ランコ・ポポヴィッチは2009年の大分トリニータを皮切りに、町田ゼルビア(2011)、FC東京(2012-13)、セレ…
ランコ・ポポヴィッチは2009年の大分トリニータを皮切りに、町田ゼルビア(2011)、FC東京(2012-13)、セレッソ大阪(2014)と続けてJクラブで指揮を執り、離日後はリーガの名門レアル・サラゴサからのオファーを受けて、ハビエル・アギーレ以来のスペイン国籍を持たない監督としてその任に就いた。

町田ゼルビアのランコ・ポポヴィッチ監督
photo by Aflo sports
サラゴサにおけるここ10年で最高の成績(プレーオフ進出)を収めたあとは、タイ、インド、オーストリアのクラブを経て、今年再び9年ぶりに町田で采配を振るうことになった。
「どんな巡り合わせなのか、私が町田と結ばれるときは痛ましい大きな災難に苦しめられる」。2011年は東日本大震災、今年は新型コロナウイルスがサッカー界にも大きな影響を及ぼした。
Jリーグは2月の開幕戦こそ行なわれたものの、それ以降、延期が決まり、4月7日には練習の中止も決定した。なかなか出口の見えない中、ポポヴィッチはこんな言葉で選手に檄を飛ばした。
「我々は町田というチームのことだけではなく、他に与える影響も考えて模範を見せよう。サッカー選手は他者に勇気やエネルギーを与えることのできる存在だ。チームの中でも自分の役割があるように、社会の中でも同様の役割を自覚しよう。立ち振る舞いでメッセージを送るのだ。コロナに感染された人、命を落とされた人もいる中で、リーグが再開したら一緒に戦っているというのを発信していこうじゃないか」
未曾有のパンデミックに選手たちも不安であることは同様だった。「特に子どものいる選手は強い緊張感の中にいた」
チームの唐井直GMはリーグ戦の再開を7月4日と睨(にら)み、そこから逆算してコンディションを整えるのに7週間のトレーニングが必要と判断していた。幸運であったのは、ゼルビアのチームドクターが、町田医師会の重鎮、五十子桂祐(町田病院院長)であったことだった。
救急医学会の専門医である五十子には、スポーツ整形だけではない広範な医療知識と行政からの信頼があった。市役所に掛け合い、ドライブスルー方式の検査センターを開設させ、Jクラブで最も速くPCRと抗体検査を実施させたのである。その結果を受け、ポポヴィッチは5月18日には接触プレーなしの二部練習を始めた。
6月27日にJ2、7月4日にJ1が再開した。大会方式や順位方式の変更のみならず入場数、座席移動、応援も制限を余儀なくされている。チャントやコールなどの声をあげることは現在できない。
この日の試合もそうであった。10月11日、町田対ツエーゲン金沢。記者は問診票の提出を求められ、定められた席での取材となる。サポーターの繰り出す声はなく、拍手による応援がGIONスタジアムにこだまする。ミックスゾーンでの対応と監督会見はリモートインタビューで行なわれる。
各国のリーグ事情に精通するポポヴィッチはJリーグの現在の状況をどのように見ているのか。母国セルビアは世界でコロナに関して最も厳しい社会的な制限を敷いた国とも言われている。
「確かにセルビアは政府が世界で最も早く厳しい決断を敷きました。ロックダウン後は、市民は夜の5時から明朝の5時まで完全に外出が禁止され、65歳以上に関しては24時間外に出てはダメでした。いずれも罰則規定が伴うものです。この制限はセルビアらしくないと思いました。セルビア人のメンタルは非常に楽観的でスペインやイタリアに似ているからです。
一方でセルビア人は、任意の非常事態宣言だけでは遵守しないのは目に見えていたから、守らせるために罰を伴う必要がありました。制限を徐々に緩和して、やがて高齢者は他者との接触を避けるために朝の4時から7時だけは外に出てOKとなり、やがてその結果、被害を最小限に食い止めたと言えます。セルビアは感染者も死亡者も少なかった」
―― セルビアのサッカー界はどういう対応をしたのでしょうか。
