【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】アーセン・ベンゲルに聞く(1) フットボールの監督であることと、ひとりの…
【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】
アーセン・ベンゲルに聞く(1)
フットボールの監督であることと、ひとりの人間であること。そのバランスを、アーセン・ベンゲルはうまく取っていたのだろうか。
「まったくダメだったね」と、ベンゲルは笑う。「私が送ったような生活は誰にも勧められない。いったいどんな人間だったんだと思うことがある。ひとつのことにのめり込んで、他のすべてを犠牲にしていたから。まったく普通じゃなかった。バランスなんて、これっぽっちも取れていない生活だった」
71歳のベンゲルは、重ねた本の上にノートパソコンをうまく置くという技を習得できていない。そのため彼のトレードマークのわし鼻が、Zoom(ズーム)の画面から僕を見下ろしているようになる。
ベンゲルは2018年に、それまで22年間務めたアーセナルの監督を退いて以降、沈黙を守っていた。だが今、彼は再び語りはじめている。10月半ばに出版されたベンゲルの新しい自伝『マイ・ライフ・イン・レッド・アンド・ホワイト(赤と白に包まれた私の人生)』は、アルザス地方の村ダットレンハイムで過ごした幼少期から、アーセナル退団に至るまでの彼の軌跡をつぶさに教えてくれる。それはフットボールとマネージメントについて考え続けた人生だった。

1995年から1996年9月まで名古屋グランパスを率いたアーセン・ベンゲル photo by Colorsport Images/AFLO
ダットレンハイムはベンゲルという人間をつくった。ベンゲル家がダットレンハイムに引っ越したのは、この村がフランスに返還されて間もない頃だった。ヒトラーがこの村のあるアルザス地方を1940年に併合し、ダットレンハイムの男たちはドイツ軍に徴用された。ベンゲルの自伝は戦争の話にほとんど触れていないが、僕が尋ねると彼は口を開いた。
「私の父はドイツ軍のためにロシア戦線で戦った。母によれば、父は帰ってきた時に体重が42キロしかなかった。生死の境をさまよったのだろう。父は何カ月も入院した」
3人兄弟の末っ子であるベンゲルに、戦争の記憶はどんな影響を与えたのだろう。
「家で戦争の話をすることは、ほとんどなかった。タブーになっているような感じだった」
ベンゲルの両親はビストロを営み、仕事漬けの父は自動車部品のビジネスもしていた。両親は14歳の時から働きづめだった。
「私には『家族』という言葉の意味がわかっていなかった」と、ベンゲルは自伝に書いている。「食事は別々だったし、ほとんど話もしなかった」
ベンゲルは両親のビストロで、大人に囲まれて育った。地元の農民たちが語り、笑い、嘘をつき、酔っ払い、時には口論するのを目の当たりにしていた。そのころダットレンハイムの人々は、まだアルザス系のドイツ語方言を話していた(ベンゲルはフランス語を学校で学んでいる)。ビストロで一番の話題は、もちろんフットボールだった。
ベンゲルは自らの人生の選択について、こう語った。
「子どものころ、周りの大人たちはフットボールの話ばかりしていた。だから『人生で大事なことはこれだけなんだ。みんながその話ばかりしているのだから』と思った」
ダットレンハイムはベンゲルに、ドイツとの結びつきももたらした。村を併合した過去からドイツを憎む人たちもいたが、ベンゲルはそんなことはなかった。「ライン川の向こうに住む人は、どうしてこんなに違うのだろうと思っていた。なかでもフットボールだ。あのころのドイツ人はとてもうまかった。フランス人よりうまかった」
ベンゲルはアルザス最大のクラブであるラシン・ストラスブールに加入したが、たいていはベンチを温めた。キャリアを通じて彼は、テクニック不足に悩まされた。ダットレンハイムでまともな指導者にも出会えず、でこぼこのグラウンドでプレーしていれば、そうなるのも当然だった。
この経験が後の仕事の選択に影響したのかもしれない。ベンゲルは1974年にストラスブール大学で経済学の学位を取ったが、ずっとフットボールのコーチになろうと思っていた。フットボールを見るためにドイツまで車を走らせ、試合前のウォームアップからずっと見続け、家に帰るのは朝の5時ということもあった。
地方の村の出身だったベンゲルにとって、ヨーロッパで一番のフットボール強国であるドイツとのコネクションは、生涯に及ぶ学びをもたらした。僕は2008年に、スイスでのあるイベントで、ベンゲルが当時バイエルンの監督だったオットマール・ヒッツフェルトと行なった対談のホスト役を務めた。休憩時間にベンゲルは、ほぼ完璧なドイツ語でヒッツフェルトを質問攻めにした。
バイエルンのセントラル・ミッドフィールダーは1試合に何キロ走るのか。バイエルンのウインガー、フランク・リベリーは身体的にどれだけ強いのか(「体重が100キロあるクラブのドクターを背負い、ふざけて洗面台にすっぽり入れたことがある」と、ヒッツフェルトは答えた)。
ベンゲルはドイツのフットボールから何を得たのだろう。
「私のキャリアを形づくってくれたと言うべきだろうね。ドイツ人はいつだって『フットボールをプレーしたい』と望んでいる。『相手に主導権を与えておいて弱点を突こう』というような姿勢じゃない。チームがチームとして自分たちを表現しようとしている」
これがベンゲル個人のイデオロギーになった。「自分たちのスタイルで勝つ」というものだ。
「歴史に残るチームは、それぞれのスタイルを貫いてプレーしている。フットボールはアートにならなければいけない。勝つことは基本だが、それを越える野心がなくてはダメだ」
帰属する国が歴史的にあいまいだったアルザス地方の出身者にはありがちなことだが、ベンゲルも自分のことを「ヨーロッパ人」と考えている。ダットレンハイムの村だけではない世界を見たいと思った彼は、1974年にハンガリーで1カ月を過ごした。当時の共産主義政権がどう機能しているかを見たかったからだ。
「この国はいずれ崩壊すると確信した」と、ベンゲルは振り返る。ハンガリー滞在から5年、29歳になったベンゲルは、英語を習得するために英ケンブリッジ大学に3週間通った。フットボールのコーチとしてキャリアを築くには、英語が必要だと思ったためだ。
「あの3週間は、一生懸命にやった」と、ベンゲルは言う。彼の口からそんな言葉を聞くと、その3週間の重みが伝わってくる。
ベンゲルはコーチの仕事も一生懸命にやった。フランスのASナンシーで監督をしていた時、クリスマスの直前に1試合を行なって負けた。クリスマスイブだけは両親の家に帰って一緒に過ごしたが、それを除けば3週間のリーグ戦中断期間を通じて、ずっと独りで考え続けていた。
ベンゲルが名を知られるようになったのは、監督としてモナコを7シーズン率いた時だ。彼はある年の元日に、フットボールを見るために滞在していたトルコから、思いつきでロンドンへ飛び、アーセナル対ノリッジの試合を見た。観客席でベンゲルは、たばこの火をある女性から借りた。彼女はアーセナルの副会長デイビッド・デインの夫人と親しかった。
その夜、ベンゲルはデインの家に招かれる。彼はジェスチャーゲームでシェイクスピアの『真夏の夜の夢』の一場面を身振りだけで演じ、他の人たちを楽しませた。ベンゲルとデインは親しくなり、フットボールの話もするようになった。
その後、ベンゲルはモナコを離れ、日本の名古屋グランパスを率いた。1996年のある日、アーセナルの関係者が日本へ飛び、監督就任を要請する。イングランドのトップリーグで4人目となる外国人監督の誕生だった。