「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」第1回 高木由一・前編 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリート…

「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」
第1回 高木由一・前編

 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だ。だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てる新シリーズ「なんで、私がプロ野球選手に!?」。第1回は、市役所勤めの公務員からプロ野球選手になった高木由一(元・大洋)のサクセスストーリーを紹介したい。



思いがけず進んだプロの世界で15年間プレーした高木由一氏(写真右)

 自らの手で高校に野球部をつくり、プロの世界へ──。野球漫画ならすでに手垢のついたストーリーだが、実話があったとしたらどうだろうか。しかも、高校とプロの間に「地方公務員」というキャリアを挟んだとしたら。

 企画の主旨を伝えた瞬間、高木由一はぷっと吹き出し、「まぁ、そりゃあ、そうだろうね」と言った。フィクションでも書けないような野球人生を生きてきた当事者らしからぬ、他人事のような口ぶりだった。

 黒々とした太い眉。いかにも職人然とした佇まい。現役時代から「とっつぁん」の愛称で親しまれた高木は71歳になった。

「今でもプロで3割打てたのが信じられないし、なんでかな? と思うもの。本当に自分があの世界にいたのかなって思うこともありますよ。プロなんて自分には縁もゆかりもないところだと思っていたし、いまだに現実感がないんだから」

 高木は1949年、神奈川県相模原市大島に生まれた。早逝した次姉を含め女の子が3人続いたあとに生まれた、両親にとって待望の長男だった。尼僧から「高木家は女系の血だから男の子が育ちにくい。子どもの名前に『女』の字を入れたほうがいい」と助言を受け、「好一」と命名された。

 その後、成人した後に「勝負事に『女』の字が入るのはそぐわない」と周囲から言われ、改名を勧めてきたのも母親だった。「影響を受けやすい親だったんです」と高木は笑う。「嘉一」に名を改めたあとも故障禍に悩まされ、さらに「由一」に変えている。

 実家は100人程度の工員を抱える繊維工場を営んでおり、両親は仕事に忙しく、高木は放任されて育った。「ほぼ外で遊び回っていた」と勉強をほとんどしなかったため、高校進学の際には途方に暮れた。中学野球部でプレーしていたものの、周りにはスポーツ推薦で進学するような友人がおらず、「野球で高校に行く」という発想がなかった。そもそも野球選手になりたいという願望すら持っていなかったのだ。

「夢も希望もない。行くところもなくて、渕野辺高校(現・麻布大付)に拾ってもらったようなものですよ」

 高校には野球部がなかった。学校生活を送るうちに、高木のなかに「また野球がやりたい」という思いが芽生えてきた。先輩にも野球をやりたい者が数名いたため、学校に直訴して野球部をつくってもらった。この時点で高木は2年生になっていた。

「校庭の石拾いから始めましたよ。顧問の先生は野球を知らないし、練習にも来ない。全員が守備につくと、ベンチには誰も残らなくて人数はギリギリ。どんなに下手な子でも、その子がいないと成り立たないんだから」

 高木はエースで主砲だった。打者を打ち取ってもことごとく味方がエラーするため、守備が終わらない。「俺、もうやめた!」とマウンドを降りようとすると、バッテリーを組む捕手が「まあまあ、我慢してくれ」となだめにくる。高木は「高校野球の底辺の底辺、最下層じゃないですか」と振り返る。

 公式戦に出場したのは、3年夏の一度きり。のちに横浜スタジアムが建設される場所にあった平和球場で、戸塚高校と戦った。0対5と完封負けし、高木の最初で最後の夏はあっけなく終わった。

 高木は「野球はこれで終わり」と考えていた。一方で、他校の指導者から「もったいないから、どこかで続けたほうがいい」という声も聞こえてきた。

 そんななか、高木の評判を聞いた相模原市役所の関係者から「公務員試験を受けて、ウチの野球部に入らないか?」という誘いを受けた。相模原市役所の軟式野球部が翌年から硬式野球部に移行することになり、選手を探していたのだ。

 高木は内心「自分は真面目じゃないし、性格的に公務員は合わない」と思ったが、仕事をしながら野球ができるのはおいしいと感じた。両親に相談すると、「ぜひ受けてみろ」と喜ばれた。受験の末に、高木は相模原市役所に勤めることになった。

「僕らは団塊の世代ですから、競争率はめちゃくちゃ高かった。野球部に入りたい人のなかにも落ちた人を何人も知っています。どういうわけか、縁があったんですよね」

 同学年の大阪学院大高・江夏豊が4球団から1位指名を受けた末に阪神に入団。スター街道をひた走るなか、神奈川の高校野球の底辺にいた無名選手はひっそりと役所勤めを始めた。

