根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第19回証言者・浦田直治(1) 1950年、秋の明治神宮野球…

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第19回
証言者・浦田直治(1)

 1950年、秋の明治神宮野球場。東京六大学野球の秋季リーグ戦、試合開始前のことである。「球都」と呼ばれる群馬・桐生市からやって来た中学生の一行が、当時、法政大でプレーする根本陸夫を訪ねた。

 一行は、桐生市立境野中の野球部員。主将の浦田直治(元・西鉄)は後年、プロ入りして「根本の右腕」と称されるのだが、この時が最初の出会いだった。それにしても、なぜ、群馬の中学生が根本に会いに行ったのか──。スカウト部長、球団本部長として、長年、西武の新人補強に尽力した浦田に聞く。



西武入団が決まった松坂大輔(写真左)と握手する当時球団本部長の浦田直治氏

「野球部の監督が日大で野球をやっていまして、根本さんの2年先輩でした。それで先生が、キャプテンの僕に言ったんです。『俺の後輩に根本っていう選手がいた。今は法政大学に変わって、キャッチャーをしている。俺が根本に頼むから、みんなを連れて六大学を見に行って、野球の勉強をしてきなさい』と」

 根本宛に手紙を書くよう命じられた浦田は、野球部全員で行くこと、試合観戦を希望することなどを記して投函した。ただ、根本という選手について、先生は何も教えてくれなかった。日本大から法政大に移った事情も知らされなかったそうだが、本来ならあり得ない移籍。浦田の話を続ける前に、根本の球歴、事の次第と背景を明らかにしておきたい。

 旧制茨城中(現・茨城高)で本格的に野球を始めた根本は、1年時からレギュラーになるほど有能な選手だった。反面、授業をサボってばかりで3回も落第し、退学処分。旧制日大三中(現・日大三高)に転校する。その野球部で"終生の師"となる監督、藤田省三(のちに法政大監督、近鉄初代監督)に出会う。藤田夫人と根本の母親が遠縁だったことで選んだ道だった。

 日大三中では、"終生の友"となる左腕の関根潤三(元・近鉄ほか)とバッテリーを組んだ。卒業後、関根は法政大に進学したが、戦時中、根本は短期間ながら軍隊生活を体験。終戦後の46年に日大に進学し、東都大学リーグで野球を再開した。

 プロでは主力ではなかった根本が、選手として最も輝いた時期。46年秋のリーグ戦では30打数12安打、4割の打率を残して首位打者を獲得する。捕手としては鉄砲肩で鳴らし、のちに阪神に入団する田宮謙次郎ともバッテリーを組み、攻守に活躍していた。

 ところが、翌47年、根本は戦後の混乱期らしいトラブルに巻き込まれる。一時、立教大に入っていたことが判明し、連盟から出場停止処分を受けた。実際に入部したのか、練習に参加した程度だったのか、定かではないが、この処分が法政大への移籍につながることになる。

 出場停止中の48年、根本は母校・日大三高から要請され野球部の監督に就任。同校の『70年史』に<根本監督の200本ノックの苦しみは今でも強烈に残っている>との記述もあるほど、熱心に指導したようだ。だが、在任期間は1年限りとなった。

 というのも、法政大監督に就任していた藤田が、根本を引き取ったからである。折しも主力捕手が卒業し、後釜を誰にするか悩んでいた時。エースになっていた関根とすれば、中学でバッテリーを組んだ根本に救われる形となった。

 そうして49年から法政大でプレーした時、日大三高監督時代のブランクがあるため、根本は3年生。関根は4年生で、卒業後の翌50年、今度は藤田が初代監督になった近鉄に入団。その後、再び藤田に呼ばれる形で根本も近鉄入りするのだが、その経緯は後述するとして、浦田の話に戻る。神宮球場で初対面となった根本に、どんな印象を持ったのだろうか。

