PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第41回 スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。◆ ◆ ◆ 2016年リオデジャネイロ…

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第41回 

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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2016年リオデジャネイロ五輪男子400m個人メドレーで金メダルを獲得した萩野公介

 萩野公介にとって2016年のリオデジャネイロ五輪は、その4年前のロンドン五輪とは違う立場で臨まなければいけない大会だった。12年にはまだ高校生で、自分の力が世界でどの程度通用するかというワクワクした思いで挑んでいたが、それから日本チームの大黒柱へ成長していたのだ。

 ロンドン五輪翌年、13年の日本選手権は、マルチスイマーとしての能力を突き詰めるために6種目に出場。200m背泳ぎは入江陵介に次ぐ2位だったが、日本記録を出した200mと400mの個人メドレーに加え、200m、400mの自由形、100m背泳ぎで優勝し、5冠を獲得。14年のアジア大会では、リレーを含めて7種目に出場し、金メダル4個、銀1個、銅2個で大会のMVPを獲得した。

 15年の世界選手権は、直前に右肘を骨折して欠場。3カ月間練習できず、不安を抱えた。その大会の400m個人メドレーでは、瀬戸大也が13年に続く大会連覇を果たした。しかし翌年の日本選手権で萩野は、個人メドレーで200mで1分55秒07の日本記録を出し、400mとともに優勝。さらに200m自由形でも1位で強さを見せた。リオ五輪へは、個人メドレー2種目を世界ランキング1位で臨み、優勝候補筆頭の期待が高まっていた。

 萩野が金メダルを狙う男子400m個人メドレーは、五輪で競技初日の一番初めに決勝が行なわれる種目。チームに勢いをつける役割も担っており、萩野は瀬戸とともに日本勢ダブル表彰台を求められていた。

 その予選、第3組で泳いだ萩野は余裕を持った泳ぎを見せた。平井伯昌(のりまさ)コーチは「200mくらいまでは6割の力で、残りは3割で泳いだと(萩野が)話していた」と語ったが、それでも350mでは2位に2秒以上の大差をつけ、ラスト50mは流すような泳ぎで、4分10秒00でゴールした。

 一方、チェイス・カリシュ(アメリカ)と同じ第4組だった瀬戸は、予選から積極的だった。得意のバタフライでマイケル・フェルプス(アメリカ)が持つ世界記録のラップより0秒12早いで54秒80で入ると、次の背泳ぎは萩野を2秒上回るタイム。最後の自由形は平泳ぎから追い上げてきたカリシュと激しく競り合うデッドヒートに。結局、瀬戸は0秒35差の2位だったが、4分8秒47の自己新の泳ぎだった。

 瀬戸は「チェイス(・カリシュ)に勝って、4分10秒を切らなければいけないと思って泳ぎましたが、速すぎてビックリしました。調子がいいということなので、あとは自分のことに集中するだけです」と納得していた。

 そんなライバルの好タイムを見ても、萩野の表情は揺らぐことはなかった。

「(予選は)だいぶゆっくりいけたけれど、大也が速かったので決勝へ向けてやりがいが出ました。各泳法の泳ぎ自体は今シーズンで一番よかったから、普通に泳げば4分5〜6秒台は出せます。(決勝を)見ていてください」

 そう話し、自身が持つ日本記録(4分7秒61)の大幅更新を、気負いなく予言したのだ。

 夜10時過ぎから始まった決勝。萩野の泳ぎは、自信に満ちあふれたものだった。バタフライで先手を取ろうとする瀬戸が予選よりやや遅い55秒23で入ったが、萩野は55秒57で余裕を持って射程圏内にとらえ、背泳ぎでトップに立って1秒46差をつけた。その次の平泳ぎは瀬戸とカリシュが勝負を仕掛ける泳法だが、瀬戸に0秒36詰められただけ。猛追してきたカリシュには2秒83差を0秒74差とされたが、最後の自由形を考えれば、その時点で萩野の優勝は確実と言えた。

「残り50mでチェイス選手が迫ってきたのですごく怖かったけれど、自分ができるのはキックを打って勝ち切ることだけでした。スタミナは残っていました。平泳ぎは下手くそだけど最後の自由形につなげられればいいかなと思って」

