「ニッポンの元気印」高橋みゆきインタビュー 前編 ニッポンの元気印――。かつて日本代表で活躍した高橋みゆきをその愛称で覚えているファンは多いだろう。 身長170cmの高橋はバレーボール選手としては小柄ながら、キレがいいスパイクで得点を重ね、…

「ニッポンの元気印」
高橋みゆきインタビュー 前編

 ニッポンの元気印――。かつて日本代表で活躍した高橋みゆきをその愛称で覚えているファンは多いだろう。

 身長170cmの高橋はバレーボール選手としては小柄ながら、キレがいいスパイクで得点を重ね、守備にも定評があった。日本は2000年シドニー五輪の出場権を逃すも、高橋はそこから大きく成長し、アテネ五輪、北京五輪では中心選手としてチームを引っ張った。

 常に明るくチームを盛り上げていたイメージがあるが、その中で感じていたオリンピック出場への大きなプレッシャー、共に戦っていたチームメイトの印象などを語った。


2000年代に女子バレー日本代表で活躍した高橋

 photo by Nakanishi Mikari

――まずは、バレーボールを始めたきっかけから聞かせてください。

「父がスポーツ少年団の監督をやっていて、兄もその少年団に入ったので、気がついたら自然とバレーボールをやっていました。2人の弟たちもそう。その後、中学では全中(全日本中学校バレーボール選手権大会)に、高校(山形市立商業)ではインターハイや春高バレーにも出ました。春高の結果(1995年、1996年)は2回戦でしたかね」

――高校を卒業して1997年にNECレッドロケッツに入団しますが、どういった経緯があったんですか?

「各高校のバレーボール部が、夏休みにいろんな企業の練習に参加する機会があって、うちの高校が行ったのがNECでした。そこで誘ってもらったんです。地元の山形県にホームがあったパイオニアレッドウィングス(2014年に廃部)にも声をかけてもらったんですけど、当時はNECが一番強かったので、どうせなら強いチームに入ろうと」

――NECでは新人賞を獲得していますね。

「新人賞を獲ったのは3年目でしたけどね(笑)。2年目はケガをしていて、運よく外国人枠がなくなって試合に出始めたのが3年目だったので、(新人賞の)権利があったんです。チームは全勝で優勝し、その年に代表として呼ばれました」

――代表に選抜されたあと、すぐにシドニー五輪の予選がありましたね。当時の監督は葛和伸元さんでした。

「最終予選(OQT)の時にいきなり呼ばれたんですが、『私でいいのかな』という感じでした。レギュラーではなくて、リリーフサーバーという立場でしたね。その最終予選の前に、ロシア遠征で試合に出た時はケチョンケチョンにやられて、全然通用しなかった。

 当時エースだった大懸郁久美(現:成田郁久美)さんは、私より2、3cm高いだけで同じようなタイプの選手だったので、『小さいなりにどうやって戦うか』といったことを教わりました。あとは、『このチームの中で、今の自分に何ができるんだろう』と考えた時に、リリーフサーバーとして流れを変えることしかできないと思って、ずっとサーブの練習をしていました」

――若手の頃は、あまり練習が好きじゃなかったとも聞きますが。

「若手の頃だけじゃなくて、ずーーーっと嫌いでした(笑)。それでも、嫌いなりに練習を重ねていくと、やらないと不安になってくるんです。自分の責任が重くなってくにつれて、嫌いとかは関係なくやらなきゃいけなくなってくる。さまざまなプレーを体に覚えさせるような感じでしたね」

――シドニー五輪のOQTで日本は敗退し、女子バレーボール史上初めて五輪出場を逃す結果になりました。その時の心情はいかがでしたか?

