【短期連載】FAは誰を幸せにするのか?(4)「星野(仙一)監督が望まれるとおり、ジャイアンツキラーとしてナゴヤドームのマ…
【短期連載】FAは誰を幸せにするのか?(4)
「星野(仙一)監督が望まれるとおり、ジャイアンツキラーとしてナゴヤドームのマウンドに立ちはだかりたい」
2000年オフ、そう言ってヤクルトから中日にフリーエージェント(FA)宣言して移籍した川崎憲次郎だが、本拠地のマウンドに立つまで4年を要した。2001年シーズンが開幕する16日前、3月14日のオープン戦で右肩を痛め、長期離脱を強いられたからだ。
苦悩の日々が、あれほど長く続くとは夢にも思わなかった。

中日移籍4年目、落合博満監督(写真右)から開幕投手に指名された川崎憲次郎
下半身から生み出したパワーを上半身に伝え、右腕を思い切り振って指先からボールに込めた力を放出しようとすると、肩にギーンと激痛が走る。投球した次の日までズキズキする痛みが残り、Tシャツを腕でめくって脱ぐ動作は今もできないほどだ。
「ヒジも痛いけど、我慢できるんですよ。肩の痛みはハンパないです。1回腕を振るたびに、深呼吸しないと無理。腕をスポンと抜いたような感じ」
1年目は二軍で1試合登板に終わった。チームは5位に沈み、星野監督は責任をとって辞任した。
2年目以降もファームでの日々が続き、2002年はウエスタンリーグで3試合、翌年は同13試合に投げたが、ナゴヤドームのマウンドに立つことはできなかった。
年俸2億円の4年契約を結び、エース級の活躍を期待された男が故障を抱えたまま二軍にいる。ファームのナゴヤ球場では、ドラゴンズファンから厳しい声を浴びせられた。
「俺は野球をやりたくなくて試合に出ていないわけじゃなく、ケガしているからやりたくてもできなかった。だけど、高いお金をもらって移籍してきているから、1試合も投げなかったら周囲はやんややんや言う。それは仕方ない。プロとして仕事をしていないわけですから。でも、3、4年も言われ続けると、さすがにへこみますよ」
ヤクルト時代の4年目、21歳の頃に右ヒジを痛めて1度も登板できなかったことがある。だが、満足に投げられない日々が3年も続くのは初めてだった。
病院を回っても、原因はわからない。「手術しますか?」と医師に聞かれたが、痛みの理由さえ判明していないのに、メスを入れてどうなるのだろうか。ダメ元でやってみることも考えたが、術後の復帰までに時間がかかり、そのまま野球人生が終わってしまう可能性が高い。「自分でとりあえずやります」と答え、何とか模索してみることにした。
痛みがなくなることは、もう2度とないかもしれない。それでも、投げられればいい。さまざまな場所へ治療に出かけ、お参りにも行った。藁(わら)にもすがる思いだった。
「ピッチャーがボールを投げられないって、あり得ないじゃないですか。俺、投げるの大好きですし。できれば、ケガするのも覚悟で投げたいピッチャーなので。投げたいのに3、4年も投げられないのは、それはしんどいですよ」
川崎がリハビリに明け暮れる一方、二軍の試合では若手が打ち込まれ、首脳陣に叱咤されていた。ファームで日常的な光景が、川崎には染みわたった。
「若手は打たれてもまだ先があるじゃないですか。俺は先がないですからね。あれだけ肩が飛んじゃったら。そういう時に思いました。こいつら、いいなって。怒られて、幸せだなって」
朝起きたら、痛みが消えてなくなっていないだろうか。魔法のようなことを願ったが、現実に起きるわけがなかった。
痛くても投げられる方法を探し、140キロくらい出るようになった。だが、以前のようなキレがない。投げる球にはムラもある。ファームでは登板できるようになったが、一軍に戻るメドはまるで立たない。
もう、ダメかもしれない----。
中日に移籍して3年目の2003年、川崎の心身はボロボロになっていた。
世間を騒がす出来事に巻き込まれたのは、そんな折だった。2003年オールスターゲームのファン投票で、悪意ある者がインターネットで組織票を投じ、3年間で一軍未登板の川崎が1位に選ばれたのだ。「川崎祭」と言われ、ワイドショーや週刊誌の記者が押しかけた。
「出る権利のない選手だから、もちろん辞退します。だけど、そうやって名前が挙がること自体、俺は悪く思いません」
客観的に見ても悪質な嫌がらせだが、川崎自身は必ずしもそう捉えなかった。ハガキを買って投票してくれた人が、相当数いたと聞いたからだ。
「お金を払ってまで、わざわざ嫌がらせなんてしないだろうと思ったんです。普通、3年間何もしていないピッチャーの名前が挙がるなんてことはないですから。本当に応援してくれている人のために、俺は頑張ろうと思いました」
きついヤジや悪意ある言動は胸に刺さる一方、復活を信じてくれるファンもいる。プロ野球選手としての矜恃(きょうじ)が、川崎を前へと突き動かした。
