実力に追いつかないスピードで有名になったことで生まれた戸惑い 2013年に現役生活を終え、現在は大宮アルディージャのトッ…

実力に追いつかないスピードで有名になったことで生まれた戸惑い

 2013年に現役生活を終え、現在は大宮アルディージャのトップチームコーチとして後輩たちの指導にあたる北嶋秀朗が、今だからこそ伝えたい想いを語ってくれた。前・後編でお届けする前編は、「選手権の呪縛からの脱却」。サッカー少年たちの憧れの舞台、冬の選手権で2度の日本一を果たし、得点王に輝いた北嶋でさえ、プロの壁は高かった。そこで潰れてしまう選手もいるなか、北嶋はどうやってプロサッカー選手としての花を咲かせたのだろうか。

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 高校サッカーの道を志した選手に、北嶋秀朗の名前を知らない者はいないだろう。千葉県の名門・市立船橋高校の一員として3年連続で冬の高校サッカー選手権大会に出場。1年次と3年次にはチームを日本一に導く活躍を見せた。3年次には6ゴールを挙げて得点王に輝き、選手権大会通算16得点は当時の通算最多得点数だ。

 旧・国立競技場で行われた決勝戦で、あの中村俊輔(現・横浜FC)擁する桐光学園(神奈川県代表)を破ったことでさらに箔が付いた。完璧すぎる経歴に感想を求められると、北嶋は堂々と胸を張る。

「高校時代は一度も挫折していません。僕にとって輝かしいものでしかなかったですから。ただ、自分の実力に追いついていないスピードで名前が世の中に出てしまった。サッカー選手としてのピークだったかもしれない」

 自身を取り巻く世界が変わったのは、1年次の冬が終わった直後のこと。登下校の最中に見知らぬ人に声をかけられ、突然サインを求められる。サインなど持っていない北嶋少年は戸惑いを隠せなかったが、今となっては「調子に乗っていましたね」と回想する。雰囲気でペンを走らせたことを懐かしそうに語った。

 逸話には事欠かない。

 3年次の優勝直後、船橋駅からJRに乗車する際に顔バレしてしまい、大勢の乗客に囲まれて電車を遅延させてしまった。2月のバレンタインデーには段ボール3~4つの大量のチョコレートが届き、「サッカー部のみんなで食べた」。彗星のごとく現れた超高校級ストライカーを、メディアと世間が放っておくはずがない。下火になりかけていた高校サッカーブームの火付け役となり、その名はたちまち全国区となった。

何ひとつ通用しないプロの世界で気づかされたコーチからの一言

 北嶋は鳴り物入りで柏レイソルへ入団した。

 しかし、そこは全くの異次元だった。今まで通用していたことが何ひとつ通用しない。ゴールはおろか、試合に出場することすらままならない。能力だけでなく覚悟が定まっていなかったのかもしれない。結局、ルーキーイヤーは6試合無得点という散々な記録しか残せなかった。

「想像以上に厳しい世界だった。本当にプロサッカー選手としてやっていけるのかなと何度も自問自答しました。それなのに、グラウンドでは不貞腐れる態度というか、通用しないことが分かっているのに尖っている自分がいて……。プロ1年目はサッカー人生のなかで一番ダメな1年間でした」

 同じサッカーをやっているのに部活から職業に変わった途端、世界は全くの別物になる。決して珍しいことではなく、誰もがぶつかる壁だ。だが北嶋の場合は高校時代からの反動があまりにも大きかった。周囲からの期待値と現実のギャップがかけ離れていた。

「選手権で活躍したことでどうしても『北嶋はどうしたの?』という目で見られてしまう。忘れられていく感覚を味わいました。本当に苦しくて、高校生のときに活躍しなければこんなことにはならなかったのにと思ったこともある。もともと知名度と実力が見合っていないことへのジレンマや葛藤を抱えていました。

 例えば高校生のときも、自分はシュン(中村俊輔)のほうがすごいと思っていた。優勝して得点王になって名前が売れたのは自分だったかもしれないけど、シュンはすでに世代別の日本代表で確固たるポジションを築いていた。当時の自分は代表に選ばれたことがなかったし、本当の意味で自分がすごいと思ったことは一度もありませんでした」

