佐藤寿人インタビュー@前編 J1通算161得点は、大久保嘉人(現・セレッソ大阪)に次いで歴代2位。J2、リーグカップ、A…

佐藤寿人インタビュー@前編

 J1通算161得点は、大久保嘉人(現・セレッソ大阪)に次いで歴代2位。J2、リーグカップ、ACL、日本代表などすべての公式戦を含めれば、276のゴールを積み上げている。

 3度のリーグ優勝、得点王、MVPなど、チーム・個人含め数々のタイトルを獲得した偉大なるストライカーが、2020シーズンをもって21年にわたる現役生活に幕を下ろした。



21年間のプロ生活にピリオドを打った佐藤寿人氏

 輝かしいキャリアの一方で、その道のりは決して平坦だったわけではない。本人曰く、「幸せな21年間」は挫折と苦闘の21年間でもあったのだ。

 佐藤寿人がプロの世界に足を踏み入れたのは、2000年のこと。双子の兄・勇人とともにジェフユナイテッド市原(現・千葉)のユースからトップチームに昇格を果たした。

 しかし、1年目は8試合に出場したのみで、得点はなし。2年目に初ゴールこそ記録したものの、レギュラーを脅かす存在とはなれなかった。いきなり味わったプロの洗礼。しかし、佐藤は試合に出られない悔しさ以上に、自身の力不足を痛感していた。

「あの時は悔しさというより、単純に力がなかったですね。チームの力になれる選手ではなかった。やっぱりプロの世界で生きてきた守備の選手って百戦錬磨の人ばかり。18、19歳の選手がバンバン点を取れるほど甘い世界ではなかったですね」

 そこで佐藤はプロ3年目の2002年に、J2へ武者修行に出ることを決断する。

「J2に行って、実戦を積んで、そのなかで成功体験を掴んで、ジェフに戻ろうと」

 行き先は、前年にJ2に降格したセレッソ大阪。大分トリニータ、大宮アルディージャからのオファーもあったというが、U−20日本代表時代に指導を受けた西村昭宏監督の存在がC大阪行きの決め手となった。

 もっとも、移籍を決めたあとに、予想外の出来事が起こる。C大阪には森島寛晃、ひとつ年下の大久保嘉人と、すでに前線にタレントが揃っていたのに加え、開幕前にプレミアリーグのボルトン・ワンダラーズから西澤明訓の復帰も決定。さらにボスニア・ヘルツェゴビナ代表のトゥルコビッチも加わった。

「えっ、ジェフよりFW多いじゃんって(笑)。でも、一度行くと決めた以上は、今さら行きませんとは言えなくて。さらにそのタイミングで、ジェフの監督だった(ズデンコ・)ベルデニックが名古屋に引き抜かれたんですよ。

 監督が代わったので、ジェフに残れば試合に出られるかもしれない。実際にジェフからも、残れと言われました。でもなぜか、あの時の僕は頑固だったんですね。一回決めたことを撤回することはできなかった。そう考えると、あの移籍は自身のキャリアのターニングポイントになったと思います」

「J2で経験を積んで、ジェフに戻る」。佐藤の思い描いていたプランは、土台から揺らごうとしていた。「J2でも試合に出られないかもしれない」。実際に佐藤はその年、ほとんど試合に出ることができなかった。残した成績は13試合2得点。FWではなく、ウイングバックとして起用される屈辱も味わった。

「今でも忘れないですよ。首位の大分相手に0−3で負けている状況で、残り15分くらいに西村さんに呼ばれて。当然、FWで出ると思っていたんですが、なぜか左ウイングバックだった(笑)。練習でもやったことないのに、何を求めているのかなと。ソツなくこなしたんですけど、次の日のミーティングで『途中から入った選手がこんな消極的なプレーじゃ話にならない』と、名指しで批判されたんです」

 佐藤からすれば、解せない話である。

「正直、ひどい監督だと思いましたよ(笑)。練習でもやったことのないのに、できるはずがないじゃないですか」

 でも、その想いは、キャリアを積み重ねていくなかで、変化していくことになる。

「あの状況で何ができたんだろう、と考えるようになりました。左ウイングバックであっても、チームを活性化させることはできたはず。あの時、僕はミスをしたくないから無難にこなしましたけど、0−3で負けている状況であれば、リスクを負って中に入るとか、ボールを呼び込むとか、もっとほかにできることがあったんじゃないかって。

 あの時は釈然としませんでしたが、西村さんなりのメッセージだったと思うんです。僕はそれをくみ取れなかっただけ。まだ若かったのもあったんですが、30歳を超えたあたりから、そう思えるようになりました。今度、西村さんに会ったら聞いてみたいですね。もう忘れているかもしれないですけど(笑)」

 思い描いていた移籍にはならなかったが、C大阪へ行ったことは後悔していない。J1昇格の喜びも味わえたし、昇格を決めたあとに当時の社長から「来てくれてありがとう」と声をかけられたこともうれしかった。天皇杯では3得点と結果を出すこともでき、その活躍が認められ、翌年にJ1のベガルタ仙台への期限付き移籍を勝ち取った。

 しかしその仙台で、佐藤は生涯忘れられないほどの悔しさを味わうことになる。移籍1年目の2003年、仙台は16チーム中15位に終わり、J2へと降格した。

「2003年の仙台での降格と、広島に移籍した後の2007年の降格。このふたつは絶対に忘れられないです。なぜ、そういう結果になってしまったのか。僕がこれからもサッカーに携わっていくのであれば、あの時、なぜ失敗したのかをしっかり検証して、活かしていかなければいけない出来事だと思っています」

