「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第16回 城之内邦雄・後編 「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、そ…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第16回 城之内邦雄・後編 

「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。1960年代に巨人のエースとしてマウンドに君臨した城之内邦雄(じょうのうち くにお)さんは、特に現役時代の前半で驚異的な成績を残した。

 2011年春に行なわれたこのインタビューは、当時、澤村拓一(現・レッドソックス)が城之内さん以来の"新人開幕投手"となる可能性があったことがきっかけのひとつだった。しかし、実際には澤村の開幕投手は実現せず、それだけに開幕投手を務めただけでなく、新人として24勝を挙げた城之内さんのすごさは今も際立っている。



1966年の日本シリーズ前に並んで練習する城之内邦雄(手前)と金田正一(写真=共同通信)

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 千葉の佐原一高(現・佐原高)で自身が決めた高校野球での目標を達成し、城之内さんはノンプロの日本ビールに進んだ。当時、チームのエースだった北川芳男が高校の先輩で、入社を後押しされたという。北川はのちに国鉄(現・ヤクルト)に入団して、1963年に巨人に移籍。両者はプロでも同僚になったわけだが、それはともかく、社会人ではどのような4年間だったのか。

「ピッチャーの練習メニューはそんなになくて、さっき言った一球入魂。常に試合のつもりで思い切ってほうる。抜いてたくさん投げたって意味がないってことで、1日にほうるのは140から150球。あとは走りっぱなし。特に自分の得意な短距離をどんどんやった。

 グラウンドのバックネットの後ろに坂道があって、そこをよく走った。上りは全力、下りは六分、七分でね。それでまた夜は縄跳びやって、シャドーピッチングやって、イメージして。ちょっとフォームが小さかったから、ちょっと大きくして」

 とっさに、投球時の映像が思い出された。そのフォームは一度でも見たら頭に焼きつくほど豪快で、特異で、腕の振りはスリークォーターだが、相手打者に背中を向けるぐらい腰を回し、腕を巻き込むようにして首を振る。独自に作られたものとしか思えない。

「独自も何も、高校のときは自己流でね。それがノンプロ行って、北川先輩のフォームをいくらかイメージしながら作っていった。あれもまた、ゆっくりぃ速くだから、縄跳びが生きたんじゃないかなあ」

 まさに、ゆっくりと腰を回しつつ、素早く切り返してガッと投げるイメージ。腕の振りだけでなく、フォーム全体を思い浮かべたら、二重跳びの腕の回し方と結びつくように感じた。ある資料では、城之内さんのフォームが〈トルネード投法の先祖〉と称されていて、それについて尋ねようと思ったところが、話は切れ間なく続けられた。

「ちゃんとしたフォームになったのは3年目の夏ぐらいかな。その頃には二番手ピッチャーになれて、4年目の春まではよかったよぉ〜。滅多に点取られなかったもの。あるときは2試合でヒット1本っていうのをやったこともある。ははっ。だから3年目は防御率1.10ぐらいで、4年目は0.50ぐらいだもん。それぐらいよかったの、当時は」

 社会人時代の数字がこれほど詳しく語られるケースも過去にない。中学時代の補欠、縄跳びも含めて、ことごとく耳に新しい。

「3年目にスカウトが来るようになったけど、俺、プロでやるっていう考えもなかったの。プロって、うんとレベルが上だと思ってたし、誘ってくれた先輩に迷惑かけちゃいけないと思って一生懸命やってただけ。

 練習も、走るのも、強制じゃなく好きでやってたからどんどんできて、自分で加減もできた。高校で1年間、ノンプロで4年間、合わせて5年間、そういう練習ばっかり。だから、プロ入って体力は負けなかったんだよ」

 不意に、「新人開幕投手」の真相が見えた気がした。ピッチングコーチの方針、ライバルとの競争はいわば"氷山の一角"で、アマチュア時代5年間の練習の成果によって、体力抜群の城之内さんがなるべくして開幕投手になったのだと思えたとき、ひとつの質問が浮かんだ。巨人に入団しての目標は何だったのか。

