「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第13回 土井正博・前編 (第1回から読む>>) 今季のプロ野球は、パ・リーグでは…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第13回 土井正博・前編 (第1回から読む>>)

 今季のプロ野球は、パ・リーグでは浅村栄斗(楽天)と中田翔(日本ハム)、セ・リーグでは岡本和真(巨人)と大山悠輔(阪神)、いずれも日本人の右打者がホームラン王争いにからんでいる。奇しくも今から13年前、当時としては久しぶりに日本人の右打者が両リーグでホームランを量産したシーズンがあり、それをきっかけにひとつのインタビューが行なわれていた。

 個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの13人目は、NPB歴代12位の465本塁打を放った土井正博さん。18歳にしてプロ野球の4番に座った"伝説"の持ち主は、どのようにしてその打撃術を磨き上げていったのか。



ヘッドを投手方向に向けた土井正博の豪快な打撃フォーム(写真=共同通信)

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 土井正博さんに会いに行ったのは2007年10月。その年のシーズン終盤、パ・リーグでは楽天の山崎武司が本塁打王を確定的にしていて、セ・リーグでは横浜(現・DeNA)の村田修一が同タイトルに近づいていた。

 両リーグで右打ちの日本人選手がキングとなれば、1995年の小久保裕紀(ダイエー)、江藤智(広島)以来。それ以前にさかのぼると、75年の田淵幸一(阪神)、土井正博(太平洋)──。そこでまず、土井さんの名前が浮上してきた。

 歴代の本塁打王を振り返ると、2リーグ制が発足した50年から60年まで、51年の大下弘(東急)以外はすべて右打者だった。さらに、パでは右の野村克也(南海)が61年から8年連続なのだが、セでは61年に右の長嶋茂雄(巨人)が獲った後、左の王貞治(巨人)が13年連続で受賞という時代が続く。よって60年代以降、"右の和製大砲"による同時受賞は滅多にない。

 80年代半ばからは、外国人選手が席捲。そういうなかで山崎、村田が獲るとしたら、"右の和製大砲"復活の予兆といえるのかもしれない、と僕は大げさに妄想していた。この妄想がその後にふくらむ。

 10月3日の高校生ドラフト。大阪桐蔭高の中田翔が阪神、オリックス、日本ハムから1巡目指名を受けた。高校通算87本塁打を記録した[怪物]中田は"右の和製大砲"になりうる逸材。イメージが重なる清原和博の後継者としてオリックスへ、などと期待していたら、交渉権を獲得したのは日本ハムだった。

 2006年から連覇を果たした日本ハムだが、投手力を含めた守りはいい反面、攻撃陣は破壊力不足。晴れて入団して開幕まで順調に過ごせたら、清原のように1年目からクリーンアップを任されるかも──。そこまで妄想がふくらんだとき、土井さんの伝説が浮かび上がった。

 新人獲得は自由競争の時代、土井さんは大阪の大鉄高(現・阪南大高)を2年で中退し、61年に近鉄に入団。1年目に一軍出場はなかったが、新任の別当薫(べっとう かおる)監督に見込まれた2年目、オープン戦ながら4番で起用された。

 通常より1年早い入団で、1943年12月生まれの土井さんはその時点でまだ18歳。つまりは史上最年少、[18歳の四番打者]が誕生したのだった。公式戦では主に6番、7番だったが、当時の近鉄が低迷していた事情を踏まえても、性急にすぎると思える大抜擢。背景には何があったのだろうか──。

 近鉄電車の大阪上本町駅からタクシーに乗って5分。指定された交差点で降りて歩道に立つと、20mほど先に土井さんが待ってくれていた。駆け寄ると目を丸くしてニカッと笑顔になったのだが、その快活な表情はこれまでのイメージに相反するものだった。

 僕が土井正博という選手名を初めて知ったのは小学5年生のとき、76年の太平洋(現・西武)時代。野球カードで見た、鋭い目つきを怖く感じた。他のどんな選手よりも怖かったことを憶えている。その印象が消えないまま間近でプレーを見る機会もなく、現在まで来てしまった。

