独学でテニスを習得し、世界ランキング2位まで上り詰めたテニスレジェンドが…
独学でテニスを習得し、世界ランキング2位まで上り詰めたテニスレジェンドが、12月9日に84歳で亡くなった。また同じ日に、1955年「全仏オープン」混合ダブルス優勝者が、新型コロナウイルス感染症のため86歳で亡くなっている。伊ニュースサイトUBI Tennisが報じた。【動画】1959年ウインブルドン優勝したオルメド
ペルー第2の都市アレキパで生まれたアレックス・オルメド(ペルー/アメリカ)は、父がテニスクラブでクレーコートを整備する仕事をしていたことから、独学でテニスを習得し、そのクラブでボールボーイを務めた。オルメドは十代の時にアメリカに渡り、後に偉大なテニス選手となった。
1954年に17歳だったオルメドは、ペルーのトップ選手となり、アレキパの人々が集めてくれたお金でペルーからキューバのハバナへ船で渡り、英語も話せなかったがそこから飛行機でマイアミへ飛び、バスでカリフォルニアに向かった。
オルメドは当時全米でテニスの強豪校だったモデスト・ジュニアカレッジに入学し、英語や他の教科を学びながら大学のテニスチームで活躍。その後、南カリフォルニア大学に進んだオルメドは、1956年と1958年にNCAA(全米大学体育協会)の大会でシングルスとダブルスの2冠を達成した。
身長約178㎝だった彼は、アメリカでは特に大きくはなかったが、流れるようなフォームの素晴らしいサーブを持っており、フォアハンドストロークは正確でボレーも上手かった。飛びぬけて俊敏で運動神経が良く、更にオーラもあった。そしてテニスに対する態度は独特だった。彼は、コーチのアドバイスからではなく、プレーすることでテニスのやり方を学んだ、と語っている。
1958年、アメリカの市民権はなかったが、3年以上アメリカに住んでいたオルメドは、祖国ペルーにデビスカップのチームがなかったため、アメリカチームの一員として「デビスカップ」勝利に貢献。イタリアとの試合ではシングルス2試合、ダブルス1試合に出場してすべて勝利。その最後の試合では身長2m超の相手を20-18、6-1、6-4で下しており、第1セットのゲーム数38ゲームは1セットでプレーされた最多ゲーム記録となった。
1958年にはさらに、ハミルトン・リチャードソン(アメリカ)と組んだ「全米選手権」のダブルスで優勝。そのリチャードソンと対戦した「全日本テニス選手権」では準優勝に終わった。
翌1959年にオルメドはさらに勢いづいて、1月の「全豪選手権」を制覇。「ウィンブルドン」では決勝でロッド・レーバー(オーストラリア)をストレートで破って優勝。オルメドは同じシーズンに3つのグランドスラム優勝を目指したが、「全米選手権」決勝では全豪の決勝で破ったニール・フレーザー(オーストラリア)にリベンジを果たされて叶わなかった。
オルメドは1960年にプロになり、いくつかの大会で活躍して、1965年に引退。1970年代には「デビスカップ」のキャプテンを務め、1987年に国際テニスの殿堂入りを果たしている。
引退後はビバリーヒルズ・ホテルでテニスディレクターを務め、社交的な性格で人気のテニスコーチとなり、ハリウッド俳優であるキャサリン・ヘップバーンやチャールトン・ヘストンも指導した。
一方、オルメドと同じ12月9日に逝去したゴードン・フォーブス(南アフリカ)は、1955年「全仏オープン」混合ダブルスで優勝し、1963年の同大会では男子ダブルスで準優勝。引退後はテニスに関する数冊の本を書いて出版していた。彼は新型コロナウイルス感染症のため亡くなったと報じられている。
(テニスデイリー編集部)
※写真はテニスのイメージ
(Photo by Nicolò Campo/LightRocket via Getty Images)