 自信を失っただけでなく、モチベーションまで落としてしまった。そんな折、コーチである池谷友良にこんな言葉をかけられる。

「キタジ(北嶋の愛称)は逆境に立つと逃げ出すよね。逆境に立ち向かえないことも才能のひとつだから、もう無理だと思うよ」

 まだ10代の青年からすれば辛辣な出来事だが、何も言い返せなかった。苦しい状況を変えるための努力を怠っていたことは、誰よりも自分自身が理解していたからだ。

 サッカーへの向き合い方を改めた。日々の練習に100パーセント以上のエネルギーで臨み、全体練習後は筋力トレーニングに時間を割く。食生活を整え、サッカーを中心としたサイクルに体を変えていった。

ブラジルで目の当たりにした、あるブラジル代表選手の生き様

 こうしてプロ2年目で念願のプロ初ゴールを挙げると、そのシーズンの11月からブラジルへのサッカー留学の機会を得た。サッカーの本場で、北嶋は生き残りを賭けた男の生き様を目の当たりにする。弱肉強食の世界だった。

「サンパウロFCのユースチームに練習参加したんですが、紅白戦に出場できない自分と同じ立場のジュリオ・バチスタ(編集部注:その後、レアル・マドリードやローマで活躍)という選手がいました。片言のポルトガル語で話していたら、彼は『オレはここから這い上がるから』と言い切っていた。すると紅白戦に出場するチャンスがやってきたときに1分か2分で点を取って、次の紅白戦でもゴールを決めて、ユース年代のチームが集まる大会でスタメンに抜擢された。彼は後にブラジル代表まで上り詰めるんですが、どん底に近い位置から結果を残してステップアップしていく姿を見て、人間は変わろうとすれば変われるんだなと思いました」

 貴重な体験を血肉に変え、迎えたプロ3年目はサッカー選手としての足場を固めていくシーズンに。背番号はストライカーナンバーの「9」に昇格し、自分の形でゴールを重ねていく。

 ゴールパターンが高校時代から様変わりしたのは、偶然ではなく必然だった。ドリブルで相手を抜き去るのではなく、体を張ってDFを背負いながらボールキープし、なんとか味方へパスをつなぐ。豪快にゴールネットを揺らすミドルシュートは、混戦で相手よりも一瞬だけ早くボールに触れるダイビングヘッドに変わった。

「高校時代は泥臭いゴールが好きじゃなかったんです(苦笑)。美しいループシュートやドリブルで相手をかわして決めるシュートで得点を量産したいと思っていました。それにヘディングが嫌いでしたから。痛いし、競り合うのも好きじゃなくて。でも西野朗さん(当時のヘッドコーチ)にニアサイドに入っていくスピードや才能を認められて、そこに重点を置く練習をしたんです。最初は『オレは華麗に点を取りたいんだよ』って思いました(笑)。でも、だんだんとヘディングで点を取るコツを覚えたら、すごく楽しくなって。それからはずっと泥にまみれる役目です」

 形こそ変われども、ゴールの快感は同じだった。シドニー五輪出場を目指すU-22日本代表に選出されるようになってからは「柳沢敦さんや高原(直泰)と競争するようになって、これは全然かなわないなと。もっと成長しないとダメだなと痛感した」と新しい壁にぶつかったが、ライバルとの競争は純粋に楽しかった。

 北嶋は変化を受け入れられるようになっていた。意識を変え、プレースタイルを工夫し、プロの世界で生き延びる術を身につけたのである。

「プロサッカー選手として生きていくためのプレースタイルを確立して、ようやく自分の居場所を見つけることができました」

 対比されるのはいつも高校時代の自分で、輝かしい栄光が重い足枷に。そのたびに苦悩と葛藤を繰り返したが、ようやく呪縛から解き放たれた。高校サッカーからプロサッカーへ。北嶋秀朗はひとつの“答”を見つけ出し、それが新たな一歩へとつながった。

(25日掲載の後編は、「怪我と一緒に歩む」をお届けします)

北嶋秀朗

1978年5月23日、千葉県生まれ。市立船橋高校時代に、全国高校サッカー選手権大会で2度の優勝、得点王に輝いた。卒業後に柏レイソルへ加入。プロ3年目からはチームのエースとして活躍、2000年にはキャリアハイとなる18ゴールを挙げた。柏レイソル、清水エスパルス、ロアッソ熊本と3クラブでプレーし、2013年に現役を引退。指導者の道へ進み、2020シーズンは大宮アルディージャのトップチームコーチとして、後輩たちの指導にあたった。17年に及ぶ現役時代のJリーグ通算記録は303試合出場、73得点。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)