1998年、ドラフト1位で入団した阪神タイガースでは782試合登板で60勝38敗243セーブ163ホールド。MLB、高知…
1998年、ドラフト1位で入団した阪神タイガースでは782試合登板で60勝38敗243セーブ163ホールド。MLB、高知ファイティングドッグス、侍ジャパンでもユニフォームをまとい、阪神での935回3分の1で1220個の三振を奪う原動力となった「火の玉ストレート」......。藤川球児投手は偉大な記録以上に記憶に残るプレーで22年間、私たちを元気づけてくれた。
そんな藤川投手の源流は生まれ育った高知県高知市にある。そこで今回は高知市立城北中の恩師・上田修身氏(現:高知商監督)、市立高知商の恩師・正木陽氏(現:同校総監督)に話を聞いた。現在ともに藤川投手の母校・高知商に勤務する2人が「あのころの球児」の思い出を語り、「これからの球児」へエールを送る。

高知商2年夏には甲子園で1勝。兄・順一さんとの兄弟バッテリーが話題となった藤川球児(左)(高知商=写真提供)
【きれいなフォームにシャドウピッチングで「火の玉ストレート」へ】
ーーまず上田監督、高知市立城北中当時の藤川投手のことから教えてください。
上田修身氏(以下、上田) 入学前、「小高坂ホワイトウルフ」の監督からは「いい投手だから大事に育ててくれ」と託されていたんですが......。最初の「1年生練習」には来ずに、ハンドボール部にいました。そこで球児の友人に伝言しました。「野球部に入らないんだったら球児という名前を変えろ!」って(笑)。ほどなくして野球部に入部しましたけどね。
中学入学時の彼は投げ方がきれいな一方で身長は170センチを切るくらい。フォームもインステップ気味だったんです。そこだけは直しながら、市内大会でも準決勝・決勝のダブルヘッダーがある時は、準決勝だけ投げさせて決勝は投げないといったように、登板過多にならないように気を遣いました。
そんな球児は野球部を引退してから急に身長が伸びたんです。中学3年の夏に172センチくらいだったのが卒業式では180センチになって。あとは「(自分の)母校を甲子園に連れてってくれよ」という思いで高知商へ送り出しました。

高知商・正木陽総監督(左)と上田修身監督。藤川投手が高知商2年夏に優勝した高知県大会の優勝盾を挟んで
ーーそして正木監督が後を引き継ぐ形になったわけですね。
正木陽氏(以下、正木) そうですね。球児については(上田)修身からも事前に「いい投手」とは聞いていたんですが、確かに入学時からいい投げ方をしていたし、手足も長くて肩の可動範囲がすごく広かった。僕はすぐにプロにいけると思いました。ただし、球速は当時125キロくらい。だから最初は外野に入れて、体重移動で体全体の力で投げることを身につけさせました。
もうひとつ力を入れたのはフォームづくり。タオルを使ってのシャドウピッチングで5分くらいの力でやらせていました。彼のすばらしいところはどんなにフォームが乱れてもシャドウピッチングをしたら修正できるんです。肘の高さや身体の向きもシャドウピッチングをすれば直っていましたね。
2年春になると球速が140キロを超えて、夏前にはストレートが相手打者に当てられなくなった。高知大会前に鳴門(徳島)と練習試合をした時に1安打20奪三振で完封。これが、高知の土居龍太郎(法政大を経て横浜ベイスターズ自由獲得枠)、明徳義塾の寺本四郎(千葉ロッテマリーンズドラフト4位)、高橋一正(ヤクルトスワローズドラフト6位)といった2年生の同級生を抑えて甲子園にいける原動力になりました。
【帽子のつばの裏に書いていた「弱気は最大の敵」】
ーー藤川投手といえば、随所にストイックなイメージがありますが、中学・高校時代はどうだったんですか?
