新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、各地でイベントが開催中止または延期。有観客にて再開した興行も人数制限があり、配信でのサービスが当たり前になってきた。そんな中、サイバーエージェント傘下のDDTプロレスリング(以下、DDT)とプロレスリ…

新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、各地でイベントが開催中止または延期。有観客にて再開した興行も人数制限があり、配信でのサービスが当たり前になってきた。そんな中、サイバーエージェント傘下のDDTプロレスリング(以下、DDT)とプロレスリング・ノア(以下、NOAH)、そしてDDTフーズが経営統合し「株式会社Cyber Fight」が設立。代表取締役に就任した高木三四郎社長。その高木社長のルーツに迫る。前編は幼少期からDDT旗揚げまで。

--プロレスに興味を持ったのは、いつごろですか?

高木三四郎(以下、高木):小学校の時ですね。当時はプロレスブームでした。僕は1970年生まれ大阪出身で、金曜8時は新日本プロレス、土曜4時から全日本プロレスをテレビ見ていたのが大きかったですね。

もともとキラキラした世界が好きでした。当時の全日本プロレスは外国人選手が出場していた子供の目には派手に映りました。いつか、この中で戦ってみたいと思っていました。

--キラキラした世界が好きなのは、お父さんがテレビ関係の仕事をしていた影響もありますか?

高木:やっぱりテレビの世界ってキラキラしているじゃないですか。当時、大阪で「突然ガバチョ!」という番組があって公開収録に行きました。今と違ってテレビ局もゆるかったので、僕は客入り前のリハーサルから見ていましたね(笑)。

--学生時代は、どのようなスポーツをされていましたか?

高木:中学はバスケ部で、高校は柔道部。バスケ部は女の子にモテたいという理由で入部しました(笑)。高校は柔道部、プロレスの道に近づけると考えて入部しました。

あの頃は、柔道部やレスリング部、空手部に入る学生はプロレスが好きでしたね。もちろん柔道の練習はしましたけど、何かにつけてプロレスをしていましたね。

高校で3年間柔道やって「大学で上京すればプロレス団体もあるし楽しいだろうな」と考えていました。

--高校卒業後、上京して柔道は続けなかったのですか?

高木:上京して格闘技は続けようと思いました。ただ大学で体育会系の格闘技に入ると4年まで辞められないだろうと。だから学生しながら肉体を維持できるよう、プロレスをできるところはないか探しました。ただ当時は厳しく、団体に入るという思いは叶いませんでしたね。

--東京はプロレスの興行も沢山行われるので、会場にかなり足を運ばれたと伺いました。

高木:大学生1年の時、新生UWFの旗揚げ戦が1988年5月に後楽園ホールであったんです。プレミアチケットで即完、でも若干数バルコニー席が出るというので、前日の夕方から24時間徹夜して並んで観戦しました。

そのことを学校で話したら、クラスの女の子が聞き耳を立てていて「言ってくれればチケット取ったのに」と。その子は高田延彦さんの後援会の会長のところでアルバイトをしていたんです。だからその後のUWFのチケットは、彼女に頼んで良い席で観戦していましたね。

それ以外にも初期FMWや全日本プロレスを観戦しましたね。上京してからはプロレス三昧で、「大学生活、ぶっちゃけ楽しいな〜」と思っていました(笑)。

--雑誌SPAのような生活ですね(笑)。

高木:本当にそんな日々でしたね(笑)。その頃はクラブイベントの企画等も行っていたので、派手な生活を送っていました。

--企画したイベントは、集客も多かったと伺いましたが、イベントとプロレスを一緒にしようと考えていましたか?

高木:その頃はなかったですね。あくまでイベントはイベント、プロレスはプロレスで分けて考えていました。

そして大学3,4年くらいになると周りの影響もあり「真面目に就職を考えなければならない」と思うようになりました。でも結局、就職せず計画留年しました(笑)。

前田日明さんの本「パワーオブドリーム」を読んだら「アメリカに行って成功したい」と書いてあり、それに感化され大学を留年し、アメリカ・ロサンジェルスにいる友達のところに行きました。ただ日本の方が楽しいことに気づいて1ヶ月で帰国しました。

--留年は、何年間しましたか?

