異能がサッカーを面白くする(2)~武闘派編 取材で海外を訪れると、スリ、かっぱらいの被害に遭わないように、気を引き締め直…
異能がサッカーを面白くする(2)~武闘派編
取材で海外を訪れると、スリ、かっぱらいの被害に遭わないように、気を引き締め直す癖がついている。「人を見たら泥棒と思え」とは言いすぎだが、隣の人、すれ違う人に対して、かなり敏感になる。幾度もやられた苦い過去があるからだ。とりわけレベルの高いツワモノが待ち受けているのはラテン系の国々だ。
すぐ転ぶ。すぐ痛がる。すぐに審判に文句を言う。肘撃ちはするし、足は踏む。彼らは、ピッチ上でマリーシアをいかんなく発揮する現地のサッカー選手と重なって見えた。
日本社会の通念から大きく外れた、まさにスポーツマンシップに反するそのプレーに、当初は違和感を抱きっぱなしだった。理解しがたい気質に慣れるまで、時間を費やしたものだ。ピッチ上の戦いを見ていれば、スリやかっぱらいが街中に多数潜んでいる理由が、十分納得できるのだった。

現役時代はアトレティコ・マドリード、インテル、ラツィオなどで活躍したディエゴ・シメオネ
筆者が観戦した中で最も酷かった試合は、1991年コパ・アメリカ、チリ大会だ。7月17日、首都サンティアゴで行なわれた決勝リーグ、ブラジル対アルゼンチン戦。試合は、後半16分までに赤紙が両軍に2枚ずつ提示される大荒れの展開になった。アルゼンチン選手が陰で挑発し、カッときたブラジル選手が報復するというパターンが、くり返されていた。
終盤を迎えてピッチ上の人数は9対9。スコアは3-2でアルゼンチンがリードしていた。時のブラジル代表監督は、その3年後に日本代表監督に就任することになるパウロ・ロベルト・ファルカン。1982年スペインW杯で「黄金の4人」の1人として活躍した名手である。ジーコとは違い、感情を表に出すタイプではない、どちらかと言えば物静かなタイプだった。
こちらを驚かせたのは、そのファルカンが、終了間際に行なった怒りの采配になる。ジョアン・パウロというドリブラーに代わって送り込まれたカレッカ・テルセーロ(第3のカレッカ)は、ピッチに入るや、いきなりアルゼンチン選手に向けて唾を吐いた。そして主審から赤紙をかざされる前に、自らピッチを去っていった。
選手は監督から様々な使命を授かり、ピッチに入っていくものだが、カレッカがこの時、ファルカンから授かった指示ほど低級なものはないだろう。それがアルゼンチン対ブラジルという一流の舞台で起きた出来事だったことに、カルチャーショックを覚えたものだ。
アルゼンチンのどの選手にカレッカの唾が向けられたのか、現場ではよくわからなかったが、ディエゴ・シメオネだった可能性は高い。
ブラジルとの乱戦を制したアルゼンチンは、この1991年大会に優勝。さらにその2年後に開催された1993年エクアドル大会でも決勝に進出。グアヤキルでメキシコと対戦した。
筆者が肩入れしていたのは、この大会で好チームの名を欲しいままにしていたメキシコ。試合はアルゼンチンがガブリエル・バティストゥータのゴールで先制すれば、メキシコがPKで追いつく面白い展開で、終盤を迎えていた。
後半29分。アルゼンチンはシメオネが中盤を右斜め前方方向にドリブルで激走した。メキシコ選手2人が対応し、ボールはタッチラインを割った。アルゼンチンボールなのか、メキシコボールなのか。マイボールを主張するメキシコ選手2人を尻目に、シメオネは副審が判定を下す前にボール拾い上げ、数的有利な状況になったスペースを走るバティストゥータのその鼻先へ、間髪入れず、スローインを投げ入れた。
そのけっしてうまいとは言えないドリブルで、狙いどおりスローインを獲得し、可能な限り時間をかけずに投げ入れることで、メキシコの混乱を誘う。バティストゥータと示し合わせた狡猾なシナリオに見えた。
シメオネ。アトレティコ・マドリードの監督として名将の誉れ高い現在の姿を、現役時代に予見することはまるでできなかった。
狡いだけではなかった。危険なプレーも平気でやった。
1996-97シーズンのスペインリーグ、アトレティコ対ビルバオ戦。12月8日にサン・マメスで行なわれた試合を、筆者は欧州のどこかのホテルで観戦していた。その後半のあるときだった。画面手前のタッチライン方向へ、シメオネがボールを追いかけている時だった。その背後から、ビルバオの華麗なゲームメーカー、スペイン代表のフレン・ゲレーロが、そのボールをさらおうと、身体を半分、滑らせながら、シメオネに迫っていった。
シメオネがそこでとった行動は、迫ってきたゲレーロの右足太ももを、スパイクで踏みつけることだった。テレビカメラがアップで映しだしたゲレーロのユニフォームには、ぱっくり穴が開いていて、そこから血がたらたらと溢れ出ていた。あまりにも生々しく、痛々しいショッキング映像。正視できず、目を手で覆い隠した記憶がある。
1998年4月28日と言えば、日本が初出場したフランスW杯まで1カ月半を切った段階だった。日本がW杯の初戦で戦うアルゼンチンが、リオの旧マラカナンで、ブラジルと親善試合を行なうということで、偵察がてら現地まで観戦に出かけた。
スタジアムに詰めかけた観衆9万9697人の中にアルゼンチンサポーターはゼロ。肉眼で発見することはできなかった。まさに完全アウェーとなったアルゼンチン代表が、ピッチに姿を現すと、スタンドは地鳴りのようなブーイングに包まれた。
先頭を切ったのはシメオネだった。ピッチへと通じる扉が開くや、激しい逆風が吹き荒れるその中へと、特攻隊員のごとく猛然と出撃していった。間近で見ていたので、その形相、面構えは、いまでも鮮明に記憶する。完全に"いってしまった"人のようだった。
いったんスイッチが入ると、戦闘隊員と化すのがシメオネだ。喧嘩なのか、プレーなのか。その境界が他のどの選手より鮮明ではないところに、なにより怖さを抱かせる。1998年6月14日、トゥールーズで行なわれたフランスW杯日本戦でも、中田英寿に強烈なタックルを見舞っていた。
そのうえ計算高い。1998年6月30日。サンテチエンヌで行なわれたフランスW杯決勝トーナメント1回戦。2-2からアルゼンチンが延長PKでイングランドを下した試合だが、ここでもシメオネは本領を発揮した。
デビッド・ベッカムはボールを受けた瞬間、シメオネに後ろから激しくチャージされた。ピッチに倒れたベッカムが、先に立ち上がったシメオネに、足を振り上げると、シメオネは、待ってましたとばかりに転倒。この応酬を目の前で見ていた、長身のデンマーク人の主審、キム・ミルトン・ニールセンは、ベッカムの足上げを報復行為と見なし、一発レッドに処したのだった。
激しくバックチャージしたところでせいぜいイエロー。一方、報復行為の代償は重い。一発レッドの対象になる。この不条理とも言える判定の盲点を、シメオネは計算高く突く。正直者のベッカムはその術中に、まんまとハマってしまったのだ。
もしサッカー選手ではなかったら、シメオネはどんな人になっていただろうか。その現役時代、幾度も要らぬことを想像したものだが、アトレティコの監督として采配を振る現在の姿を見ると、「人は見かけによらぬもの」を痛感せずにはいられない。こちらに見る目がなかったことを詫びたくなる。同時に、その希少価値に対して、敬意を表したくなるのである。