「だからほら、1年目でライバルに勝っちゃったから。それで目標は達成されたから、あとはそのまま行っちゃったの」

 肩透かしを食らったような気になったが、1年目でエースの座にのし上がった城之内さんは2年目の63年を除き、67年までずっと勝ち頭だった。実際に「そのまま」エースであり続けたわけだし、その間、巨人は65年からV9時代を迎えることになる。

 V9を支えたのはONを中心とした打線、投げるほうでは堀内恒夫、高橋一三と言われがちだが、それ以前からエースだった城之内さんの存在なくして果たせなかったのだ。

「ただね、単にそのまま行ったわけでもない。4年目にカネさんが入ってきて、また競争ができてよかったんだよ」

 65年、金田正一(まさいち)が国鉄から巨人に移籍。その時点で通算353勝を挙げていた大投手をライバルに定めたとは、すご過ぎる。

「川上さん、喜んじゃってよぉ。『金田、金田』って大変なんだよ。だってよ、通算で350も勝ってりゃ、年間30近く勝てると思ったんじゃない? だから俺、負けられないなと。大投手だからって、話を聞いて参考にするとかよりも、やっぱり競争、勝負だよ。『1勝3000円でやろうか』って言って。で、あの人が来て2年目、成績悪かったろう?」

 持参した資料に視線が向けられた。66年、金田は4勝に終わっている。

「だろ? 俺が21勝ったんだよ。17の差なんだよ。1勝3000円だから5万1000円なんだわな。実際、カネさんに『おまえ、これやるよ』って言われたんだ。でも俺、『記念に何かください』って言ったんだよ。そしたら、洋服作ってくれてね」

 つい最近あったことのようにうれしそうに話す様子を目の前にして、両投手の関係性が球史に刻まれた出来事に思い当たる。金田が400勝を達成した試合、城之内さんが先発していた。

「ああ、その日は運よく俺が投げただけ。あのときは川上さんが『全部、金田に協力しろ』と。当時のカネさんは先発して勝つのが難しくなってたから、先発ピッチャーが4回まで投げて勝ってたら交替、って決まってた。それがたまたま俺のときだったの」

 球史に刻まれた、などと表現したくなるのはこちらの勝手な思い込みに過ぎなかったようだ。城之内さんはにわかに冷めていた。400勝達成に貢献した、という気持ちはそれほど強くなく、金田から感謝の言葉もなかったという。

「でもね、俺が巨人をクビになって、評論家を2年やったあと、カネさん、ロッテに誘ってくれたから」

 腰の故障の影響もあって69年以降は出番が減り、71年限りで巨人を退団した城之内さんは、2年間のブランクを経て、金田監督率いるロッテで現役に復帰している。僕自身、その復帰の経緯が謎めいていると感じたことも、会いに行くきっかけのひとつとなっていた。

「評論家だからロッテの練習を取材に行ったらね、カネさんが『キャッチボールやろう』って言うからやったんだよ。そしたら、『おまえ、まだやれんじゃねえか?』って。言われてすぐその気になったってのは、それだけ自分で悔やみがあったんだな。

 俺、巨人をやめた年は腰も治ってて体は完璧だったの。なのに使ってもらえなくて、試合に出られると思って行ったらバッティングピッチャーやらされて。前よりも力落ちたの自分でわかってたけど、すごいきつかった。最後は苦労したんだよ」

 V9を支えたエースがそんな処遇を受けていたとは......。僕は相槌さえ打てずにいた。

「それでも、バッティング練習では一生懸命ほうってやった。だから選手は俺の気持ちをわかってくれたと思う。いい勉強させてもらったよ」

 ふと、文献資料の記述が頭をよぎる。〈川上管理体制下の巨人ではサムライ城之内も生き残ることができなかった。誇り高き一匹狼でもあった本人もその立場を自覚していた〉とある本に書かれていた。これは最晩年の処遇の話につながるのではなかろうか。