 萩野は最後の自由形を58秒09でカバーし、宣言どおりに4分6秒05のアジア新記録で優勝。カリシュには0秒70差をつけていた。

 銅メダルとなった瀬戸は決勝のレースについてこう話した。

「公介とチェイスはしっかり実力を出し切って大幅な自己新を出したのが、金メダルと銀メダルにつながりました。一方、自分は予選より遅い4分9秒71で本当にヤバい記録。予選はすごくいい感じだったけれど、昼寝から起きたら意外と疲労感があったので、まだ駄目だなと思って。もっともっと練習が必要だと痛感しました」

 反省も口にしたが、日本競泳60年ぶりのダブル表彰台を実現した。

 決勝で力を出し切った萩野。そこには、平井コーチとともに考えた戦略もあった。平井コーチはこう語った。

「ヨーロッパの高地合宿でいろいろ話をしました。銅メダルを獲ったロンドン五輪の時は予選を4分10秒01で泳いだけれど、決勝では飛び込んだ際に『体が重かった』と言ったんです。萩野本人は、今回(リオ五輪)の予選では4分9秒台は『いらないのではないか』とも言って。それでバタフライはリラックスして、背泳ぎは泳ぎを意識するようにとだけ指示をしました」

 大きな大会では、予選でいい泳ぎをして勢いや自信をつけることも必要だ。だが、準決勝を経て決勝が翌日になる他の種目とは違い、400m種目は1日で予選と決勝を行なうため、力の配分が必要になる。「昨年、肘を骨折して世界選手権に出られなかった経験がなければ、今の自分はないと思う」と、萩野が語ったように、泳ぐことができない時期にさまざまなことを思考したからこそ、たどり着いた戦略だった。

 平井コーチは「萩野は才能もあるし努力もできる選手だが、ひとつ足りないのは"ビッグタイトル"だと思っていました。それさえ獲れば、萩野公介というスイマーが完全体になるだろう、と。マイナスなことを考えず、自分のプラス面をどんどん考えていく北島康介のようなスイマーになれるのではないか、と。その準備がとうとう整ったという感じです」と、笑顔で期待の言葉を口にした。

 競技3日目の200m自由形決勝、萩野は疲労もあったのか、準決勝よりタイムを落とす1分45秒90で7位にとどまった。その翌日の4×200mリレーは1泳を務め、アメリカと0秒11差の2位でつないで勢いをつけ、同種目52年ぶりのメダルとなる銅メダル獲得に貢献した。

 しかし、世界記録保持者のロクテやフェルプスとの戦いとなった最終種目の200m個人メドレーでは、銀メダルを獲得したものの喜びきれない内容だった。

 準決勝は第1組で泳いで背泳ぎから抜け出して独泳となったが、記録は1分57秒38にとどまった。ロクテやフェルプスらの第2組で好記録が出て、萩野は4位通過となった。

 翌日夜の決勝は、最初のバタフライでフェルプスを追いかけたが、0秒12遅れる25秒03でロクテとともに3位折り返し。背泳ぎはスピードを上げたロクテとフェルプスに離されて4番手に落ち、平泳ぎでは藤森太将にも抜かれて5番手になった。

 平井コーチは「リレーが終わって、泳ぎがちょっと重くなった。高地合宿の終盤から背泳ぎとバタフライのスピードが、上げたいところまで上げられなかったのも気になっていました」と振り返った。

 最後の自由形でようやく萩野らしい泳ぎを見せ2位でゴールしたが、タイムは自己記録より1秒54も遅い1分56秒61。1分54秒66で優勝したフェルプスに大差をつけられた。

 萩野が目標にしていたのは、1分54秒台の日本記録。そのタイムならば、憧れのフェルプスに競り掛けることができていただろう。

「タイムが遅いという以外ないです。やっぱり強さが足りないのは思いました。肉体的にも、精神的にも......。フェルプス選手は僕の目標であり、永遠のスターです。彼ともう少しいい勝負をする準備をしてきたし、そうありたいとずっと思ってトレーニングをしてきた。それができなかった悔しさがすごくあるし、実力不足だと思います」

 目標にしていた金メダルの栄光は手にした萩野だが、この大会で不足を痛感したのは、複数種目で戦い切るトップスイマーの本物の強さだ。

「やっぱり僕が今一番ほしいのは強さです。どうやればもっと強くなれるんだろうというのは、すごく考えました」

 萩野はリオ五輪を経験することで、自らが追い求めるスイマー像をあらためて確認した。