ファンタジスタ×監督(5)(1)から読む>>現在はデポルティーボ・ラ・コルーニャのBチームを率いるフアン・カルロス・バレ…
ファンタジスタ×監督(5)
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現在はデポルティーボ・ラ・コルーニャのBチームを率いるフアン・カルロス・バレロン
「スペインのジダン」
フアン・カルロス・バレロン(45歳)は現役時代、栄えある称号を戴いた。名付けたのは、当時アトレティコ・マドリードを率いていた名将アリゴ・サッキだ。大きな体を持て余すことなく、リーチの長さを生かして優雅にボールを扱い、鮮やかに相手の逆を取るプレーの数々は、まさにジネディーヌ・ジダンに近かった。
2000年から10年以上在籍したデポルティーボ・ラ・コルーニャでは、エースとしてスペイン国王杯で優勝、チャンピオンズリーグでベスト4という結果を叩き出した。デポルティーボ(現在は実質3部に在籍)というクラブの規模を考慮に入れた場合、それは快挙だった。2000年代前半には、スペイン代表としてもEURO2000、2004、そして2002年日韓ワールドカップで攻撃の中心を任された。
ファンタジスタとして、一時代を築いたと言えるだろう。一方で、ジダンと比肩するような世界的活躍はできなかった。
「ティキタカ(細かいパスをつなげて攻めていく独特のプレースタイル)には混ざってみたかったね。シャビ(・エルナンデス)、(アンドレス・)イニエスタ、ダビド・シルバと一緒に、どんなプレーができたか。イメージがたくさん広がって、楽しそうだった」
バレロンは笑顔で言う。スペイン代表が欧州、世界に君臨した時代、皮肉にもスペイン一のファンタジスタは代表から遠ざかっていた。果たされなかった欲求があるのだろう。
無念さも、指導者の基礎のひとつかもしれない。
2016年に故郷のラス・パルマスを1部に引き上げた後、バレロンは現役引退を決め、指導者に転身した。ラス・パルマスのユース年代などを指導し、キケ・セティエンの相談役にもなって、現在バルサに所属するペドリ(ラス・パルマスに2019-20に所属)にも好影響を及ぼしている。そして自身の監督ライセンス取得の仕上げに選んだ実地研修先は、ジョゼップ・グアルディオラが率いるマンチェスター・シティだった。
「ペップ(グアルディオラ)は情熱的な話しぶりだったよ。自身がバルサBの監督を始めた頃の話を引き合いに出してくれた」
バレロンは、チームとしてファンタジーを創り出すことに成功した数少ない監督、グアルディオラに師事した。
「ペップは選手時代の感覚を大事にしたらしい。"このトレーニングをしたら居心地が良かった"というフィーリングだね。ボールを大事にしてできるだけ後ろからつなげる、そのためにはポジション的優位を保つようなスペースの使い方を徹底的にする、という順序で。
ただ、そのトライが最初はうまくいかなかったらしい。ペップは、"もっと実践的、現実的な路線で行くべきでは"と方向転換を図ったらしいよ。"このままでは試合に勝てない"って。結果が出なかったら、監督は終わりだ。でも、負けないためのトレーニングをしたとき、確信したらしい。『このやり方は嫌だ』って。フィーリングが違ったそうだ。
そしてペップは開き直ったらしい。"もし、このやり方で勝てないとしても、自分が監督として責任をとるだけだ"と。それからフィーリングのままの指導に戻したら、少しずつうまくいくようになったという。『それだけの能力がある選手たちのおかげ』と強調していたけどね」
現代サッカーはグループを管理し、作業能率を上げることに汲々(きゅうきゅう)としている。本能的、直感的に生み出されるファンタジーなサッカーは可能か――。マンチェスター・シティのグラウンドで、バレロンは明るい兆しを見た。洗練されたボールプレーの枠組みのなか、お互いが切磋琢磨し、若い選手も成長を見せていた。ボールの動きにはファンタジーがあった。
今シーズン、バレロンはデポルティーボのBチームであるファブリルを率いて監督1年目になる。トップチームの監督を固辞し、Bチームから監督を始めた点は、グアルディオラと重なる。すでに2人の選手をトップチームに送り込んでいる。
そしてバレロンには、指導者として期待できる人間性がある。
敬虔なカトリックの一家に育ったが、子供時代は不幸に遭った。15歳の時、父親がバイク事故で命を落とし、続けて長兄もバイク事故で亡くした。有望なサッカー選手だったもうひとりの兄は、危険なタックルで膝の靱帯を切って、選手生命を絶たれている。
自身も苦しみを味わった。2006年1月、バレロンは左膝前十字靭帯を断裂する重傷を負っている。約半年後に復帰するが、再び靱帯を痛めた。治療の経過は思わしくなく、2007年3月には再び手術を受け、治療、リハビリを行ない、2008年1月にようやくピッチに戻った。
だがその間、彼は笑みを絶やしていない。誰にでも丁寧に接した。「リーガ史上、最も善人」と言われるほどだった。
「いろいろあったけど、現役生活は最高に楽しかったよ。それこそ、人生そのものだった」
バレロンは現役時代を振り返り、指導者の心境を語る。
「指導者になった今は、サッカーを大きな視点で見つめるようになった。クローズアップがパノラマになったというか......。そのなかにはほとんど無限なディテールがある。選手時代は点で捉え、練習、試合、リカバリーというサイクルのなか、ひとつひとつに集中していた。指導者は流れを面で捉え、俯瞰する。個々の感覚は大事だけど、組織のために口を出し、改善する必要もあるんだ」
デポルティーボの育成部長には"盟友"フラン(フランシスコ・ハビエル・ゴンサレス・ペレス)が就任した。現役時代、2人はともに欧州を舞台に戦った。左利きのファンタジスタだったフランは、友人グアルディオラの誘いでマンチェスター・シティのユースディレクターを経験し、それを模範にデポルティーボで改革に着手した。2人のファンタジスタのサッカー観は近い。
デポルが復活を遂げる時、名将バレロンの誕生だ。
(つづく)