あのスーパースターはいま(2) ヨハン・クライフを中心にトータルフットボールを打ち出し、一躍時代の寵児となったオランダ…
あのスーパースターはいま(2)
ヨハン・クライフを中心にトータルフットボールを打ち出し、一躍時代の寵児となったオランダ代表。しかし、80年代に入りクライフ世代が次々と引退していくと、表舞台から遠ざかり、W杯の本大会出場さえ難しくなってしまった。
そんなオランダを1988年のヨーロッパ選手権で優勝に導き、一躍世界に名を馳せたのがルート・フリット(日本ではこの表記で定着してしまったが、本人は「グーリット」と発音してほしいと言っていた)、フランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステンの3人だ。
そんな彼らに早くから目をつけていた人物がいた。ミランの会長に就任したばかりのシルヴィオ・ベルルスコーニだ。低迷していたミランを、豊富な資金でよみがえらせようとしていた彼は87年にはフリットとファン・バステンを、翌88年にはライカールトを手に入れた。彼らのことをイタリア人は「Tre Tulipani(3つのチューリップ)」と呼んだ。

(左から)ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト
当時のイタリアには世界中のスターが集まっていた。それぞれのチームには顔となる外国人選手がいた。ディエゴ・マラドーナのナポリ、ドイツ代表3人を擁したインテル、そしてオランダトリオのミラン。3人は多くの勝利を手に入れ、ミランの黄金時代を演出した。
引退後は3人とも監督を経験しているが、それぞれのストーリーはかなり違う。
一番先に28歳という若さで引退したのはファン・バステンだ。身体能力が非常に高かったが、たび重なるケガにより、その足首は激しいプレーに耐えられなくなった。後に彼は「サッカーの神には祝福されたのに、自分のかかとに裏切られた」と語っている。
選手を辞めた時は、本当につらかったようだ。昨年、イタリアの『コッリエレ・デッラ・セーラ』紙のインタビューで、彼は当時を振り返りこう語っている。
「それまでの私の人生はすべてサッカーを中心に回っていた。それが突然なくなってしまった。毎日が苦しくてしょうがなかった。今考えると、うつ病に近かったと思う。なぜ自分がこんな目に合わなければならなかったのかと、そのことばかり考えていた」
本当に彼がその考えから解き放されるのは40歳のころだったという。
そんなファン・バステンを救ったのが、現役時代から趣味としてプレーしていたゴルフだった。手術で足首を固定してしまったので、もうボールを蹴ることはできなかったが、ゴルフならばできる。サッカーを忘れようとするかのようにファン・バステンはゴルフに熱中し、一時期は週に3、4回プレーし、プロのレッスンも受けていたという。そして2000年にハンディキャップ3.5となり、オランダゴルフ界のトップディビジョンデビュー。この時ほどオランダでゴルフがメディアの注目を集めたことは過去になかったという。
その後、ファン・バステンはサッカーの世界に戻ってくる。古巣のアヤックスの監督を皮切りに監督業に乗り出した。オランダ代表、アヤックスのトップチームなどを率いたが、選手時代ほどいい成績を残すことはできなかった。ファン・バステン自身は早いうちから、自分は優秀な監督にはなれないと思っていたという。
「アヤックスに戻って間もない頃、ひとりの若い選手が私を呼びとめてこう言ったんだ。『おい、あんたファン・バステンなんだろ? ちょっと技を見せてくれよ』しかし、すでに私の足首は動かなくなっていた。その時私は悟った。かつて私を指導してくれたような監督たちのようには、私は決してなれないとね」
ちなみにその若者とは、ズラタン・イブラヒモビッチだった。
結局、ファン・バステンは2015-2016年にオランダ代表のアシスタントコーチをして以降、監督業からは一切足を洗った。
「監督業はつらかった」と彼は振り返る。選手とは違うプレッシャーと日々戦い、記者会見の前はいつも誰もいない部屋で床に寝そべり、非難に対する勇気を蓄えていたという。
「私はサッカーに対してはマニアなので、完璧でないと我慢できなかった」