 近年は西武のコーチとしてベンチにいる姿を映像でよく見ていたが、白髪に白い髭をたくわえていたときの風貌は威厳に満ちて、近寄り難い人、と感じていた。思えば、土井さんの笑顔を一度も見たことがなく、文献資料にある現役時代の写真もやはり目つき鋭く、険しい表情ばかり。見れば見るほど、子どもの頃に感じた怖さがよみがえっていた。

 ところが今、ご自宅で目の前にいる土井さんはいたって朗らか、眼差しもやさしい。野球の現場とは違う、くつろげる空間だから当然なのかもしれないが、これほどイメージと差のあるケースは過去にない。あらためて挨拶を交わして名刺を渡すと、「すいません、ボクは名刺ありませんので」と頭を下げた土井さんはソファに腰かけた。

 背筋を伸ばしたまま、身は沈めていない。取材の主旨を説明する間もずっと姿勢を崩さず、各々の話題に溌剌(はつらつ)とした声で「ハイ」と答えてくれている。僕はそのまま"右の和製大砲"の話を持ち出し、中田への期待感を伝えた。土井さんが言った。

「楽しみですよね、中田君。まあ、うまく乗り越えられるかね。ひとつの壁がありますのでね。この壁を、入団して2〜3年までにどないか乗り越えて、形ができんことには、並みの選手になってしまいますから」

 いきなり「壁」が出てきた。「清原の再来」という周りの評価はあっても、1年目から同じように活躍するのは容易ではないようだ。

「で、遅まきながら、ということはないんです。清原も、巨人にいた松井もね、高校のときのいちばんいい状態からツッと入って、3年以内にホンマのレギュラーポジションをつかみました。であればいいんですけど、出たり出んかったりではね。まあ、成績上がらんことには、そうせな仕方ないですしね。そこんところなんですよね」
 
 このまま中田の「壁」について聞きたい、とも思う。何といっても土井さんは歴代12位の通算465本塁打、歴代10位の2452安打を記録した大打者にして、西武での指導歴は計12年(当時)。近年は中島裕之、中村剛也らの成長を支え、かつては1年目の清原を指導している方なのだ。

 西武における大阪の高校出の"右の和製大砲"という系譜もあり、俄然、コーチとしての仕事に興味が湧いてしまう。が、まずは中田への妄想から浮上した伝説、[18歳の四番打者]について聞いておきたい。

「あのときは別当さんがね、もう『つくる』いうことで、つくってもらいましたのでね。長距離バッターということで目をかけてもらったという」

 つくる、に力が込められていた。育てる、ではなく、つくる、と表現しているところに大抜擢の事情がうかがえる。4番起用の構想はどの段階で生まれていたのか。

「もう、前の年の秋季キャンプのときから、別当さんが『来年のシーズンにはやる。4番で出す』と言ってたんですね。『史上最年少の四番』いうのは謳(うた)い文句にするにはちょうどいい、ということで。マスコミに向けてね。で、監督が言うた手前、使わなしょうがないですから。ハッハッハ。でもボクのほうはね、ヨタヨタヨタヨタしながらね、エッヘッヘ」

 精悍な顔に照れ笑いが浮かぶ。どこか振り返ることが楽しそうな感じもある。オープン戦とはいえ、4番を打つにあたり、別当監督から直々に話はあったのだろうか。

「ありました。『近鉄いうのは、近い鉄、と書くんやけど、チカテツ、地下鉄や。いつもAクラスに入らんと、べったばっかりで地下に潜っとる。そういう形で選手がぬるま湯に浸かってるんじゃないか』と。だから一回、若手を生かしてドッと活気づける、ということで『やれ!』と」

「べった」とは関西の方言で、ビリ、最下位のこと。当時の近鉄は球団創立以来、「万年最下位」といわれるほど低迷していた。だからこそ、刺激剤としての大抜擢だったようだ。