「つながるかもわからない。あのね、俺、最後までコレができなかったんだよ」

 傘を持つように拳が握られ、テーブルの上にぐるぐると円が描かれた。

「相手に迷惑かけちゃいけないと思って先輩を頼ることもなかったし、練習でもなんでも一人でやって、一人の行動が多かったし。それで一匹狼になっちゃった」

[エースのジョー]は、孤高のエースでもあった──。僕は思わず「かっこいい生き方だと感じます」と口走っていたが、城之内さんはそれに反応することなく話を続けた。

「で、ロッテに行ったわけだけど、俺、カネさんと競争したでしょ? そういう性格、知ってるから、監督としては少しでも投手陣の刺激になりゃいい、と思って獲ったんじゃないか。したら、その年、ロッテは日本一になった。俺は1勝もできなかったけどね」

 74年、城之内さんは5試合で0勝0敗。やはりブランクが影響したのだろうか。さすがに、評論家時代は走ることも十分にできていなかったと思われる。

「だからボールが軽くなっちゃったな。足は上がっても進まないんだよ。調子のいいときは足上がって、歩幅が広いんだけど、足の力が弱くなって狭くなっちゃった。それで余計わかったんだ、走ることの重要性が」

 同年限りで現役を引退した城之内さんは、ロッテの二軍投手コーチに就任。それも、2年目に二軍監督と意見が合わなくなって辞任したそうだが、以後もロッテでスカウトを務めたという話から落合博満を担当して指名に至った経緯が語られた。

 さらに話題は、のちに巨人でスカウトを務めたときのアマチュア選手を見る目へと移行した。そのなかで一貫していたのは「いかによく走れるか。いかに走って体を強化するか」という考え方で、終始、「走ることの重要性」が力説された。

「走るって、誰にでもできることじゃない? ただね、これはやさしいようで難しい。じゃあ、本当に走るってどういうことか。たとえば、50メートル6秒2かかるとするでしょ? それを6秒1か、6秒0で走るのが本当のランニングなの。6秒3とか4で走ってたら、本当のランニングじゃないんだよ」

 野球に限らず、すべてのスポーツに通じていると思うが、突き詰めれば、自分の限界を超えようとすることが大事。

「うん。それをやれるかやれないか。六分、七分じゃなくて、10の力。10の力で走って初めて力がついてくる。自分できついところを超えると、どんどん力がついてくる。それをやれるかやれないか。投げるのでも、だんだんだんだんやっていって、きつくなるといい投げ方を覚えていくものなの。だから、それをやれるかやらないか」

 何かスイッチが入ったかのように、城之内さんの口調が俄然、速度を増していた。気がつくと2時間近く経過していて、コーヒーはとうに飲み干され、グラスも空になっている。しかしまだ聞けていないことがあった。初めに「澤村は走ることが大事」とうかがっていたが、できれば、試合で投げるときに大事なことも聞きたい。



走ることの大切さを何度も説いた取材当時の城之内さん

「いちばん大事なのは逃げないことだよ。逃げたら、ボールを置きに行ったりしなきゃなんない。要は、1球でも数少ないのがいいんだからね。140で終わるのと100で終わるのは全然違うもの。ということはやっぱり、澤村も一球入魂だな。

 で、一球入魂で行くためには今なら中5日、中6日の調整も大事だけど、もっと大事なのは暇さえあれば走ること。それも六分、七分じゃダメよ。10の力でな、走れ!」

 あくまでも、どこまで行っても走ることに帰結する。その徹底ぶりに気圧(けお)されて言葉に詰まっていると、城之内さんは再び持参した資料に視線を送り、笑みを浮かべて言った。

「もう、だいたい、話はいいの? 俺みたいな話、珍しいだろ?」

 珍しいどころではなかった。走ること、練習内容をこれほど詳しく話した野球人は[エースのジョー]だけなのだ。

「だって、俺は走って練習するしかなかった。練習は不可能を可能にするっていうけど、中学で補欠だった俺がプロの選手になれたんだから、そのとおりだよね。やりゃあできると。で......、もう一杯、コーヒー飲む?」

(2011年4月2日・取材)