拓大紅陵・小枝守監督、法政大学・山中正竹監督、そしてシダックス・野村克也監督と数々の名将から直接指導を受けた杉本氏。会社…
拓大紅陵・小枝守監督、法政大学・山中正竹監督、そしてシダックス・野村克也監督と数々の名将から直接指導を受けた杉本氏。会社員となった今でも、その頃の教えが役に立っているという。今回は大学時代からシダックスに移籍するまで。
<(1)はこちらから>
--法政大学での野球生活は、いかがでしたか?
杉本忠(以下 杉本):大学1年生の時、監督から「お前サイドスローをやってみないか?」と言われました。まるまる1年、毎日500球投げ込みました。2年生になったタイミングで、監督が山中正竹さんになりました。
山中さんは銅メダルを獲得したバルセロナオリンピック野球日本代表の監督であり、のちに第一回世界大学野球選手権日本代表を務め、日本を3位入賞に導いた方です。現在は、全日本野球協会会長に就任しています。
その山中さんに、やはり上投げで勝負したいと直訴したんですが「お前はサイドスローでいいんじゃないか」と言われ、やる気を失くしました。今思えば、監督の言葉の意味も理解できますが、当時は理解できなかった。
監督に「僕の上投げは求められてない」と思い、大学2,3年の2年間は野球に集中できませんでした。目一杯、大学生活を謳歌してしまいました(笑)。
--2年間、大学生活をエンジョイした杉本さんが、どういうキッカケで野球に戻ったのですか?
杉本:当時、体力には絶対的な自信があり、練習しなくてもランニングだけは誰にも負けませんでした。そういう姿を山中さんは見ていてくれて「真面目に練習をすればチャンスをやるぞ」と言われました。ただ僕は「サイドスローなら投げなくてもいいや」と。
山中さんは、オープン戦には僕のことを起用してくれました。そこそこ打者を抑えることは出来たけど、山中さんから「生活態度を改めるように」と再三言われましたね(苦笑)。
大学4年生になる直前、「このまま野球を終えるのが嫌だ」と思いました。山中さんに相談したら「真面目に1年頑張れ。社会人野球という道もある」と言われて、やっとスイッチが入りました。ただ当時の法政には、1つ下にドラフトで近鉄から1位指名を受けた真木将樹と、2つ下に横浜ベイスターズからドラフト2位指名を受けた矢野英司という2人のピッチャーがいて、入る隙がなかったですね。
ただオープン戦などに登板させてもらって、社会人野球のチーム数社からお誘いを頂きました。その中で1番最初にお話を頂いたのがヨークベニマルでした。そこには大学1年の時、毎日500球を受けてくれた法政大の先輩である大場さんがいたので、二つ返事でベニマルに進むことにしました。

--そのヨークベニマルでは、どのくらいの期間過ごしたのですか?
杉本:2年半ですね。ヨークベニマルでは都市対抗野球に自チームで出場したことはないんですが、都市対抗野球は「補強選手」という制度があります。都市対抗野球大会に出場する各地区代表チームが、その地区の第一次、第二次予選において敗退したチームから3名以内を選出し、チームの一員として大会に出場させることができる制度で、大会1ヶ月前の練習期間からチームに合流できます。ですから2年半の間、都市対抗野球には他のチームで3回出場しました。
--その後、ヨークベニマルは野球部が休部になるんですよね。
杉本:そうです。法政大の同級生で松田という選手が、社会人野球シダックスで活躍していました。そして当時のシダックスの監督が、法政大出身の竹内さんという方でした。
竹内さんから「もしベニマルが休部になったら、シダックスに来ないか?」と言って頂き、家族と相談しシダックスに移籍しました。
--移籍したシダックスはいかがでしたか?
杉本:強かったです(苦笑)。シダックスは関東でも異色のチームでした。キューバの選手をチームに合流させていました。今でこそ木製バットですが、当時は金属バット。キューバ人が金属バットで球を打った時の飛距離はハンパないです(笑)。
大人が金属バットを持っているので、投手としては辛かったですね。詰まった打球でもフェンス直撃だったりして(苦笑)。
東北のヨークベニマルの時はチームの中心人物として評価して頂けましたが、関東圏内のチームのレベルの高さに驚きました。強豪が多い東京のチームに移籍してきて、東北とは違う環境に慣れなくて、オープン戦では投げるものの、メインの試合では投げることが出来ませんでしたね。

--シダックスには何年くらい在籍したのですか?
杉本:僕は30歳で引退しているので5年半です。27歳の頃、チームの状況が変化し中継ぎや抑えの枠が空きました。ただ、僕はシダックス移籍1,2年目にバカスカ打たれたので精神的にやられていました(苦笑)。3年目で元巨人の髙橋一三さんに出会いました。
--アニメ「巨人の星」の星飛雄馬のピッチングフォームのモデルとなった選手ですよね。
杉本:そこで髙橋さんにアドバイスを受け、サイドスローからアンダースローにフォームを改善しました。するとフォームに力みがなくなり、ボールをコントロールしやすくなりました。バッターからすると、「見え難く、タイミングが取りづらく」なりました。
そしてフォームが変わったあとに、野村克也さんに出会いました。当時、阪神の監督を辞任しプロ野球界とは一線を置いた形でした。そんな時、野村さんと長年付き合いがあったシダックスの志太勤会長(当時・現最高顧問)が、アドバイザーとして野村さんを招聘しました。1年経て、2002年よりGM兼監督になりました。
僕がシダックスで活動した5年半のうち、アドバイザー期間も含め3年間野村さんから指導を受けました。フォームに関しては髙橋一三さん、そして投手としての心構え・考え方等を野村監督に教わりました。これが僕の野球人生の中でのターニングポイントですね。
<(3)に続く>
<プロフィール>
杉本忠:1975年生まれ千葉県出身。父と兄の影響で小学生から野球を始める。その後、拓大紅陵に進学。高校3年で甲子園に出場し準優勝。大学卒業後、ヨークベニマルで活躍。だが野球部廃部に伴い、シダックスに移籍。野村克也氏より指導を受ける。現在、袖ヶ浦シニア等でコーチとして後進の育成に携わる。
取材・文/大楽聡詞