甲子園優勝の栄光を知り、侍のユニホームをまとった男が、神宮に最後の快音を響かせた。先週末に行われた東京六大学秋季リーグ戦。4年間の最終カードのスタメンに1人の4年生が初めて名を連ね、その舞台に立った。   「今まで、ずっとスタメンで出るこ…

 甲子園優勝の栄光を知り、侍のユニホームをまとった男が、神宮に最後の快音を響かせた。先週末に行われた東京六大学秋季リーグ戦。4年間の最終カードのスタメンに1人の4年生が初めて名を連ね、その舞台に立った。
 
「今まで、ずっとスタメンで出ることができなくて。1年生からベンチ入りはできて、次はスタメンになれると考えていたら、同級生に抜かされていった。いろんな気持ちが入り混じって、ようやく最後にスタメンが巡ってきたからこそ、結果を出してやろうというより、思い切ってやろうと」

 そう振り返ったのは、立大・林中勇輝内野手。この名前を聞いて、多くのアマ野球ファンがピンと来るだろう。敦賀気比(福井)で15年春のセンバツ優勝を達成し、翌年は高校日本代表も経験した遊撃手である。

 10月31日の法大1回戦に「2番・三塁」で出場。0-0で迎えた3回1死三塁だった。その5日前にロッテからドラフト1位指名されたばかりの152キロ左腕・鈴木昭汰(4年)の直球を弾き返し、レフトへの二塁打を放った。

「初球から打ってやろうということだけ考えていた。野球人生を振り返ってみても、そうだったから。チャンスの時、自分は初球から振りに行った時から結果が出ていたって。高校時代から知っていて、あれだけ注目されている鈴木から打てたことは本当にうれしかった」

 初球はボールとなったが、2球目のファーストストライクを強振。自軍ベンチへ派手にガッツポーズを決めた先制打が、このまま決勝点になった。

 試合前のスタメン発表で「2番・三塁、林中」と呼ばれ、初めてその事実を知って驚いた。試合後は味方のみならず、法大ナインからも「ナイスバッティング」と声をかけられたが、この1本に至るまでの4年間は日陰を歩んできた。

 うれしい記憶とつらい記憶、大学生活でどちらの方が残っているか。

 そう聞くと「つらい方が多かったですね」と笑って振り返る。

「高校で少し活躍できて、実績ある立場で期待されて大学に入ったのに、スタメンでバリバリ活躍ということができなくて。A、B、C、DあるうちのBチームにいる期間も長かったし、ベンチ入りできなかったシーズンもあったので」

 甲子園優勝した高校日本代表メンバー。だから、きっとやってくれる。

 そんな期待を背負い、スタートした大学生活の滑り出しは良かった。チームが59年ぶりに春の大学日本一を達成した直後、1年秋からベンチ入り。「1年生からベンチに入れると思っていなかったのに。順調に行っているなという感じ」。歯車が狂い始めたのは2年生からだった。

 新チームになって同級生の宮慎太朗が台頭。林中も主戦場とする遊撃手で先にレギュラーを掴んだ。そこから、三塁、一塁などに回され、「試合に出られるなら」と必死にこなしたものの、出場機会は代打中心に途中出場だけ。定位置を掴むことはできなかった。

「それでも、自分は負けていないと思っていた」と林中。「劣っていると感じなくて、なんで自分じゃなくて他の選手が出ているんだと思っていた。ただ、それが問題だった」。エリート街道を歩んできた野球人生では無理もない。ただ、そうなると、今度はあの肩書きが重荷になった。

 甲子園優勝した高校日本代表メンバー。なのに、試合に出られない。

「高校時代は……」と当時の栄光を勝手に持ち出され、現状と比較する周囲の声が耳に入った。「それは、ずっと気になっていた」と打ち明ける。

「冗談で言われているのは分かっていても、自分からしたらキツくて。高校(敦賀気比)のメンバーとか、高校日本代表のメンバーとかが活躍すると『林中はどこに行ったんだ』と言われたり、ドラフトで1、2個上で甲子園で有名だった選手がプロに指名されると、自分と比べられたり……」

