『特集:女性とスポーツ』第10回伝統文化・宗教の違いと競技の両立の難しさ「良いことは悪いこと、悪いことは、良いこと?」 …

『特集:女性とスポーツ』第10回
伝統文化・宗教の違いと競技の両立の難しさ

「良いことは悪いこと、悪いことは、良いこと?」

 2020年東京オリンピック・パラリンピックは新型コロナウイルスの感染拡大、加えて変異種の影響などから、どのような形の大会になるのか、いまだに定まらない部分が多い。

 しかし一方で、4年前に国際オリンピック委員会(IOC)は、この大会は女性の参加の過去最多が見込まれることで、男女平等のIOCの理念をしっかり反映させるとも言っていた。

 柔道、トライアスロン、アーチェリー、競泳などで男女混合種目が増すことで、女性の参加率は過去最高の48.8パーセントとなる予定だ。

 ほぼ半数が女性参加となることは、かつて限られた種目のみの女性参加に疑問のなかった時代や、女性排除の観点からみれば、大きな変化に違いない。

 しかし、そのかたわらで伝統文化や宗教などから、女性のスポーツ参加が容易でない点があることも見逃せない気がしている。



ロンドン五輪サッカー女子アジア予選で、ユニフォームの規則違反により出場停止となったイランの選手たち

 今から10年ほど前の2011年、サッカーのロンドン五輪アジア予選で、イラン代表の女子チームが、試合をする前なのに、ピッチに座り込み、途方に暮れている写真が流布した。

 彼女たちは長袖、長ズボンに加えて、頭、首までを布で包み込むスタイルだった。それが「他の競技者に危険な用具」とみなされたのだ。

 かぶりものに相手の手がからんだり、ひっかかったりすると首が絞まるとして、イランは出場停止に。対するヨルダンのチームは不戦勝となった。

 このイランの選手たちは日本のメディアでも取り上げられ、多くの人は女性が肌を隠す「イスラム規制」に憤慨し、「もっとスポーツのしやすい軽装になれないのか?」という論議にもなったのだ。ところが、ジェンダー学が専門の荒井啓子教授(学習院女子大学。現在は同大学名誉教授)は、女性が肌を見せることをよしとしないイスラーム文化と、身体の開放性を内包する近代スポーツ文化は、そもそも相容れないとして意外な話を語った。

「イスラームの女性はしばしばヴェールの世界の心地よさを語ります。一般に、彼女たちは自由にスポーツができなくて可哀そうだとか、気の毒だとかいう先入観がありますが、むしろ彼女たちからは『西洋化している人たちこそ気の毒だと思う』という発言を聞きます。ヴェールをかぶってチャードルをまとっていれば容姿や服装について気を遣わずにすむし、異性の視線を気にしなくてよい。男女の区別なく、かえって自由に仕事ができる、ということです。

 イスラーム世界は男の世界と女の世界を分けることが当然の文化で、それは差別ではない、どちらが上というのではなくて並存であるというのが、今日の研究の示すところです。

 ある研究者は、イランの女性はヴェールによって『見られる自分』から解放されて『見る自分』というアイデンティティを獲得し、男性と同じように世界を見ることができるのだと言います。西洋化した国々の女性は、服装や化粧や、肌を見せたり、見せなかったりすることで、他人にどう思われるかを、程度の差こそあれ誰でも考えざるを得ない。つまり『見られる自分』を強いられてきたのに対して、イランの女性たちは見られる窮屈さから十分解放されている。身体を隠すことによって男性と対等に仕事ができるというのです。(後略)」(『スポーツゴジラ』21号『イスラーム女性とスポーツ』より)

 確かにヴェールの着用ひとつとっても、西洋化をよしとしてきた私たちとは、180度感覚が違っているようだ。まさに多様性であり、様々な考え方があることは発見だ。そして「多様性を認める」のは口で言うほど簡単なことではないのかもしれないとも思う。

 しかし、何事も一筋縄でいかないからこそ世界は広く興味深い。知らない文化、知らない価値観を持つ人々が一堂に会する。......まさにそれがオリンピックなのだろう。