上田 野球にガツガツした感じはなかったです。呑気な雰囲気もありました。中学時代の最後の大会も試合の2日前くらいから調整で練習量を落としたんですが、余った時間で皆で川に泳ぎに行ったりしていたみたいです。
正木 実は中学まで球児は右投右打だったんですよ。ただ、右打ちがあまりにリズム感が悪かったので左打ちに変えました。彼にはクリーンナップを打たせて送りバントはさせなかったですね。ホームランも含めてよく打ちましたよ。
半面、今でこそすごい投手になりましたが、彼は繊細で実は気が細い(弱い)んですよ。2年夏からはあまりに腕の振りがすごくなったので、爪の状態は常に気にしてました。僕も「普段から爪を机とかに叩いて強くしろ。ヤスリで爪は削れ」ということはアドバイスして、常にそれはやっていましたね。
それと2年夏には兄貴(順一さん)とバッテリーを組んで甲子園にいって全日本にも選んでもらって。ただその秋は四国大会初戦で上甲正典監督(故人)のいた宇和島東に負けたんですが、その当日キャッチャーに聞いたら「球児、昨日はよう寝てません」って。心配だったんでしょうね。緊張するタイプだったんですよ。
だから帽子のつばの裏にはこの言葉を書いていました。「弱気は最大の敵」。広島東洋カープの炎のストッパーだった津田恒実さん(故人)の言葉ですね。
ーー藤川投手のTwitterで津田さんのプレートにあいさつをしていたツイートがありましたが、原点はそこにあったのですね。学校生活とかはどうだったんですか?
正木 学校では素直な子だったんですが、提出物とかはルーズで。プロ1年目の2軍安芸キャンプに卒業前の課題を持っていったこともあります(笑)。
あと、姉さん女房の奥さん(英子さん)は僕が高知商で野球部の監督をする前に、ソフトボール部の監督をしていた時のマネージャーでした。当時から気が利いたいい子だったんですが、どこで知り合ったのかなあ......。
【兄・順一さんとの共闘。世界への想い。そして高知県への貢献】
ーーさきほど正木監督も触れたように藤川投手は高知商時代、兄・順一さんとの「兄弟バッテリー」で2年夏に甲子園出場を果たしました。やはり兄弟の存在は大きかったんでしょうか?
正木 実は球児が入学したタイミングで2人には野球部寮に入ってもらいました。食事からトレーニングをしたんです。そして1年秋の県大会準々決勝・明徳義塾戦で外野手だった球児が外野フライを取れずに負けた後は、2人と当時のキャプテンと1学年上のエースナンバーを背負っていたピッチャーと4人で朝に座禅を組ませて身体と同時に精神面も鍛えました。
順一と球児は本当に仲がいい兄弟。順一も甲子園で前十字靭帯を切らなかったらプロにいける実力がありました。だから球児は兄にはノーサインで投げられるんですよね。順一は球児の投げたい球がわかるので。逆に最上級生になると周りに気を遣っていた部分もあったんでしょうねえ。
ーーそして1998年・阪神タイガースからドラフト1位指名を受けました。
正木 ドラフト直前にデイリースポーツが「阪神・藤川1位」と記事を出した時はビックリしましたよ。それまでそんな雰囲気はまるでなかったから。実際に1位指名してもらった時の感想は「本当だったんだ」でした。
でも、私から見たら当時の球児の実力はドラフト3位〜4位くらい。右肘の状態も決してよくなかったし。だから僕も球児に言いました。「無事、プロ野球生活をまっとうしてほしい。辛抱して細く長くやったら給料も上がっていくし、引退してからも球団にも置いてもらえるぞ」と。
そこからここまで来られたのは本人の努力と阪神球団、そして奥さん含めた周囲のおかげです。
ーーその後、藤川投手は一流への道をたどり、2013年から2年半、MLBの舞台にも立ちました。
上田 球児が中学生の時に野茂英雄さんがメジャーにいったので、憧れはもっていたみたいですね。
正木 寮の机には「俺はワールドシリーズに出て世界一の投手になる」とか、いっぱい落書きはしていたようです。後から探したら確かにそんな落書きがありました。当時ははるか彼方の夢だったんですが、それを実現したことはすごいですよね。