 そんな状況は4年間、続いた。「そう考えると、自分、よく耐えたなって思います」と笑う。

 次第に増えていくBチームで過ごす時間。7歳から始まった野球人生で初めて味わう屈辱だった。

 しかし、決して野球への情熱が失せることはなかった。その理由を問うと「なんでだったんだろう」と逡巡した後で「なんやかんや、野球が好きだったんだと思います」と言い、照れくさそうに笑った。

「どれだけ結果が出なくて落ち込んで、練習はもういいやと思っても、次の日に起きて練習の時間になったら楽しんでいたし、頑張ろうと思う。それで、ちょっと結果が良くなったらまた頑張ろうと。落ち込む時は落ち込むけど、1日1日の野球を楽しんで、好きと思えたことが原動力になった」

塁上で自軍ベンチにガッツポーズを見せる林中【写真:荒川祐史】

 重荷になった過去の栄光も、時として支えになったことも事実だ。

「それが、大学で良い方向に転ばなかったことは確かだけど、でも、その経験があったからこそ、頑張れたのかもしれない。あの活躍をもう一度したい、あの歓声をもう一度聞きたい。一度経験して、あの時の感覚を味わいたいという思いがあったから、日々の練習も続けられたんじゃないか」

「あの時」のことは、今でもよく覚えている。敦賀気比の2年春、「3番・遊撃」のレギュラーでセンバツ出場。1年先輩のエース・平沼翔太(現日本ハム)らとともに快進撃を演じ、決勝では東海大四(北海道)を3-1で破り、春夏通じて初優勝を飾った。

 当時の一番記憶に残っているシーンを聞くと、2回戦の仙台育英(宮城)戦を挙げた。

「1、2回戦の途中まで3つくらいエラーをして、バッティングも全く打てなくて活躍ができず。でも、5回2死二、三塁だったかな。投手は佐藤世那さん(元オリックス)、捕手は郡司裕也さん(現中日)、ショートは平沢大河さん(現ロッテ)というすごいメンバーの集まりで。

 そういう状況で、ライト前に先制タイムリーを打ったことを一番覚えている。打った球はすごい球すぎてよく覚えてないけど、ライトに抜けていく光景はよく覚えている(笑)。それでベンチに帰ったら、先輩たちにヘルメットをべしべし叩いて迎えてくれて……」

 話していると、自然と口調が明るくなった。そんな記憶に支えられ、4年間続けたから、成長できたことがあった。

 どんなに苦しくても、欠かさず続けたのは「人を観察すること」。小さい頃から自分より打つ選手、守る選手の動きを観察し、なぜ打てるのか守れるのか、あるいは彼らが不振になったら、なぜ不振になったのかをつぶさに見て、自分の成長の糧にしてきた。

 それを自分のためではなく、仲間のために使おうと思った。ある時、溝口智成監督に怒られ、その中で言われた。「『自分-野球=ゼロ』になるんじゃない」と。「自分から野球を取ったら、何もなくなるような人間になるな」と諭された。

「自分はまさに野球を取ったら何もなくなる人間だった。自分が野球で活躍できたら、試合に出られたらそれでいいと思っていた。でも、監督に『お前は何が残るんだ』と言われ、確かに考えてみたら何も残らないと気づいて。その時にじゃあ、どうしようと考えた。

 思ったのは、自分が続けてきた観察を生かせばいいんじゃないかと。今まで自分のためだけに使っていたもの、しかも甲子園、高校日本代表というちょっと上のレベルも見てきたので、悩んでいる選手がいたら、ちょっとでも活躍できるようにアドバイスしてあげたいと思った」

 Bチームにいても学年関係なく、惜しみなく助言を送った。そして、それを最後に体現したのが1人の後輩のためだった。

 迎えた最終学年は、新型コロナウイルス感染拡大により、チームは春に解散。京都の実家に戻ったが、近くに練習相手が不在で、バットは振ることはできてもキャッチボールができず、ボールを3か月まともに投げることができなかった。

 実家に高齢者がいるなどの理由で寮に残った選手、実家に戻っても近くに練習相手がいた選手とのブランクの差は大きく、活動再開後に結果を残せずにBチーム行き。8月に行われた春のリーグ戦はベンチ入りすらできず、終了後にようやくAチームに戻った。