「勝てば祝い酒、負ければヤケ酒、そんなチームでしたからね。ベテラン連中が非常に多くて、これではいつまでたっても負ける状態いうことで、『土井を4番で出す!』と」

 気になるのは、それまでのポジションを奪われた選手、チームメイトの反応だ。公式戦では4番起用がなくとも3番が1試合、5番が15試合。それ以外は6番、7番で同年131試合中129試合、前年は一軍で実績のない18歳がスタメンで出続けたのだから。

「いやあ! そらもう、きつかったですね、ハイ。周りの反応は本当にきつかった。結局、先輩からやられますよね。今まで中軸を打ってた人からもやられるし、ボクのために1人、線上スレスレの人が落ちるっていうのもあるし。ボクは外野手だから外野守ってる人もそう。そのへんのことは気にしましたし、相当のプレッシャーがかかりましたよ」

 声のトーンが上がり、大きく息を吐き出しながら強く顔がしかめられていた。そのシーズン、62年の土井さんの成績は打率.231で5本塁打、43打点。500打席に立って規定に達したのは監督の期待の現れだろうが、129試合はチームトップの出場数。それを考えると、物足りない数字に見えてしまう。

「あの当時、一球団に30勝ぐらいするピッチャーが1人、2人いてましたので。その人らはやっぱり、並大抵では打たしてくれませんからね。エッヘッヘ。それでも打っていかなアカンけど打てない。そしたらものすごい野次ですよね。『オマエが打たんから〜!』とワアワアやられる。体力的には参らなかったんですけど、精神的にやられましたよね」

 そういうなかでもレギュラーとして出続けられたのはすごい、と思ってしまうのだが、ベンチにもスタンドにも救いがないのはつらい。

「いや、ボク、一度、監督にね、『すいません。もう外してください』ってお願いしたんです。ファンから野次られ、選手仲間から陰口叩かれるのは嫌やし、オレが出てるからチームはまた最下位にいるんやな、と思って。18にしたら、持ちこたえられんのですよね。そしたら、エライ怒られましてねぇ」

 土井さんはそう言って両手を両膝につき、身を乗り出した。

「別当さんに言われました。『お前、つこうてるオレのほうが苦しいんやぞ。なあ、それをわからんのか。今、ここで外したら、一生、出てこれない。それをわかってオレに言う覚悟があるんだったら、もう一回、死に物狂いでやってみい』と。

 要するに、野次とか陰口とか、耳に入ってこんぐらいの練習をやってない、ぬるいんだ、というわけです。ゲーム終わったらボテーンと寝て、起きたらグラウンド行ってやる日々を送らなアカン、と。いわゆる野球漬けですよね」

 よく耳にする「我慢して使う」という言葉が想起された。これが「つくる」「つくってもらった」という表現の真意なのか。

「18のボクにとっては、外してもらったほうが楽でした。でも、あのときに『ほんなら外したろ』と言われて、楽なほうに行ってしまったら、その後のボクの人生、なかったと思うんです。別当さんに怒鳴り返されて、次の年からどんどん昇っていけましたので」

 翌63年、土井さんはフル出場を果たして打率を.276に上げ、13本塁打。5月20日の東映(現・日本ハム)戦で初めて4番を打ち、オールスター初出場も果たしている。64年にはリーグ最多安打を記録して打率.296、28本塁打、98打点。順調に数字を伸ばした背景には何があったのだろう。

「ボクらの時代は誰も教えてくれないんですよね、ハイ。自分でじーっと見て、盗むっていうんですかね。オープン戦やったら長嶋さんのバッティング。王さんは左バッターですから、ボクは参考にできないんで。

 それと、普段の公式戦やったら野村さんのバッティング。試合前も、自分たちの練習終わったら、相手側の練習をじーっと見る。オールスターに行けば、先輩方に聞いたら教えてくれるんですね。聞かなかったら教えてくれない。だから、自分の目で見て、自分で聞ける、っていうことで勉強させてもらいました」

