情報を仕入れると、すぐに井上の自宅に電話し、真相を確かめた。

「行くよ。家から近いし」

 井上は高校の所在地である大東市出身で、そのあっさりとした返答に玉山は困惑した。

 玉山は春季全国大会決勝で、大東畷ボーイズに敗れ準優勝となった京都ファイターズの主将だった。そんな彼が、萩原や天理に進むこととなるエースの谷口功一(元巨人など)以上に認めていた井上が、創部間もない大阪桐蔭に進むことが不思議だったが、すぐ合点がいった。

「中学から有名やった井上が、森岡先生から誘われてたのは知っていました。僕もそうでしたからね。もう、すごかった! 今でいう違反スレスレです(笑)。あの頃から面白い先生やったですよ、ホンマに」

 地元志向が強く、京都を離れるつもりがなかった玉山は、中学1年から自分を見続けていた森岡を遠ざけていた。それでも大阪桐蔭の野球部部長の執念はすさまじく、四国で開催された大会まで追ってきたことがあった。そのことに驚きつつも、玉山は場外ホームランで存在感を見せつける。

 試合後、いきなり森岡から声をかけられた。

「絶対、大阪桐蔭に来いよ!」

「嫌や!」

 そんな意固地だった中学生が観念し、大阪桐蔭に進んだ背景に受験の失敗があった。「ほぼ白紙で出したんです。いくら何でもアカわね、ダメな中学生でしょ」と頭を掻くが、心根では進学先の決意は固まっていたのだろう。この一報を知った森岡からまたもアプローチされ、玉山はようやく首を縦に振った。

「井上も行くと言うし、『そこでえっか』っちゅうぐらいのノリでした」

 森岡は井上が打線の中心なら、玉山はチームの核となる存在だと、青写真を描いていた。

「木戸さんの選手をまとめる力、正義感の強さを知る僕にとって、玉山は『個性的なチームをまとめられるとしたら、コイツしかいない』と思っていました」

 風は、大阪桐蔭へと吹き始めていた。

 井上と玉山の決断。府外の強豪校への進学が内定していた萩原も「井上が行くなら」と、急遽進路を変えた。中学野球でトップクラスの実力を誇っていた彼らに導かれるように、ほかの有望選手も無名校の門を叩いた。誰もが中学時代はチームの主力を張った実力者たち。創部2年目の野球部が本格的に動き出す。

 1989年4月。大阪桐蔭に入学してきた精鋭たちを前に、森岡は堂々と言い放った。

「このメンバーで日本一になれんかったら、この先、もうなれないと思って頑張れ」

つづく

(文中敬称略)