高木:2年間です。ですから大学卒業するのに6年かかりました。

--アメリカから帰国して、すぐプロレスの世界に飛び込んだのですか?

高木:いや帰国してクラブ三昧の日々ですね。大学6年の時、そろそろ就職と向き合わないといけないと思っていたら、屋台村プロレスのリングアナの方から連絡があったんです。

その頃、知り合いが東京ウォーカーで働いていて、その雑誌に「夜遊び隊」というクラブ情報のコーナーにありました。時々、僕がそこにクラブ情報を提供していて、リングアナから「そのコーナーに屋台村プロレスの情報を載せられないか」という相談でしたね。

当時、飲食をしながらプロレス観戦できる、というところがなかったため、東京ウォーカーが、屋台村プロレスを2ページ特集で取り上げてくれたんです。記事の評判も上々でした。

その時、屋台村プロレスの練習を見学させてもらい練習風景を見て、動機は不純ですが「俺、プロレスラーとしてイケるかも」と思ったんです。

体力には自信があったし、高校の柔道部でも戦績は悪くなかった。そこで屋台村プロレスでデビューさせて貰いました。

ただ、やるからにはキチンとやりたかったので、デビューする前4,5ヶ月は練習しました。

--屋台村プロレスのリングには、どのくらいの期間上がっていましたか?

高木:実質半年くらいですね。やっているうちに、もう少し高みを目指したくなって鶴見五郎さんのIWA格闘志塾に参加し、その後ジョージ高野さんと髙野俊二さんのPWCに移りました。

そのPWCが突然解散することになり路頭に迷い、野沢一茂(現:NOSAWA論外)、三上恭平(現:MIKAMI)と一緒に旗揚げしたのがDDTですね。

--最初は3名で、他の選手は他団体から借りてという感じですか?

高木:そうですね。他にも団体に参加して欲しかった選手がいましたけど「キャリアの若い人たちでやった方がいいんじゃないか」とアドバイスを受けて始まりました。

--最初は風当たりも強かったと聞きました。

高木:新日本も全日本も経験していない、デビュー2,3年のレスラーが集まって団体を立ち上げたので、それ自体は初めてだったと思います。だから業界の中で黙殺されていました(笑)

こっちはそれなりの苦労をして、他の団体と比較してもリング上でやっていることは変わりないと思っていたので「意地でも認めさせたい」という気持ち、まさにベンチャースピリッツですよね。それが1997年でした。

1999年に初めて聖地・後楽園ホールに進出しました。でも業界的には、まだまだでしたね。プロレス専門誌からは黙殺されていました。

「とにかく目を向けさせたい」という気持ちがあり、雑誌「ホットドッグ・プレス」に仕掛けました。当時は、雑誌「egg」やアムラーなどギャルブーム。

その頃、渋谷のクラブ「ATOM TOKYO」で定期興行を行っていて、会場に毎回コギャルを30人くらい招いていました。数ヶ月すると、それが話題になり雑誌「Hot Dog Press」で8ページの特集を組まれました。

「コギャルが観にくるプロレス団体」となり、TV「トゥナイト」を始め各媒体から取材を受けました。その後、専門誌に取り上げて貰えるようになりましたね。

<後編につづく>

本文:大楽聡詞

写真提供:DDTプロレスリング

<インフォメーション>

DDT最強レスラーを決めるシングルリーグ戦「D王 GRAND PRIX」が、いよいよ11/22後楽園ホールで開幕。昨年は現KO-D無差別級王者の遠藤哲哉が優勝した。今年の覇者は誰になるのか?

動画配信サービスWRESTLE UNIVERSEで、生配信が行われます。→https://www.ddtpro.com/universe

詳しくは、DDTプロレスリング公式サイトをご覧ください。→https://www.ddtpro.com

また現在DDT EXTREME級王者の高木社長。防衛戦はすべて路上プロレスで行ない、なおかつYouTubeで配信。詳細は高木社長のTwitterをご確認下さい。

DDTプロレス公式→YouTube https://www.youtube.com/user/ddtofficial

高木三四郎Twitter→https://twitter.com/t346fire