 見て、盗み、聞いて、勉強する。その上で特に工夫したことがあったとすれば、それはどういう部分だったのか。

「そうですねえ。ボクはものすごい手首が強いから、ホームランボールもみんなレフトのほうにファウルになってしまう。それで自分で試行錯誤しながら、上段にブワッと構えて、バットのヘッドをピッチャーに向けるようにしたんですよ」

 ソファに座ったまま、サッと打つ構えをして、グリップをこちらのほうに向けた。クリーム色の半袖シャツから上腕がヌッと出て、前腕の筋肉が隆起する。63歳という年齢をまったく感じさせない。

「こうするとバットが遅れてきて、ちょうどボールにガチャーンとマッチするようになって、ファウルが少なくなったんですよね。普通の構えだと手首が早くギャーンと返ってしまいますが、遅れるぶん、バットの面でボールが当たるようになったんですね」

 あえて振り出しにくいところへバットを持っていった、ということなのか。土井さんはテーブルに置かれた雑誌を素早く取って、頭にかざすようにした。バットを持参すべきだった、と思ったが、形状も材質も違うと、普通とは違う構えだったことがかえって実感できる。そして、構えは違っても、最終的にはスイングは同じ形になるのだろう。

「あっ、そうなんです。一緒の形になります。バットが遅れて出ていくだけで。だから、ファウルになってるときも、エエ打ち方してるなぁ、と手応えありました。だけど、ファウルなんですね、それは。ハッハッハ」



自ら工夫した打撃フォームを語る取材当時の土井さん

 結果はファウルでも、プロセスの打ち方には手応えがある。ならば、プロセスはそのままに結果だけを変えるべく、時間差をつくる。時間が遅れるぶん、差し込まれてしまう、という不安や恐怖はなかったのだろうか。あるいは、窮屈感もなかったのだろうか。

「恐怖感はなかったですね。初めは自分でもどうかな、という感じでやったんですけども、手首が強いですからね。やってみたらパチャーン、パチャーンとマッチするようになって、それがエエほうに回ってった、という。ただ、窮屈感はありました。ハイ。ありましたけどね、窮屈ななかでバットがピシーンとしなってくる感じがして。

 バットの面で打ちながら、ボールをちょっと乗せるんだな、と。普通の構えではギャーンと行ってたヤツが、ファッと乗せるっていう感じになって。まあ、言葉ではなかなか説明しづらいんですけども、自分としては、先輩方が『乗せる』と言っていたのはこういうことを言われてたんだな、とわかったんですよね」

 バットの面でとらえているからこそ、乗せる、という感覚になる。それはイメージできる。

「乗せる、フッと運べる、押し込む、全部おんなし言葉なんですけどね。でも、若いうちにはわかんないですし、そういう言葉をいろいろなコーチに言われると、自分のバッティングがわからんようになってしまう。それがいちばん困ることですからね。

 選手は、自分からコーチに聞きに行くと、自分にとって的確な答えが返ってくる。それを聞きに行かないで、コーチにあまりにも頼ってしまうと、自分のいいところも悪いところもわからなくなるんですね」

 選手自身、おかしいところがわかった上で、指導者に聞きに行くことが大事なのだ。

「例えば、何でバットが出てこないんだろう、となって、『どないしたらいいですか?』と選手が聞きに来たら、『ちょっと体の開きが早いから出てこないよ』とか、ボクらの経験談の上で言うてあげることはできる。

 ただ、コーチが自分の経験を選手に押し付けてしまうと、違うとこばっかり見えてしまって、それで教えようとすると、選手のいいものまで曲げてしまいますのでね。そういったことが、ボク、コーチをやってきて感じたことですね、ハイ」

 いつの間にか、時間を跳び越えて現在の指導者としての話につながっていた。

(後編につづく)