 そして、始まった秋のリーグ戦でスランプに陥っていたのが、2年生スラッガーの山田健太内野手だった。

 開幕カードから本来のポテンシャルを発揮できない後輩を見かね、リーグ戦の途中から2人で練習を始めた。

「アイツのレベルからすると、考えられないくらい調子が悪かった。そんな姿を見て、一緒に練習をしようと。ほとんど自分がバッティングピッチャーで、自分が試合に出たいというより『山田健太を復活させよう』という気持ちが最初は強かった」

 ボールを投げながら「どう思う?」と山田に聞かれたことは気づく限り、すべて答えた。そして、山田が打った後で「ちょくちょく自分も打っていた」という。そのタイミングで逆に「上半身に力を入れるな。下半身の力で、回転で打った方がいい」とアドバイスをもらった。

 他人のためを思えば、自分に返ってくる。すると「そこから、自分もだいぶ調子が良くなった」という。そして、復調気配で迎えた山田も最終カードの法大戦2試合で3安打2打点。支え合った2人で最高の結果を出すことができた。

「自分が打てたこともうれしかったし、打った後でベンチに帰ると、山田がこっちを見てにやーっと笑っていて、うれしそうな顔をしてくれた。自分もその逆で、山田が打っている姿を見ていたら本当にうれしかった」

 4年間の成長を示すようにして挑んだ学生最後の神宮の舞台。実は、冒頭で語った「結果を出してやろうというより、思い切ってやろう」と吹っ切って打席に入れたのは、一つの理由があった。

「もう、野球人生の最後なので。楽しんで野球をしたいと思った」

 林中にとって、この法大戦2試合で野球引退を決めていた。

林中と練習した山田は法大戦2試合で3安打2打点と活躍【写真:荒川祐史】

 社会人野球の練習会に参加はしていたが、なかなか声がかからず。今年3月、就職活動が始まるタイミングで大学で野球を辞めようと決意。不動産会社に内定し、住宅営業の職に就くことになった。「もう15年間かあ……」と栄光も挫折も味わった野球人生を振り返る。

「結果、楽しかったです。細かいところを見たらつらかったこともあるけど、楽しかったことも、笑っていたことも思い出されるので。小学校の時から始め、中学から高校、大学の今に至るまで、あんなにキツイ練習をよく耐えたなと今になっては思う」

 そして、社会人としての決意を問うと「謙虚に生きたい」と口を突いた。

「大きな舞台をたくさん経験できたことは本当に幸せだけど、野球はもうひと区切り。社会人として新たに歩んでいくので、そんなことを自慢するような時間があれば、自分を磨くために頑張った方がいい。

 野球人生も長かったと思うけど、たかが15年間。ここからの人生の方が、もっと長いじゃないですか。その長い人生を良くするためには謙虚に、自分が上を目指すために努力し続けないといけないなと」

 それでも、一つだけ聞いておきたかった。甲子園優勝を経験し、高校日本代表のメンバーだった早大・早川隆久、明大・入江大生らは来年からプロ入り。チームメートも社会人野球で続けるメンバーはいる。林中自身も“その先”を夢見て、立大にやってきた。

 大学で野球を辞めることに後悔はないか。

 返ってきた言葉が印象的だった。「法政の最終カードがなかったら、だいぶ後悔していたと思います」と本音を明かした。

「2試合だけだけど、スタメンで出られたことが今まで諦めず、練習してきて良かったという気持ちにさせてくれた。あれがなかったら立教に来なければ……と思っていたかもしれない。あの2試合があったから、野球を辞めることに対して『続けたかった』とか、そういう未練もない」

 そう言った後で「向上心がないと言われるかもしれないけど、もう野球はやり切ったと思えるので」と晴れやかな表情で言葉を残した。

 東京六大学は夢をつなぐ場所でもあれば、夢と別れる場所でもある。しかし、同時に4年間で次なる希望が芽吹いたことも、また事実。甲子園優勝、高校日本代表という肩書きを降ろし、林中勇輝という1人の人間として新たな人生を歩み始める。


<Full-Count 神原英彰>