高知商野球部寮に残る藤川投手が使っていた机の引き出し。サビの下には
「メジャー行く」と書かれている
ーー2015年後期には四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスでプレーするサプライズもありました。
正木 球児から「ボールを見てくれますか」と連絡があって何度か試合も見たんですが、試合ごとにボールはよくなってきていました。その時期があるから昨年、阪神タイガースでクローザーとして復活してくれたことは本当にうれしかったです。
上田 球児は高知商のブルペンを借りて個人トレーニングをすることもあったんですが、身体の厚さやボールのすごさを子どもたちが見てビックリしていたことを思い出します。
2年前の夏、高知商が甲子園に出た時の選手たちも小中時代に高知ファイティングドッグスでの球児のプレーを見てくれた世代。「そこに貢献できたら僕も高知に帰ってきた甲斐がありました」と本人も言っていましたが、本当にそこはよく帰ってきてくれたと思います。
【引退の予感、そして「これからの球児」へ】
ーーそして今年を迎えたわけですが、藤川投手が引退を決意した際に連絡などはあったんですか?
正木 電話で「僕、ここまで本当によく投げてきましたよね」と話があったのは覚えています。僕としては今年2軍ではいつくばってでも250セーブ・名球会入りは達成してほしかったんですが、本人は高校時代から自分の意に沿わないことはしないし、1回言ったことは曲げない性格なので「これは引退するんだろうな」とその時感じました。でも、そこまでこだわりがあるから、ここまでできたとも思います。
上田 僕は去年の春先に甲子園に寄った際に電話したら「先生、駐車場も確保しています」ということがあって。今までそんなことがなかったので「これは最後かもしれない」と一度思ったことはあります。そして今年、「右肘が痛いです」という連絡があった時は「いよいよだな」と思いました。
でも、引退試合で高知県から来た数多くの人たちの前で投げられたことは本当によかったと思います。引退セレモニーでリンドバーグの渡瀬マキさんに読んでいただいた球児の作文は、実は城北中での校内大会で一番になって、高知市内の弁論大会に出場する際に国語の先生に添削していただいたものなんですが、その国語の先生も僕と一緒に甲子園で見ることができた。よくやってくれました。
ーーでは最後にお二人から「これからの藤川球児」へのエールをお願いします。
正木 阪神タイガースには本当にお世話になったので、細部にこだわった部分や、感受性の強い部分を活かしてまずは阪神に恩返しをしてほしい。そして、いろいろな人たちの意見も聞いて野球界に貢献してほしいです。
上田 ここまでなってくれたから日本の野球界にも貢献してほしいし、いずれは阪神タイガースの監督になってほしい。それと「高校野球の監督にもなってみたい」ということもチラリと言っていたので、もし指導者資格回復をする機会があったら、できることなら母校も指導してほしいです。
<プロフィール>
正木 陽(まさき・あきら)
1960年11月26日生まれ。59歳。高知商では外野手として78年夏の甲子園準優勝。同志社大を経て93年に高知商監督に。94年春、95年夏、藤川球児投手が2年生だった97年夏に甲子園出場、その後、高知県高野連理事長や2010年から15年夏までの高知商監督復帰などを経て現在は総監督。同校教頭を務める。
上田 修身(うえた・おさみ)
1962年6月11日生まれ。58歳。高知商では内野手・主将として80年春夏連続甲子園出場。センバツでは中西清起(元阪神タイガース)をエースに優勝に輝いた。その後、日本体育大を経て高知市内の中学野球部監督を歴任。城北中では藤川球児投手を指導した。2015年8月からは正木監督から高知商監督を引き継ぎ、18年夏には甲子園2勝をマークしている。