魔球の使い手が語る「伝家の宝刀」誕生秘話牛島和彦(フォーク)編 この球を投げられたら終わり──。バッターを絶望に陥れ、多…
魔球の使い手が語る
「伝家の宝刀」誕生秘話
牛島和彦(フォーク)編
この球を投げられたら終わり──。バッターを絶望に陥れ、多くのファンを魅了してきた「伝説の魔球」。それら「伝家の宝刀」はどのように生まれたのか。魔球の使い手が語ったインタビューを掘り起こし、その秘話を振り返る。
牛島和彦が出てくるだけで、相手ベンチにはあきらめムードが漂った。決め球のフォークに、バットは次々と空を切る。手が小さく、指も短いというコンプレックを抱えながらも、「フォークを自分のモノにしたい」という想い──そこで牛島は尋常ではない行動を起こした。

フォークを武器にプロ通算53勝126セーブを挙げた牛島和彦
牛島和彦の名が一躍全国区となったのは浪商(現・大体大浪商)高校時代。"ドカベン"の愛称で親しまれた香川伸行とのバッテリーで3度の甲子園に出場し、3年時はセンバツ準優勝、夏はベスト4入りするなど、高校球界屈指の右腕へと上り詰めた。そんな牛島のピッチングを支えたのがフォークだった。
「僕がフォークボールを練習し始めたのは高校2年の時です。それまでは真っすぐとカーブだけのピッチャーだったのですが、そのカーブがまったく曲がらなくて......(笑)。ちょうどその時期、江夏(豊)さんや星野(仙一)さんがフォークを投げているのを見て、『投げてみようかな』と興味が湧いたんです」
今でこそ高校生でもフォークを投げる投手は多いが、当時はほとんどいなかった。
「フォークという存在は知っていても、投げる投手はほとんどいませんでした。『故障しやすい』という情報が流れていたこともありますが、なにより僕のように手が小さく、指の短いピッチャーは『これは無理だ』とあきらめていましたね」
フォークはボールを人差し指と中指に挟み、指の間から抜くようにリリースするわけだが、とくに手首やヒジをひねる必要はなく、覚えやすい球種ではある。だが、牛島が言うように手の大きさ、指の長さが大きく影響する球種で、マスターするまでには多くの時間を要した。
「試してみると、やはり手の小ささや指の短さが問題で、ボールを挟んだのはいいけど、リリースの瞬間にうまくボールが抜けてくれない。最初は10球に1球くらいしかまともに変化してくれませんでした」
どうすればしっかり落ちてくれるのか。牛島は試行錯誤を重ねたが、なかなか解決策を見つけ出せずにいた。
「人差し指と中指のつけ根を切れば、ちゃんとボールを挟めるんじゃないかと思ったこともありました。それはさすがに『ちょっと痛そうやなぁ』ということでやりませんでしたが、指の第一関節あたりで挟んで、第二関節以降を曲げてボールを握るようなところからスタートしました。
プロに入った当初もその握りでフォークを投げていましたが、しっかりコースを狙って投げようとするとすっぽ抜けてしまう。だから思いきり腕を振れないんです。自信がないというか、プロで通用する球ではなかったですね」
それでもあきらめなかった牛島は、ストレッチ感覚で毎日指を広げていれば関節が柔らかくなってうまくボールを挟めるのではないかと思い、愚直に実践した。そんな牛島の指に変化が訪れたのがプロ2年目の秋だった。
「気がついたら右手の人差し指と中指だけパンパンに膨れ上がり、痛くてまともに曲げることもできなくなってしまって......。自分ではストレッチ感覚でやっていたのですが、明らかにじん帯を無理に伸ばしていたんでしょうね(笑)。そんな状態だったので、腫れが治るまで安静にしていたんです。すると、"ケガの功名"というか、"荒療治"というべきか、腫れが引くと人差し指と中指の第2関節がグニャッと外側へ広がるようになったんです。そのおかげでボールをしっかり挟めるようになり、自分の狙ったコースに投げることができるようになりました」
フォークをマスターした牛島は、3年目に17セーブを挙げると、5年目には29セーブで最多セーブ投手に。成功の秘訣を、このように語っている。
「フォークをマスターできたのは、投げ方も大きなポイントでした。それまではボールがスポッと抜けてしまうので、腕を押し出すようなイメージで投げていました。でも、しっかりと挟めるようになってからは、ストレートと同じフォームで腕を思いきり振ることができたので、打者を翻弄することができました」
だが、プロの世界は甘くない。無双と思えた牛島のピッチングだったが、徐々に相手打者にとらえられるようになっていく。
「フォークとは本来、150キロ前後の速球を投げられる投手のほうが有効に使える球種なんです。速い球に合わせようとすると、どうしても始動が早くなり、ボールの見極めが難しくなるんです。でも現役時代の僕のように、真っすぐが140キロちょっとのピッチャーがフォークを投げて打者のタイミングをずらしても、ファウルにされてしまう。だから、5年目のシーズン終盤の頃になると、真っすぐ、カーブ、フォークだけで抑えるのは相当困難になっていましたね」
そしてもうひとつ、牛島が苦労したのがクセの修正だった。
「フォークは指でボールを挟むため、モーションに入ってからその動作をすると、どうしてもグラブが一瞬広がってしまい、右ヒジも少し動いてしまうんです。それがバレると、いくらいい落ち方をしても通用しない。なので、フォークを投げる際はグラブを開いた状態にし、あらかじめ人差し指でポジションを決めて、モーションに入ってから素早く挟むようにしていました」
いつしかフォークは牛島の代名詞となったわけだが、6年目からは新たにシュートとスライダーをマスターし、さらに投球の幅を広げていった。
「8年目からはロッテでプレーすることになるのですが、パ・リーグの選手は『牛島はフォークピッチャーだ』という印象が強かったようで、あえてフォークを投げなかったんです。それが功を奏し、うまく抑えることができました。その後もチェンジアップを覚えたり、僕にとってはフォークを生かすためのステップアップとして、さまざまなことに挑戦していった感じですね」
最後に、牛島にとってフォークとはどのような存在だったのか聞いてみた。
「フォークがあったことで、ほかの球種も有効活用できましたし、僕にとっては生命線ともいえるボールでした。投手としての幅も広げることができましたし、フォークがなかったら10年以上もプロの世界でやれなかったと思います」