「OQTが終わってからは、周囲からいろいろ言われてバレーボール自体がちょっと嫌いになりました。Vリーグでも淡々とやっていたと思います。(2003年2月に)代表監督が柳本(晶一)さんになった時も、私は身長が低いから選ばれないだろうと。でも柳本さんは、私やテンさん(竹下佳江)など、身長が低い選手を選んで『チームの軸にする』と言ってくれた。それで、『もう一回、頑張ってみようかな』と思うことができました」

――当時に呼ばれていた"ニッポンの元気印"という愛称どおり、『常に明るく、ポジティブ』というイメージを持っていたファンも多いと思いますが。

「そのニックネームを初めて聞いた時は『別に元気じゃないし......』と思いましたよ(笑)。アテネ五輪の出場を目指している頃は、チームを盛り上げること、リズムを引き寄せることが自分の役割だと思っていましたから、そのイメージが残っている方もいるかもしれません。でも、アテネ五輪のあとの私のプレーを見た方は、『怖い』と思った方もいるんじゃないですかね。経験と共にチーム内の立場は変わりますから」


2015年に結婚し、2018年に男の子を出産した

 photo by Matsunaga Koki

――アテネ五輪を目指す代表では、どんな立ち位置だったんですか?

「上にはオリンピック出場経験があるトモさん(吉原知子)、下にはメグカナ(栗原恵・大山加奈)がいたので、私はその中間でした。でも、上と下の"つなぎ役"という意識はなかったです。私はサーブやスパイクのレシーブなど、守備や盛り上げ役など全部をやらないといけない選手でしたし、プレーのことで頭がいっぱいでしたね。特にアテネ五輪のOQTは、前回に出場権を逃していたので、なにがなんでも獲得しないといけなかった。そのプレッシャーは本当にすさまじかったです。

 メグカナに関しては、自信がない感じで悩んでいるのかなと思った時に『あまり考えすぎなくてもいいよ。コートの中で一生懸命やればいいから』と声をかけたことはあります。でも、彼女たちはそんなに弱い選手じゃなかった。それに、トモさんやテンさんがチームをけん引してくれていましたからね」

――吉原さん、竹下さんの当時の印象は?

「トモさんは、見た目は少し怖そうだけど(笑)、コートを離れたら普通に話しますよ。プレーに関しては怒ることもありますが、それは必要だったこと。オリンピックに出場した経験から『この程度じゃだめ』と、みんなに教えてくれて、そこにいてくれるだけで安心感がありました。トモさんも『何かあったら言っていいよ』と話してくれていた。ある試合で、トモさんのサーブレシーブがきっちり返らない時に『トモさんどいて』とハッキリ言ったこともありましたけど、チームが勝つために自然に受け入れてくれました。

 テンさんは本当に妥協しない人。納得するまで練習を続けて、その姿にみんなが引っ張られていました。私は、チームが苦しい時にテンさんにトスを上げてもらえる選手になりたかったので、コンビ練習、スパイク練習も毎日やって、1本ごとに『こうしてほしい』と伝えていましたし、逆にアドバイスをもらうこともありました。でも、私からいろいろ言わなくても、ほとんど理想的なところにトスが来るんですけど(笑)」

――アテネ五輪への出場を決めたのは、2004年5月に行なわれた世界最終予選の韓国戦でした。その時のことは覚えていますか?

「いよいよあと1点になった時は、泣きそうになっちゃいました。シドニーからの4年間、柳本さんが監督になってからの2年間のことが、頭の中で渦巻いていましたね。『最後まで何が起こるかわからない。気を抜いてはいけない』と自分に言い聞かせてはいましたけど、あと1点で決まるとなったら、そりゃあ少しは気が抜けますよ(笑)。最後の1点が決まった時も、『嬉しい!』というより、『ホッとした』という感情になりました」

――アテネ五輪の結果は5位でしたが、本戦はいかがでしたか?

「小さい頃から夢に見ていた初めてのオリンピックは、『いつもどおり』と思っていたんですが、最後までどこかフワフワしている感じでした。まったく思うようにプレーできなくて、すごく情けなかったです。

 目標が『オリンピックに出ること』だったので、すぐに『次はオリンピック本戦で勝つ』と切り替えることが難しかったこともあったのかと。最初からオリンピックのメダルを狙っている国とは全然意識が違いました。自分の精神的な未熟さを感じましたし、大会が終わった時に『何やってんだろう』と思った記憶しかないですね」

(後編につづく)