ワールドカップ・敗北の糧(1)「敗北から学ぶことなど何もない。勝ち続けることがすべてだ」 これは世界最高峰のサッカー選手…
ワールドカップ・敗北の糧(1)
「敗北から学ぶことなど何もない。勝ち続けることがすべてだ」
これは世界最高峰のサッカー選手、リオネル・メッシの言葉である。かつてのインタビューのものだが、勝利に対する強迫観念は人並外れていた。
「僕は全部勝ちたい。どれか(のタイトル)を選ぶなんてとてもできないね。どうして、そこまで勝つことにこだわれるのか? それはアルゼンチン人だからさ。僕らはどんな試合でもすべて勝つ、という気持ちでやる。アルゼンチン代表だったら、それはなおさらでしょ? 負けたら? そんなこと、僕は想像もしない!」
絶対的な勝利主義はアルゼンチンサッカーの特色だとも言う。勝利するたびに、成長する。負ければ、あとがない。それはひとつの真実だろう。
アルゼンチンという国は、その気概で世界サッカーを牽引してきた。厳しい生存競争によって、ディエゴ・マラドーナのような不世出の天才が生まれ、ディエゴ・シメオネのような「勝利の指揮官」を生み出した。敗北を認めない強固なメンタリティが動力だ。
一方、日本サッカーは、敗れるたびに強くなってきた歴史がある。挫折は改善を生んできた。負けることで足りていないものを知り、自らを追い込み、鍛えられる。結果、勝つよりも強くなれる。
つまり、敗北は糧だ。
短期集中連載「ワールドカップ・敗北の糧」では、日本代表が敗れる姿を追った。それによって、日本サッカーのターニングポイントを示す。

1998年フランスW杯で国際舞台にデビューした中田英寿
サッカー日本代表は、「弱者」の時代を長く過ごしてきた。ワールドカップは、アジア予選を一度も勝ち抜けなかった。1994年アメリカワールドカップ出場をかけたアジア最終予選。有名な「ドーハの悲劇」は、最も"世界"に近づいた瞬間だったのである。
「世界に通用するか?」
それはずっと日本サッカーのテーマになってきた。ブラジルから戻ってきたカズこと三浦知良は、ひとつの指標になった。その行動規範は異色で、プロサッカー選手を身近に感じさせた。ほぼ同時期に日本サッカー初のプロリーグ、Jリーグが開幕した。
しかし、染みついた弱虫根性は簡単に拭えなかった。
「どうせ日本サッカーは世界に通用しない」
そんな"奥ゆかしさ"が通底していた。わずかに通用する部分に希望を持ち、ほとんどの通用しない部分にうなだれ、失望しながらも、負けるたび、勝てる要素を追求する。ある種、卑屈な時代だった。
「ワールドカップに出たことがない」
それが、日本サッカーの強烈なコンプレックスになっていた。
そんな流れを劇的に変えたのが中田英寿の出現だ。
中田のプレーはカズを凌駕するほどに革新的だった。世界基準のスルーパスは独りよがりにも映ったが、そのタイミングでなければ世界では通用しない。彼はひとつひとつのプレーで、荒々しいメッセージを発信したのだ。
異端なる存在が刺激を与えたのか――。日本代表は予選を突破し、1998年フランスワールドカップで初めて世界と向き合っている。
グループリーグでは、開幕戦で強豪アルゼンチンと対戦した。圧倒的な差はなかったが、エースのガブリエル・バティストゥータに抜け目なく放り込まれ、0-1で敗れた。クロアチア戦も、日本は後半途中まで0-0と"健闘"。パスを何度もひっかけられたが、必死のカバーや相手の拙攻で、事なきを得ていた。しかしエース、ダボル・スーケルに左足の一撃でゴールを破られ、またも0-1で敗れた。
ただし、わずかに見えた差は、実は小さくなかった。
1998年6月26日、リヨン。すでにグループリーグ敗退が決まったジャマイカ戦で、敗者としての現実を突き付けられた。勝利を見込まれたが、3連敗。史上初得点を記録するのが精いっぱいで、最下位に終わった。
フランスワールドカップの後、21歳だった中田は日本を出て、海を渡る道を選んでいる。当時、世界最強リーグと言われたセリエAのペルージャに入団。世界に追いつくには、世界に打って出るしかなかった。そして開幕戦で、当時、世界最強を誇ったユベントスを相手に2ゴールを決めた。
「中田は、困ったらボールを預けられた。セリエAでも、才能は飛び抜けていたよ」
イタリア代表としても活躍し、2006年ドイツワールドカップ優勝も経験したマルコ・マテラッツィは、ペルージャで約半年間、同僚だった中田の印象をそう語っていた。
「中田はどんな時も、動じることがなかった。苦悩している姿は見たことがなかった。ピッチで起こった問題は、彼自身が即座に解決することができた。そして向上心が強かったよ。ただ、トレーニングでは『お前真面目過ぎるぞ』というくらいシリアスな印象だったから、たしなめたくなったな(笑)。こっちが引け目を感じるくらいだったから」
中田はひとりで大海へ漕ぎ出し、果敢に航路を開いていった。その成功は、徐々に日本人選手の欧州への道を開いていった。それが4年後の日韓ワールドカップにつながるのだ。
(つづく)