監督を辞めた2016年からは2018年まではFIFAの技術発展部門の責任者に就任。新たなサッカーのルールなどの提言を多数した。中には「オフサイドをなくす」など、なかなか理解を得られないアイデアもあったが、彼が最も力を入れたのはVARの導入で、それはロシアW杯で実現した。
現在、ファン・バステンはいくつかのテレビ局で解説をしている。2008年に購入したアムステルダムでも1,2を争う豪邸に住み、すでに2人の孫もいる。
昨年、彼は自伝を出した。オランダ版のタイトルは「BASTA(もう十分)」だが、イタリア版は「Fragile(壊れ物)」となっている。メディアの取材も多く受けるようになり、ここにきてようやく選手時代を振り返ることができるようになったのかもしれない。
3人の中で一番早く監督になったのはフリットだ。1998年にチェルシーで現役を終えたが、その2年前からプレーイングマネージャーをしていた。その後ニューカッスル、フェイエノールト、ロサンゼルス・ギャラクシーなどを率いたが、彼もまた監督として大成功したとはいえず、2011年からはどこのチームも率いていない。
ただ、2018年にeスポーツのチーム「チーム・フリット」を結成。10代の少年らとともに国際大会にも出場している。FIFA20ではアタランタとパリで行なわれたチャンピオンズカップで優勝もしている。
フリットは社会問題や政治にも興味を持ち、特に南アフリカのアパルトヘイト撤廃に現役時代から力を注いでいた。レゲエが好きなフリットは、反アパルトヘイトの『サウスアフリカ』という歌を1984年にリリース、オランダのヒットチャートに入ったこともあった。1987年にバロンドールを受賞した時には、それを反アパルトヘイトの指導者であったネルソン・マンデラに捧げた。マンデラも「今は私に多くの友人がいる。しかしルートは私が囚われていた時代からの数少ない友人だ」と語っている。
これまでに3回結婚し、それぞれの妻との間に2人ずつ、計6人の子供がいる。3人目の妻のエステルはヨハン・クライフの姪っ子でもあり、両親からサッカーの才能を受け継いだのか、彼らの間に生まれたマキシム・グリットはプロのサッカー選手だ。現在19歳の彼はオランダのAZに所属し、昨年10月29日にはヨーロッパリーグの試合でトップチームデビューを果たした。オランダU-19代表入りも果たしており、注目を集めている。
今はトレードマークのドレッドヘアをバッサリ切ったが、サッカーに対する情熱は変わらず、BBCなどで解説者もつとめている。一昨年には孫も生まれ、56歳でおじいちゃんにもなった。
監督として一番成功したのは間違いなくライカールトだろう。低迷していたバルセロナを、スペインのみならずヨーロッパの頂点にまで導いた功績は忘れられない。ライカールトのもとでロナウジーニョは最盛期を迎え、アンドレス・イニエスタやリオネル・メッシが台頭してきた。
しかし、FIFAの年間最優秀監督賞も受賞するなど、彼の前には華々しい監督人生が広がっているように思えたが、バルセロナを辞した後は、ガラタサライで結果を残せず。女性問題から逃れるように引き受けたサウジアラビアの代表監督でも芳しい成績は出せなかった。
2013年、彼は監督業をやめると、フロリダの小中高一貫私立校のサッカーアドバイザーになった。プロサッカーの世界から離れフロリダで自分の人生を生きることにしたのだ。
「選手や監督は楽しかったし、サッカーは私に多くのものを与えてくれた。しかし今はもうピッチに戻りたいとは思わない。遠くから見ているだけで十分だ。サッカーの世界に未練はない。60歳になってもピッチに立っていたくはないよ」
イタリアの『メディアセット』のインテビューで、彼はこう語っている。監督を続けないことを惜しむ声もあちこちから聞こえるが、今のところ彼の決意は固いようだ。
「監督を始めた時から、それほど長くは続けないだろうと思っていた。16年間、監督業を心血注いでやって来たことは確かだが、自分が監督に向いていると思ったことは一度もなかったし、今でもそう思う」
昨年3月、ライカールトとはフリットともに、アムステルダム西部のバルボア広場の一角にクライフコート(クライフ財団が支援する人工芝のミニコート)をオープンした。子供たちがもっと気軽にボールを蹴れる場所を提供するためだ。彼らがこの場所を選んだのは、まさにこの広場でライカールトやフリットがボー ルを蹴り始めたからだ。
「このコートからまた新たにプロの選手が生まれてくれたならうれしい」
オープニングセレモニーで2人はそう言っていた。