リハビリの日々を送るナゴヤ球場は、グラウンドとスタンドの距離が近く、ヤジがよく響くことで知られていた。とりわけブルペンは観客席の目の前にあり、川崎は投げるたびにきついブーイングを浴びせられた。
移籍3年目のある日、ナゴヤ球場のスタンドから一人の男が勢いよく降りて近づいてきた。またヤジられるのか......。そう思ったが、ネット越しにかけられたのは正反対の言葉だった。
「ナゴヤドームで待っているからな!」
どこの誰ともわからないファンのひと言は、消えそうになっていた川崎の闘争心に火をつけた。
「俺を応援してくれている人が、まだいるんだって感じました。それで、投げ出すわけにはいかないと思ったんです。3年目は本当に一番きつい時だったけど、自分には責任があったし、ちゃんとやり遂げないとダメだなって」
復活への執念を強くすると、前に導こうとする男が現れた。契約最終年となった2004年の1月2日。新監督に就任した落合博満から電話がかかってきた。
「2004年の開幕投手はおまえでいくからな」
寝耳に水だった。落合に会ったことは1度もない。監督自ら新年の挨拶をくれるなんてすごいなと、ぼんやり考えながら受話器をとった。すると、中日初登板となる"開幕投手"が告げられたのだ。
川崎の答えは、ひとつしかなかった。
「俺には別に断る理由もないし、もしかしたらそれがきっかけで治るかもしれない。かすかな願いがあったんですよ。これで俺は復活できるかもって」
自身を奮い立たせて自主トレから春季キャンプ、オープン戦をすごし、4月2日に迎えた開幕戦。移籍4年目でようやくかなったナゴヤドームのマウンドに、川崎は痛み止めを服用して上がった。
初回は広島打線を三者凡退に抑える上々の立ち上がりだった。しかし、続く2回に5本のヒットを許して5失点。イニング途中で降板した。
4月30日の横浜戦で再び先発のチャンスを与えられたが、今度は1アウトもとれずに初回5失点でKO。以降、再びファームでの日々が続いた。
「簡単にはいきませんでした。でも、落合さんのような人がいてくれて、本当に運がいいと思います。落合さんじゃなかったら、ああいう起用法は絶対ないし。最後(10月3日)に、落合さんがマウンドに送ってくれました。それまで本当に苦しかったけど、あの1日で苦しさが吹っ飛んだような気がします。勝てなかったけど、最後まで野球をまっとうできた。一生懸命やってきてよかったなって、つくづく思いましたね。あの1日だけは」
2000年オフにFA権を行使して3本の道で悩んだ時、川崎にはひとつだけわかっていたことがある。どの道を進もうが、絶対"何か"あるということだ。まさか4年も苦しむとは思わかなかったが、故障は避けられない運命だったのかもしれない。
だが、最後に花道をつくってもらえたのは、自身の選択があったからこそだ。FA宣言から20年が経った今も、川崎はそう考えている。
「故障は中日で起こったというだけの話で、決断にまったく悔いはないです。いいように考えれば、俺は野球人生で頂点もどん底も見てきた。両方経験しているピッチャーは、そうそういないですからね」
プロ野球選手として頂点からどん底まで経験し、わかったことがある。自分の身をもって知ったことを、川崎は子どもたちに伝えている。
「よく言うのが、『失敗は何百回してもいいよ。その代わり、失敗した数だけ成功する方法を見つけなさい』ということです。成功する方法を新たに見つけることができれば、今後、それが一番成功する方法になっていく。痛くならない方法はわからないですけどね。プロになった以上、骨や筋の1本や2本切る覚悟でやらないと、絶対やっていけない世界なので。そこまで体をつくっていかないと、絶対通用しないんですよ」
通算16年の現役生活で237試合に登板し、88勝81敗2セーブ、防御率3.69。最多勝と沢村賞にそれぞれ1回輝き、オールスターには4度選出された。最後は引退試合を開いてもらい、恵まれた野球人生だった。
中日で4年間を過ごした名古屋を去る際、当地にできた仲間たちから「出ていかないでくれ」と惜しまれたという。川崎自身、後ろ髪を引かれる思いだった。
「東京に家を建てたから引っ越したけど、離れたくないくらい魅力的な街でした。東京と比べても買い物には困らないし、中心地から車で20分走れば静かな環境になる。名古屋の人たちはみんな、最初はよそ者に身を構えているんです。でも、人の中身がわかると変わる。中日に来た選手は、チームからも名古屋からも大事にされますからね。うちの家族はみんな、『名古屋に行きたい』と言っています」
高卒12年目の2000年オフ、川崎は自らの意思でFA宣言した。3本の道から決めた中日入団は、自身と家族を幸せにする選択だった。