 高木は税務収納課に勤め、税金を滞納する市民から回収する仕事を任された。督促状を何度も送り、最終通告に応じない市民に対しては、差し押さえという強硬手段にも出る。市民から恨まれることもある仕事で、高木は「社会のひずみを見た」という。

「税金を納めたくても納められない人もいれば、稼いでいるのにごまかして逃れようとする人もいる。社会に出て初めて世の中を知ったし、人間としての生き方を知ったような気がします」

 平日17時に仕事が終われば、野球部の練習がある。硬式野球部といっても、部員はわずか14人。メンバーはすべて高校野球経験者だったが、レベルは高くなかった。高木はすぐに主力投手となり、打ってもクリーンアップを任されるようになった。

 当時は社会人野球の全盛期。現在は100チームに満たない企業チームは、1963年には237チームも存在した。神奈川県内には名門企業チームが数多くあり、相模原市役所との戦力差は明らかだった。

「日産(日産自動車)とか日石(日本石油)とも試合をしたけど、彼らにしてみれば、相模原市役所なんて赤子の手をひねるようなものですよ。当時は一生懸命にやって、『なんで勝てないんだろう?』と真剣に悩みもしましたけど、練習量が圧倒的に違うわけだから。そりゃ勝てませんよ」

 それでも、檜舞台に立ったこともあった。当時、社会人野球では「サンベツ」と呼ばれる日本産業対抗野球大会という大会があった。業種ごとの代表チームが後楽園球場に集まり、トーナメントで覇権を争う。1970年、相模原市役所は官業公社の予選を勝ち上がり、サンベツへの初出場を決めた。

 初戦で対戦したのは、大会の優勝チームになる名門・丸善石油。高木は投手として早々にノックアウトされたものの、相手のエース・久玉清人からバックスクリーンに本塁打を放った。「そんなに興味がないから、どのチームの誰が有名とかわからない」という高木は、久玉が社会人を代表するアンダースローということも知らなかった。

 サンベツに出場し、後楽園球場で本塁打を放っても、高木に野球人としての欲が芽生えることはなかった。

「勝てるようになりたいとは思っていましたけど、自分自身が高いレベルでやれるとは一切思っていなかったですね。それは公務員になっちゃったからでしょうね」

 生活面の不自由はなく、職場に恋人もできた。公務員として安定して、満ち足りた生活を送っていたはずだった。

 そんな高木の人生に大きな波紋が広がるのは、1971年の秋のこと。きっかけは、あるチームメイトの誘いだった。

「川崎球場で大洋の入団テストがあるんだけど、一緒に行かない? 一軍半くらいの選手もいるし、面白いよ」

 チーム内に巨人や大洋など、さまざまな球団の入団テストを受験して回る「入団テストマニア」がいた。高木は「へぇ、知ってる選手が来るかな?」と軽い気持ちで、チームメイトの誘いに乗った。つまり、冷やかし気分だった。

 いざ、川崎球場に行ってみると、数百人もの受験者が集まっていた。だが、いかにも記念受験の匂いが漂う中年の男性など、本気でプロを目指しているとは思えない者も混じっていた。もちろん、高木もそのひとりである。

 当時の高木は肩を痛めていたため、一塁手として受験している。午前中の遠投は左肩が痛んだものの、なんとかクリア。50メートル走も突破し、午後の実技に移った。

 フリーバッティングでは5球ほどスイングの機会を与えられ、高木は快打を連発する。高木は事もなげに言った。

「川崎球場って狭いじゃないですか。だからボコボコとスタンドに入れたんですよ。他にそんな人がいなかったから、目立ったんじゃないですかねぇ」

 シートノックを終えると、高木を含めた数名が呼ばれ、再びバッティングをするよう指示された。高木は打ち損じて持参したバットを折ってしまうが、球団が代わりのバットを貸してくれた。

「バッティングピッチャーをしてくれた松島(英雄)ってピッチャーが、非常に打ちやすいボールを投げてくれて。真っすぐだけだったし、打てた記憶があります」

 高木の打撃を後ろでじっと見守る男性がいた。「ジャジャ馬」の愛称で知られ、現役時代に本塁打王を5回獲得した大打者・青田昇である。同年秋から大洋のヘッドコーチに就任していたのだ。

 バッティングが終わると、高木を含めた数名の選手が呼ばれた。「二次試験は別の日にあるのかな?」と考えていた高木に、球団スタッフから意外なことが伝えられた。

「高木さん、合格です。来年からホエールズに来てください」

(後編につづく/文中敬称略)