あのスーパースターはいま(7) 1993年の夏のことだった。ユベントスの練習場に取材に行った筆者に、知り合いの記者がひと…
あのスーパースターはいま(7)
1993年の夏のことだった。ユベントスの練習場に取材に行った筆者に、知り合いの記者がひとりの選手を指さしこう言った。
「彼はパドバから来たばかりの選手だが、必ずイタリアを代表するような大物になる。覚えておくといい」
まだ少年の面影を残すその選手は、集団の練習が始まる前からひとり黙々とランニングをしていた。名前を尋ねると、彼はこう答えた。
「アレッサンドロ・デル・ピエロ」
ベテラン記者の言うとおり、彼はユベントスでめきめきと頭角を現し、多くの伝説を作り上げていった。ケガで欠場が増えてきていたロベルト・バッジョに代わってチームのファンタジスタを務め、フィリッポ・インザーギと「デル・ピッポ」と呼ばれるコンビを組んで多くのゴールを挙げた。
特に彼の左45度からの鋭いシュートは有名で、そのポジションは「デル・ピエロゾーン」と呼ばれた。2001年から2012年までユベントスのキャプテンを務め、八百長事件を起こしたことでチームがセリエBに落とされても、決して見捨てなかった。
またイタリア代表では3回のW杯に出場し、最後の2006年ドイツ大会では自らも重要なゴールを決めて、世界チャンピオンの座を手に入れている。

ユベントスで513試合、イタリア代表で91試合に出場したアレッサンドロ・デル・ピエロ
2012年にユベントスを去ったデル・ピエロは、その後オーストラリアのシドニーFCでプレー、最後はインドのスーパーリーグでキャリアの幕を閉じた。イタリアから離れた遠い国での緩やかな引退だった。
引退直後のデル・ピエロは、やはり他の選手たちと同じように、張りつめたものが切れてしまった状態になったようだ。
「現役時代は自分がしなければいけないことははっきりしていた。人生はシンプルで練習と試合、そしてリカバリーに集中していればよかった」
引退当時を振り返り、デル・ピエロは語っている。
「しかし、引退後はすべてが変わった。これまで慣れ親しんだもの、生活様式、すべて変わってしまった。ロッカールームやチームメイトが無性に懐かしく感じた。何よりも一番恋しかったのは、その達成感だ。たぶん引退後の僕は100%満足したことがない。僕は本当にサッカーをプレーすることが好きだった」
選手時代に味わっていたような達成感を求めるかのように、デル・ピエロは引退後、精力的な活動を始める。それは本当に多岐にわたる。
引退直前の2013年には、テレビドラマ『グレイズ・アナトミー』などで有名なアメリカの俳優パトリック・デンプシーと共にデンプシー・デル・ピエロレーシングチームを作っている。もちろんデル・ピエロはドライバーではなく、チームのオーナー及び相談役としての参加だ。
「僕はイタリア育ちだからね、モータースポーツは子供のころから大好きだった」
彼らのチームはル・マンにも出場している。
デル・ピエロはサングラスのブランドも立ち上げている。ブランド名は「AirDPスタイル」。その名のとおり、軽さがなによりの特徴だ。このアイデアはゴルフをしていた時に生まれたという。
「スポーツの時にも邪魔にならない、軽くて、それでいてお洒落なサングラスを作りたいと思ったんだ。オーストラリアでプレーしていた頃に、日差しの強さから目を守る大切さも学んだこともきっかけだ」
デル・ピエロにはソニア夫人との間に3人の子供、トビアス(13歳)、ドロテア(11歳)、サーシャ(10歳)がいる。彼らをのびのびとした環境で育てたいという理由から、アメリカのロサンゼルスに移り住んだ。
2018年の春にはその地で「N10」というイタリアンレストランをオープンする。400平米、140席の大型店だ。イタリアのミシュラン一つ星レストランのシェフをスカウトし、現代的なイタリアンを提供している。
「食は昔から僕にとって禁断の情熱だった」
このレストランを開いた理由をデル・ピエロはこう説明する。
「選手時代はなかなか好きなものを食べることはできなかった。体にいいものを気にかけ、決められたメニューに従わなければならなかったからね。でも僕もイタリア人だ。うまいものにかけては一家言ある」
しかし、アメリカでは外食しても、なかなか満足のいく店に当たらなかった。
「それなら自分でレストランをやってしまおうと思ったんだ。実はこれは選手時代からの夢でもあった」
店は大成功し、今では多くのハリウッドセレブを顧客に持つ。そしてミラノにも逆輸入の形で2号店をオープンしたが、残念ながらこちらの店はコロナ禍の直撃に遭い閉店したという。
もちろんサッカーの世界との縁が切れたわけではなく、アメリカでも様々な活動をしている。まずは「ADP10サッカーアカデミー」を立ち上げ、アメリカの少年たちにサッカーを教えた。このスクールは後にユベントスが世界で展開する、ユベントスアカデミーの傘下に入った。
