PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第42回スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。◆ ◆ ◆ リオデジャネイロ五輪の競泳女…

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第42回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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リオデジャネイロ五輪の競泳女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した金藤理絵

 2016年8月、リオデジャネイロ五輪の競泳会場。女子200m平泳ぎの表彰台で笑顔を見せてカメラマンの撮影に応えていた金藤理絵は、ふと視線を観客席に向けると、途端にポロポロと涙を流し始めた。

「チームメイトや日本からの観客だけでなく、国に関係なく祝福の声をかけてくれて。そういった経験がこれまでなかったので、本当にうれしかったです。初めての表彰台で、自分だけの『君が代』を聞くことができたのでちょっとだけ涙が出そうになったけど、その時は泣かずに......。でもその分、最後の最後に、チームの皆が喜んでくれているのを見た時に、全部出てしまいました」

 その約30分前の決勝レース。タッチ板に手をついて電光掲示板を見上げた時、金藤は複雑な気持ちになったという。

「信じられなかった。タイム自体は2分20秒30と平凡で、自分のベストより0秒6も落ちたタイムだったので、こんな記録で優勝していいのかなと思って......。表示された自分のタイムと順位を見て、『本当に一番なの?』と思っていたんです。だからうれしさと悔しさがあって、自分でもよくわからなかった」

 だが、そんな複雑な気持ちも、チームメイトが大喜びする姿を見ると、一瞬で吹き飛んだのだ。

 そんな金藤が世界の頂点にたどり着くまで、長い道のりがあった。

 高校3年のインターハイの200m平泳ぎでは、当時の日本歴代7位の記録で優勝し、注目された金藤。東海大2年の時の08年日本選手権は、種田恵に次ぐ2位で派遣標準記録を突破して北京五輪代表になった。五輪本番では2分25秒14の自己ベストで泳いで7位だった。

 高速水着を着用した09年には、4月の日本選手権で、その時点では世界歴代7位となる2分22秒33の日本記録を出した。さらに7月のユニバーシアードで再び日本記録を更新して優勝。初出場だった世界選手権は5位にとどまったが、9月の日本学生選手権は、同年の世界ランキング3位で歴代4位の2分20秒72まで記録を伸ばした。

 だが、10年に椎間板ヘルニアを発症してからは低迷。12年ロンドン五輪へ向けては、年下の鈴木聡美や渡部香生子に敗れて代表に届かず、メダルラッシュに沸く五輪を国内で観戦した。13年は、日本選手権で優勝して世界選手権に出場したが、0秒59差でメダルに届かず4位。レース終了後のミックスゾーンでは、引退を口にするほどだった。

 しかし、大学時代から指導を受ける加藤健志コーチに説得されて現役続行を決断。それでも、力をつけて日本女子のエースとなっていた渡部になかなか勝てないまま。15年の世界選手権も渡部が優勝してリオ五輪内定を果たしたのに対し、金藤は決勝でタイムを落として6位と結果を出せないでいた。

「あの世界選手権は順位やタイムよりも、消極的なレースをしてしまったことが悔しかった。もし、あの時下手にメダルを獲っていたら、今の自分は絶対になかったと思います。あそこで本当にスイッチが入りました」

 この世界選手権後から金藤はスタイルを変えた。彼女の持ち味でもあった持久力を前面に出した大きな泳ぎで勝負する形から、ピッチ数を上げて前半からスピードを上げるようにしたのだ。

 そのスタイル変更が16年2月の3カ国対抗戦(オーストラリア)での2分20秒05の日本記録につながり、さらに4月の日本選手権では2分19秒65にまで伸ばした。

 その記録は世界歴代5位ながら、16年の世界1位で、2位のユリア・エフィモワ(ロシア)を1秒76上回るダントツの記録。優勝候補の筆頭と目され、リオ五輪に臨むことになったのだ。

 しかしリオ五輪本番は、不安を感じさせる出だしになった。予選は2分22秒86で2位通過。「2分20秒台を出して他の選手にプレッシャーを与えたい」との思惑があった準決勝も2分22秒11での2位通過にとどまった。

 加藤コーチは準決勝の金藤の泳ぎをこう評価した。

「準決勝はキックがかかっていなくてダメだった。普段の試合間隔だと準決勝は予選の泳ぎを体が覚えているが、今回は9時間も空いたのでその感覚がなくなってしまった。『大きく、速く、強く』というのが崩れてしまったから、決勝前のウォーミングアップはいつもなら1000mくらいの泳ぎを、3000mやらせました。それでもなかなかよくなってこなかったので『これではだめだ』と思い、最後に25mを思い切り泳がせると、やっとキックが効くようになった」

 金藤の仕上がりは万全ではなかった。そのため、決勝の作戦は「落ち着いてスタートして50mまでは少しずつ上げていき、その後に全力でいく」というものだった。

 指示を受けた決勝の前半の泳ぎは、日本記録を出した4月の日本選手権と比べればスピード感や力感、キレはなく、水中での伸びに物足りなさを感じるものだった。最初の50m通過は日本選手権より0秒20遅い32秒74で、1分07秒台で入ることを目指していた100m通過も、トップのテーラー・マキオン(オーストラリア)に0秒27遅れの1分08秒26だった。

 だが100mを折り返してからは、泳ぎに力が出てきた。150m通過では追い上げて2位に0秒32差をつけて先頭に立った。ターン後はさらに力強い泳ぎになり、差をジワジワ広げて勝利を確信させ、そのままトップでゴールしたのだ。

 大会前の2分19秒台の優勝争いになる予想をくつがえす2分20秒台の決着にはなったが、2位のエフィモワを1秒67突き放す金藤の圧勝だった。金藤自身、記録に不満を口にしたが、予選からの体調や、寒さを感じる厳しい条件、さらに2位との差を考慮に入れれば、彼女が持っている世界トップの力を証明するレースだった。

「いつもは自分で練習メニューを作っていたけれど、決勝前のウォーミングアップは加藤コーチがメニューを出してくれたので、信じてやろうと思って取り組みました。去年の私なら多分、絶対に不満を持ちながらやっていたと思う(笑)。そのあたりが、この1年間で成長したところだと思います」

 笑顔でそう話す金藤の勝利を、加藤コーチは「あいつはずっと、鈴木選手や渡部選手には勝てないと思い込んでいたんです。勝ちたいという気持ちを持っていないし、勝てるとも思わない。そんな子がよく、五輪で金メダルを獲ってくれたと思います」といって勝利を称えた。

 他の選手が結果を出す中、世界大会のメダルになかなかたどり着くことができなかった金藤。競泳人生の集大成と考えていた五輪で、いきなりそれを実現した。彼女は柔らかな笑みを浮かべながら思いを説明した。

「金メダル候補と言われるようになったことが、プレッシャーにならなかったと言えば嘘になります。でも、全員がそういう期待をされるわけではないと思うし......。『やっと期待される選手になれたんだ』と思ってやってきました」

 トップに立てない日々が続いても、あきらめることなく自分を信じて惜しむことなく努力を続けてきた。そして、キャリアの最後の最後に手にした勲章。本当に金藤らしい金メダルだった。