 2003年、佐藤はプロのキャリアで初めて、シーズンを通してピッチに立ち続けた。30試合に出場して9得点と、個人としてはまずまずの結果を残している。それでも、佐藤は「僕はJ2に落とした張本人」と、厳しく当時を振り返る。

「当時はまだ21歳でしたし、その若い選手に責任を負わすのはどうなんだ? という優しい声もありました。でも、プロであれば年齢は関係ない。FWである以上、もっとゴール奪わなければいけなかった。チャンスがなかったわけではないし、僕が決めていれば勝てた試合もあった。そう考えると、降格は僕の責任。ストライカーというポジションは、そういうものを背負わなければいけないんです」

 降格した試合の直後に、佐藤は地元のメディアに対してチームに残ることを明言している。レンタルから完全移籍に移行して臨んだ2004年は、J2とはいえ20ゴールと結果を出した。しかし、チーム自体は昇格争いに絡むことができず、翌年に佐藤はサンフレッチェ広島へ移籍した。

「仙台をJ1に戻せないまま、移籍してしまったのは心残りではありますね。仙台の人たちは本当に優しかったですし、あのスタジアムの雰囲気も特別なもの。結局、2年しかいられなかったですけど、今でも思い出に残っていますし、離れてからも好きな街のひとつですね」

 翌年に広島に移籍した佐藤は、J1の舞台で日本人トップとなる18ゴールをマーク。ベストイレブンにも輝き、ジーコ監督率いる日本代表にも選出された。

 日本屈指のストライカーにまで成長を遂げた佐藤は、ここからキャリアを飛躍させていくはずだった。しかし2007年、またしても佐藤の胸には大きな傷が刻まれた。

「優勝する想いで広島に行って、2005年にいい結果を出して、2006年は序盤につまずいたんですが、シーズン途中にペトロヴィッチ監督が来てくれて、すごくいいサッカーができているという手応えがありました。当初は、残留できるかという順位から10位でシーズンを終えて、右肩上がりで2007年に入ったんです」

 開幕戦でも佐藤とウェズレイの2トップがともに2点ずつを上げてFC東京を撃破し、最高のスタートを切っている。

「シーズン序盤は、ウェズレイとふたりで得点王争いできるねっていう話をしてたんですよ」

 ところがそんないい状態も束の間、佐藤とウェズレイの2トップに対するマークが厳しくなると、結果を出せなくなっていく。攻撃的なスタイルを標榜するがゆえに、守備の崩壊も招き、次第に広島の順位は下がっていった。

 それでも「危機感はなかったですね」と佐藤は振り返る。

「優勝争いできるだろうと思っていたので。結果が出ないなかでも、ひとつ勝てば大丈夫だろうという自信がなぜかありました。でも、終盤になるにつれ、残留争いのプレッシャーにさらされて、ライバルとの直接対決にも勝てなくなったんです」

 気づけば、広島は自動降格こそ免れたものの16位に終わり、京都サンガとの入れ替え戦に回ることとなった。

「21年のキャリアのなかで、入れ替え戦はあの時だけ。1週間で2試合を戦ったんですが、本当に生きた心地がしなかったですね。サッカーって何なんだろうって、本当に訳がわからなくなっていました」

 結局、京都との入れ替え戦はアウェーゲームを落とすと、ホームゲームはスコアレスドローに終わり、J2降格の悪夢を味わうこととなった。

「落ちるべくして落ちたと思います。どこかで大丈夫とだいう想いが最後まであったのかもしれないですね。でも、悪くなってからではもう遅いんです。いい状態の時にも、悪い部分は隠れている。そこを追及しなければいけなかった。そこはあの降格から学べた部分です。

 結果に対して一喜一憂するのではなく、目の前のことをしっかりと見続けることが大事。これからもサッカーに携わっていくのであれば、あの経験を活かさなければいけないと思っています」

 仙台での降格以上に、佐藤は責任を感じていたという。

「あの時、僕は11試合もゴールが取れなかったんです。当時は日の丸もつけていましたし、自分が結果を出さなければいけない立場なのも理解していました。取るべき人間が11試合も取れなければ、勝てるわけはありません」

 一方で、11試合も点を取れなかったのに、なぜ自分が試合に出続けられるのか。自分が出ないほうが勝てたかもしれない。そんな想いも湧いていた。

「あらためてそのシーズンの公式記録を見返したんですけど、点が取れてないのにほぼフル出場だったんですよ。他のFWにとっては、そうとうストレスだったと思いますよ。

 一度、ミシャ(ペトロヴィッチ監督)に『疲れているお前と、代わりのストライカーを比べた時に、それでも疲れているお前のほうが点を取れると思ったらピッチに残す』と言われたことがありました。そこまで信頼してくれてありがたかったですけど、ミシャの言葉を肯定できるのも、僕が結果を出してこそ。だから結果を出せずに恥ずかしさもありましたし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

 降格決定直後、責任を一身に背負ったストライカーは、ファンに向かって涙ながらに広島残留を宣言した。 

(後編につづく)

【profile】
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、出場機会を求めてセレッソ大阪、ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。ポジション=FW。身長170cm、体重65kg。