為末流「選手を幸せに導くプロセス考」第1回 いまだ破られぬ男子400メートルハードルの日本記録を持ち、コーチをつけず常に自身に向き合いスポーツを哲学してきた為末大氏に聞く、為末流「選手を幸せに導くプロセス考」。指導者が選手をサポートし導くた…

為末流「選手を幸せに導くプロセス考」第1回

 いまだ破られぬ男子400メートルハードルの日本記録を持ち、コーチをつけず常に自身に向き合いスポーツを哲学してきた為末大氏に聞く、為末流「選手を幸せに導くプロセス考」。指導者が選手をサポートし導くために持っていてもらいたい目線、知識について語ってもらった。第1回は、世界からスポーツが消えた今、できることとは――。(取材日=2020年3月26日、取材・文=松葉 紀子 / スパイラルワークス、撮影=堀 浩一郎)

 ◇ ◇ ◇

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、東京オリンピックが2021年の7月23日に延期されました。このような予測できない事態に直面したとき、アスリートは何を第一に考えるべきでしょうか。それは「事態が覆しうるものか、どうか」ということです。

 例えば、雨が降ったら試合に勝てない、とします。そこで「自分の努力で雨を降らせないようにできるのか」を考えます。普通に考えると、無理ですよね。できないのであれば、「受け入れるしかない」と考えます。至ってシンプルですが、私はそう考えます。今回の場合、「国際オリンピック委員会(IOC)の決断を覆すことは難しいので、受け入れるしかない」となるわけです。

 ただ気持ちの問題について言えば、アスリートにとっては気の毒な状況です。アスリートは、旬が短いです。例えば2020年7月に引退を決めて調整してきた選手にとっては、さらにもう1年となると厳しい。アスリートは、日程がたった2、3日変わっただけで順位が変わるレベルでピーキング(※)を行っています。

 今回、いろいろな人とオリンピック延期について話をしてきて、一般にはピーキングについての理解は浸透していないと感じています。

「こうすれば延期できるよね」と言われるたび、そうなんだけどそう簡単に延期に合わせられるものではないというのが本音。アスリート目線でいえば、今回の延期決定はそれほど大変なことなのです。

「心」をキープ・リフレッシュできるかどうかが、明暗を分ける

 2021年7月開催まで1年以上の猶予があり、どのようにピークを合わせるか。そこで私なら真っ先に「心はそこまで持つかな」と考えます。もし自分が現役選手だとしたら、心を張り詰めたままの状態でさらに1年は持たせられません。とはいえ、2021年夏に勝負を挑むことは決定事項。そこで思い切って、今から2020年の8月くらいまでのスケジュールを全て外します。

 自分の心を“フレッシュ”にしておかないと、次のステージには入っていけないからです。つまり、「何は変えられて、何は変えられないのか」を整理し、自分がどうすればベストな状態にいられるのかを考え、行動します。ちなみにスケジュールを全て外すというのは完全なオフにするかもしれませんし、自主練習だけにするかもしれないというレベルです。トップアスリートでも2年間、張り詰めた状態を保つのは難しいのです。

 もう一つ、大事なことがあります。それは「自分を過信しないこと」です。
 
 自分の心を過大、もしくは過小評価してしまうと、ピーキングを見誤ってしまいます。若いアスリートはどちらかというと過小評価する人が多くて、「まだやれるよ」と言われるかもしれません。やれないのに、やってしまう。これによって起こる致命的なことは、モチベーションが切れること。表に見えづらいからでしょうか。見過ごされることが多いのですが、心はとても重要です。身体的な怪我と違って、心の不調は複雑で難しいので、こちらの方が致命傷になることもあるくらいリスクの高いことです。

心にも体力がある。このことを忘れずに

 では、次にピーキングの基本についてお話します。

 ピーキングとは、パフォーマンスを最大化したいタイミングに合わせて何をするかを逆算して考え、決め、実行していくことです。ベースにあるのは、「与えられた刺激に対して、人間の身体は反応する、適応する」という原理を利用するという考え方です。

 例えば、長く走れば、それだけ長く走れるようになる。その原理を利用するのです。

 難しいのは、「選手にとっての理想の状態」を定義するとき、いろいろな考え方があるということです。私の考えでは、土台にはやはり「心」があり、その上に身体、さらにその上に技術があります。ベースとなる心が良好な状態でなければ、身体も技術も伸びないと捉えます。

 しかしよく陥りがちなのは、技術的に最高なものを求め過ぎるあまり、徹底的にトレーニングを行った結果、心理的に最悪の状態になってしまうことです。これは日本のアスリートにはよくあることで、心にも体力があるという発想がないからだと思います。それゆえ、心、つまりモチベーションは無尽蔵に湧いてくると思われていることが多い。実際、メンタルモンスターのような選手は乗り越えてしまいます。でも私の考えでは、心も上下すると思うので、ピーキングを考える時は心を意識してコントロールする必要があると思うのです。

 これらの考え方は、全て私自身の実践から来ています。現役時代を振り返っても、心理的に走ろうという気持ちになれないとき、結局、パフォーマンスは出せませんでした。そんな経験を踏まえて、心は結構、重要なのだと知りました。

 現役時代には、「心、身体、技術」の3つに対して、どう向き合っていくべきかをよく考えていました。前段の「与えられた刺激に対して、人間の身体は反応する、適応する」という原理を利用すると、自分の身体にAという刺激を入れると、Bになると理解することから始めます。

 具体的に説明すると、たくさん走った場合、2日間疲れて、3日後には回復するというパターンを認識する。そのパターンをもとに理想に近い形に持って行く方程式を作り出していくといいと思います。ただし人間の身体は、加齢と共に反応する、適応する確度は変わるというのを理解しておく必要があります。

10代のピーキングは、厳密でなくてもいい

 では、10代の成長期の選手を指導するときに気を付けないといけないことは――。

 ピーキングはあまり厳密に行う必要はありません。トップアスリートのように完成が近づいた世界では、“勝てるかどうか”はピーキングが大きな比重を占めます。しかし10代の場合、まだトレーニングの影響の方が大きいです。

「もっとうまくなりたい」というモチベーションがあれば、トレーニングを積めば積むほど、フィジカルも技術も一般的に向上します。高校生でもピーキングに失敗して負けることもあるのでやらなければならないのですが、それほど厳密にやらなくてもいい、というのが私の意見です。

 それよりも身体への理解を深めることが重要です。そのときに欠かせないのが科学。パフォーマンスが発揮される仕組みのうち、8割は科学的な根拠、ロジック、セオリー、普遍的で誰にでも通用するものです。あとの2割が競技別、個人別の差です。この2割を大きく捉えていると、自己流になり過ぎて失敗してしまう。例えば、“かつ丼を食べれば勝てる”みたいな根拠のないことを実行してしまうようになるわけです。科学的根拠を学び、きちんと理解した上でアスリートたちに指導を行うことでパフォーマンスの質がかなり向上すると思いますよ。

※「ピーキング」 試合などの本番に最大の能力を発揮できるように、選手のコンディションをコントロールすること。疲労、回復、適応のサイクルに合わせて練習内容や量を調整しながら、本番に選手の能力が最高のピークになることを目指す技術のこと。

(記事提供TORCH、第2回に続く)


■為末 大 / 為末大学学長

 1978年生まれ、広島県出身。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者。現在は人間理解のためのプラットフォーム為末大学(Tamesue Academy)の学長、アジアのアスリートを育成・支援する一般社団法人アスリートソサエティの代表理事を務める。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。(スパイラルワークス・松葉 紀子 / Noriko Matsuba)