「練習中で、根本さんはユニフォームのまま出てきて、『おおっ、よう来たな!』と。もう最初から親しい間柄のように会話してくれたんです。それで『おまえら、まだ昼メシ食ってないだろ?』って言って、球場の食堂に連れていってくれた。そしたらカレーライスが出てきて。戦後間もない頃、カレーなんて御馳走中の御馳走でしたから。それは美味しかったですよ」

 先生からの口添えがあり、自分から手紙を出しているにしても、想像を絶する歓待ぶりに浦田は驚いた。まして、「食べ終わった頃に迎えに来るから。スタンドに案内する」とまで言われ、なぜ、この人はここまで面倒を見てくれるのだろうと思っていた。

「でも、そのうちに大学の理事長が来て、怒るわけです。『何でお前らがこんなとこで食ってるんだ?』と。そこで僕が根本さんのことを話したんですが、『ここはおまえらが入れるところじゃないんだ』と。言われた時に、練習に行っていた根本さんが戻ってきた。途端に理事長と言い合いになってました(笑)」

 大学にも連盟にも断りなく、勝手な振る舞いだったのだろう。根本にすれば、野球部の先輩からの依頼に最大限の誠意を持って応える、ただそれだけの思いで取った行動だったに違いない。試合が終わり、浦田が代表して礼を述べたあとも、より早い電車での帰り方を指南するなど、最後まで親切にしてくれたという。

 その時、新チームになったばかりで浦田はまだ中学2年生。大下弘(元・セネタースほか)に憧れてプロ野球選手を目指していたから、3年生になって、プロ入りに有利と思われる高校を探した。調べてみると、地元では桐生高から10人以上が入団。同校は甲子園にも春夏合わせて15回の出場を誇り(当時)、春に準優勝していたから進学を決断した。

「難関校でしたから、一生懸命に勉強して何とか入りました。僕らの時は甲子園に行けなかったですが、キャッチャーとしてプロでやれるだけの自信はついていました。自分としては、国鉄(現・ヤクルト)に入って金田正一の球を受けたかった。セカンドの中村栄さんが高校の先輩だったので、この方を通じて入ろうと思っていたんです」

 ところが、桐生高監督の稲川東一郎から社会人入りを勧められる。大昭和製紙が浦田を獲りに来ていたのだが、ショートを守っていた監督の息子の事情があった。浦田が入社を承諾すれば息子も一緒に入れる、という条件を提示されていたのだった。

 監督に口説かれた両親に説得され、浦田はやむなくプロ入りを断念した。だが、「2年後にはプロに行きますよ」と宣言して入社。すると実際、2年目の56年に都市対抗で活躍して注目され、西鉄からの誘いを受けて入団する。監督に三原脩が就任して6年目、ライオンズが初の日本一に輝いた年だった。

 一方、根本は法政大を卒業した51年、社会人の川崎コロムビアでプレーしていたところ、主力捕手が不在となった近鉄に誘われた。大学時代と同様、監督の藤田によって、関根の女房役として請われたのだ。

 もっとも、入団時の年齢は27歳。故障の影響で肩も弱まっていた根本は、主力としては期待されていなかった。2年目に110試合に出場したあとは出番が激減し、55年、56年は試合出場なし。この2年間は当時の監督、芥田武夫のサポート役に回っていたのだった。

 そして、57年。選手としては最晩年となる根本と、新人の浦田が再会を果たす。神宮球場で別れて以来、面会する機会はなかったが、浦田の頭から根本が消えたことはなく、社会人からプロ入りしたことも知っていた。最初の近鉄戦、試合前に挨拶に行った。

「1回しか会ってないのに、一度も連絡しなかったのに、根本さん、覚えていたんでしょうねえ。『あっ、お前、もうプロに入ったんか』と言われましたから。たぶん、顔が印象に残っていたと思います。僕は鼻が大きいし、個性的な顔しているから(笑)。で、そこから、長いお付き合いが始まったんです」

つづく

(=敬称略)