2019年にはユナイテッド・プレミア・サッカーリーグに属するサッカーチーム、LA10 FCの共同オーナーとなった。もちろんユニホームは白と黒の縦縞である。
サッカー関係の企業にも投資を行なっている。
イタリアの「カルチョ・フィナンツァ」誌によると、イスラエルに本部を置くバーチャルスポーツマーケティング会社「STADS」のアドバイザーに就任。この会社には投資もしているという。STADSはスタジアム広告をメインにスポンサーとチームを結びつける企業で、ミランやドルトムントも彼らの顧客だという。
「僕がサッカーを始めたころと今とでは、チームとスポンサーの関係はまるで違う。昔はチームにいくつかのスポンサーがつくだけだったが、今は細かく細分化され100近くのスポンサーが存在する。だからこそこういう会社が必要なんだ」
デル・ピエロは語る。
「僕は幸運にも選手時代に多くの資産を手に入れることができた。今はそれをどのように運用するかが問題だが、大きな山を当てるより確実なものに投資していきたいと思ったんだ」
堅実な資金運用のおかげか、2018年にはロサンゼルスの超高級住宅街ベルエアに550万ユーロ(約7億円)の豪邸を購入。5寝室に6バスルーム、シネマルーム、巨大なプール、トレーニングルームやスパもあるという。ご近所にはジャック・ニコルソンやシルベスター・スタローン、ジェニファー・ロペス、ロッド・スチュワートなどがいるそうだ。
もちろん、イタリアのサッカー界とのつながりも切れてはいない。2015年からはスカイスポーツの解説を務め、アメリカとイタリアを行き来している。また昔の仲間たちとも親密で、特に2006年にW杯を勝ち取ったメンバーたちとはグループチャットでつながっているという。
「夢のような日々をともにした仲間と、常につながっていたかったから。もちろん、ほとんどの場合は近況報告や、くだらないおしゃべりをするくらいだが、昨年はこのグループから大きなものが生まれた」
昨年イタリアがコロナで大打撃を受けた際には、このメンバーが発起人となって寄付を募った。
「ほとんどの選手はすでに個人で何らかのアクションを起こしていたが、皆、もっと大きな活動をしたいと思っていた。かつて国中に応援してもらった僕たちは、イタリアすべてに恩返しをする必要を感じていたからだ。どういう風にやるかはすべてこのチャットで話し合って決めた。(ファビオ・)カンナバーロなんかは中国にいるのに、いろいろ手を尽くしてくれたよ」
その結果、1カ月のうちに4台の救急車をイタリア赤十字に寄付することができた。4台にしたのは、W杯通算優勝4回優勝にちなんでだという。
デル・ピエロが、例えば監督としてチームに戻ってくることはないのだろうか。彼はこれまでのインタビューで、たびたびそのことについて語っている。そこからは気持ちの変遷がうかがえる。
引退直後の頃は「サッカー界への扉は閉めてはいないが、今は自分がやっている他のことや、試合の解説だけで十分だ」と語っていた。それが数年後にはこう変わっていた。
「今はそのことを考えている。難しいが、やりがいがあり、熱い仕事だ。少なくともそれがどんな仕事であるかを、僕は肌で知っている。僕は(ファビオ・)カペッロ、(カルロ・)アンチェロッティ、(マルチェロ・)リッピという3人の名将の下でプレーしてきた。特にリッピとはともにすべてを勝ち取って、特別な関係にあった。まだ監督の勉強はしていないが、彼らから学んだことは少なくないと思う」
今シーズンが開幕した時も「監督をするというアイデアはいつも僕の頭の中にある」と語っている。もしかしたら、かつての同僚アンドレア・ピルロがユベントスの監督に就いたことと無関係ではないかもしれない。
そしてこの1月、デル・ピエロはインスタグラムに、オンライン会議待機中のパソコン画面をアップした。そのハッシュタグには"corso per allenatori(監督コース)"と書かれていた。
最近になってUEFAは、FIGC(イタリアサッカー協会)に対し、セリエAと代表で一定の試合数をこなした選手には、一般とは別の短期コースで監督ライセンスを与えることを承認した。それを受けて、FIGCはまず13人の元選手がそのコースを受講することを発表。そのひとりがデル・ピエロだった。ちなみに同期生にはダニエレ・デ・ロッシやクリスティアン・ヴィエリ、イニャツィオ・アバーテ、リッカルド・モントリーヴォなどの名前も見られる。
この発表に多くの人々が歓喜の声を上げた。このコースを終えるとセリエA、Bのアシスタントコーチを務めることができるようになり、その後マスターコースを取れはセリエAの監督にもなれる。つまり、デル・ピエロがビッグチームの監督として再びピッチを沸かす姿を、もしかしたら見られるかもしれないのだ。