4番・捕手だった植田響介さんは、今春から社会人ENEOSへ 2015年に明治神宮大会で優勝、2016年の春のセンバツで55年ぶりの準優勝を果たした高松商。当時、4番・捕手とチームの主力だった植田響介選手(慶大4年)は、大躍進を見せたセンバツ…

4番・捕手だった植田響介さんは、今春から社会人ENEOSへ

 2015年に明治神宮大会で優勝、2016年の春のセンバツで55年ぶりの準優勝を果たした高松商。当時、4番・捕手とチームの主力だった植田響介選手(慶大4年)は、大躍進を見せたセンバツの最後の1球が野球に対する考え方を変えてくれたと言う。55年ぶりの決勝進出で香川県を、高校野球ファンを熱狂させたあのセンバツが「変えてくれたもの」と、まもなく5年が経つ今も「変わらない絆」とは。(聞き手・西村志野)

――あのセンバツ準優勝から今春で5年です。智弁学園(奈良)との決勝戦を含め、振り返ってみて、どんな大会でしたか?

「一言で言うと、自分たちは考えていなかった『奇跡』ですかね。あそこまで行けるとは思っていなかったですね。思った以上に勝ち進んで『あれ?何だろう、これ』って。自分たち自身も不思議な感覚でした」

――センバツの一番の思い出は?

「1つ下の弟の理久都(明大3年)と史上初の同一大会での兄弟アーチを、たまたまですけど打つことができました。歴史に名を刻めたというか一生残るものになったというのは、今までで一番の兄弟の思い出なんじゃないですかね。2回戦の創志学園戦(岡山)で、理久都がHRを打って『うわ~先やられた』って思っていたら、次の日の準々決勝・海星戦(長崎)で僕もHRを打てた。審判が手を回しているのを見て、ホッとしました。『危ねえ、弟に負けるところだった』って思いながらダイヤモンドをまわった気持ちは今でも覚えていますね」

――印象に残っている試合はありますか?

「個人的には準決勝、秀岳館(熊本)との試合で勝てたというのが、すごく印象に残っていますね。正直、秀岳館には勝てないと思っていました。自分が延長11回に決勝打を打ったというのもあるんですけど、準決勝で、あの粘り強さで延長戦をものにしたっていうのは、自分たちがすごく成長しているんだなとチーム全体で感じることができて、かつ、自分も勝ち越しタイムリーを打てて、すごく印象的な試合にはなっています」

――センバツは夏の大会にどのような影響がありましたか?

「夏の大会が始まる前からチーム全体に自信がついていました。他のチームにはない経験を全国大会でもしているし、香川県に経験値では負けるチームはないと思っていたので、そこは自信にしていた部分でしたね。甲子園を経験して、夏の大会で焦る部分がなかった。常に冷静でいられたというのは、甲子園、大舞台を経験しているからこそ得られたものだと思うので、そこは甲子園に出てすごく変わったなと思います」

――高校卒業後、センバツ準優勝の経験が活きているなと思うことはありますか?

「『センバツ準優勝』という実績は、大学のチーム内で発言した時に説得力が生まれるんだなと感じました。もちろん色々な人の色々な考えがあるなかで、発言をする機会をもらった時に、『こいつが言っているんだったらそうなんだよな』と思ってもらえることが多かった。大学時代もあまり否定されたことがなかったので、それは明治神宮大会優勝やセンバツ準優勝のおかげかなと思います」

センバツ準Vのメンバーの中で長く野球を…「もう誰も野球をやっていないと思われたくない」

――今はそれぞれ違う道を歩んでいると思いますが、あのセンバツ準優勝メンバーとはよく会いますか?

「毎年、年末に帰省した時は集まって遊んだりします。1年で上位を争うくらい楽しみなことが、帰省してみんなに会うこと。それを楽しみに頑張っています。でも、僕らの代で野球を続けている人はもう少ないですね。大学後も野球を続けているのが、僕と美濃(晃成)だけですね」

――植田選手は大学を卒業後、社会人野球のENEOSでプレーする予定。野球を続けている選手が少ない中で、思うことはありますか?

「同級生のみんなからも『頑張れ』とか『望みはお前らだけや』とか言われるので、野球を離れたヤツらの分まで僕らが、自分が頑張らないといけないなってすごく思っています。『神宮で優勝、センバツ準優勝した代を潰すわけにはいかない』というか『もう誰も野球やってない』って思われたくないし、頑張っているヤツがいたほうがいいと思う。野球をやりたくてもできない人もいるので、そういうヤツらの分まで野球に向き合って頑張らないといけない。メンバーと撮った写真は携帯に入っているので、時々見返して『こういう時もあったな。こいつらもう野球できないんだ』って考えたりして勇気や、やる気をもらっています」

――センバツで一番忘れられない景色はどんな景色ですか?

「智弁学園(奈良)との決勝戦で、延長11回、最後にセンターオーバーのサヨナラ適時二塁打を打たれた時。センターを守っていた安西(翼)があの打球をとれなかった瞬間ですかね」

――勝った試合ではなくて、負けてしまったあの「最後の一球」が一番忘れられないんですね。

「今でも目に浮かびますね。智弁がサヨナラを打ってマウンドに集まる姿と、あの歓声は今でも耳に聞こえそうですし、あの景色は今でも浮かびますね」

――あのセンバツ以降、野球観や考え方で変わったことはありますか?

「決勝戦で負けてから改めて考える部分が出てきました。延長11回のあの時、2死一塁で普通だったら外野を後ろに下げなきゃいけない状況だったんですけど、打者が投手の村上(智弁学園)だったので『後ろへの打球、頭を超えられることはないだろう』と直感で思ったんです。その前の打席も打たれていなかったので、センターの安西(翼)も前に守っていて、キャッチャーの僕もその安西の意図を汲み取って『安西そこで守ってていいよ』とOKサインを出したんですけど、それがダメで負けてしまった。『野球のセオリーを無視しちゃいけないな』とすごく感じました」

――高校野球の3年間で得たものは?

「高校野球で得たものは仲間。これは間違いないです。みんながいなかったらあそこまでの結果は残せていないと思いますし、お互いに助け合ったり鼓舞しあったりして、頑張れた。その中心にはキャプテンの米麦(圭造)がいたんですけど、あいつがいたからチームもまとまったし、仲間が自分を大きく成長させてくれたと思います。あのメンバーだったからこそ、絶対に死ぬまで崩れないと思うくらいの仲の良さがあって、僕もみんなが応援してくれている分まで頑張ろうと思います」

――最後に、植田響介選手にとって「甲子園」とは?

「高校野球の全てが詰まっている教科書だと思います」(西村志野/Shino Nishimura)