「ロックダウンに伴って即座にリーグを中止しました。長いユーゴスラビアリーグの歴史から見ても初めてのことです。この措置も迅速で、各クラブも活動を休止しました。いつも文句ばかり言っているセルビア人にとっては珍しいことです(笑)。
ただ、再開と同時にいきなり観客を3万人も入れてしまった。これは拙速だったと思います。再度、制限しようとしたときに暴動が起きてしまったのもいきなり緩めてしまったことからの反動ではないかと思うのです」
―― 実際に最初はセルビアの人々があのような強権を受け入れたことには驚きがありました。他国のリーグにおけるコロナ対策についてはどう見ていますか。
「各国のメンタリティが出たとも言えます。私の家族は今、私が監督をした4つの国でそれぞれ生活をしています。妻がスペインのサラゴサ、長女がオーストリアのグラーツ、次女がセルビアのベオグラード、そして私が町田。当然、情報も入って来るし、現地の関係者とは意見も交換しています。
スペインは残念なことに当初コロナに対して軽く見ていたのではないかと思われます。感染が広がって、リーガは活動停止になりましたが、再開したあとの日程の組み方も良くなかった。結果的にコロナの影響で昇格争いのチーム、残留争いのチームが大きな影響を受けてしまったのです。
1部昇格を狙っていたフエンラブラダから28名の陽性反応が出たことで、2部残留をかけていたデポルティボ・ラ・コルーニャとの最終戦が延期になってしまった。延期はこの試合だけで、他は日程通りだったために残留を争っていたバロンピエとルーゴが勝利したことでラ・コルーニャは戦う前に降格が決まってしまった。
また上位6位のチームも8月7日のフエンラブラダの試合結果を待つことでコンディション調整に苦労した。さらにプレーオフ開催が8月に延びたために私の古巣のサラゴサも大きな影響を受けた。エースのルイス・スアレスの契約が切れてレンタル元のワトフォードに返さなくなくてはならなくなったのです。レギュラーシーズンとは格段に落ちる戦力になるという事態で、公正性の面からもリーガのハンドリングは良くなかったと思います」
―― 柴崎岳選手がいたラ・コルーニャと香川真司選手がいたサラゴサ。くしくも日本人選手の所属するクラブです。リーガの対応は今も論争の的になっていますね。オーストリアについてはどうでしょうか。
「オーストリア・ブンデスリーガは厳格でした。スペインとは対照的に1部リーグ、2部リーグは無観客で行ないすべての日程を終了させました。3部リーグは再開しなかった。几帳面で理詰めで進めるドイツ的なメンタリティですね。
これらと比べてもJリーグの対応は正しかったと思います。これだけ大きな国でプロサッカーを運営しながら、他国と比べて感染者が出ていない。町田ゼルビアはPCR検査を真っ先に行ない、プロフェッショナルとしての対応をしてくれました。我々のドクター陣にも感謝しています」
―― 選手の健康と人権を守るべき立場にある監督として何に注意していましたか。
「選手に対して一番いけないのは、全員をパニックに陥らせてしまうこと。そうなれば、そこから抜けるのも難しい。医療従事者に従うことと、我々クラブとして市役所やドクターたちとの連携も必要です。陽性反応が出た選手もいたけれども、一人だけで他に感染者は出ていない。そういう点は評価されても良いのではないでしょうか」
―― セルビア人であるテニスプレーヤーのノバク・ジョコビッチが旧ユーゴスラビアの諸国を回るチャリティの大会=アドリアツアーを敢行しました。ベオグラード(セルビア)、ザダル(クロアチア)、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)、ブドバ(モンテネグロ)、リュブリヤナ(スロベニア)と大会を開いて収益を医療関係に寄付しようというものです。しかし、6月13、14日のベオ、20、21日のザダルで残念ながら感染者を出してしまい、自身にも陽性反応が出て大会の打ち切りを余儀なくされました。
「彼がやろうとしたことはよくわかります。ただ、それに対する知識、オーガナイズの仕方がよくなかったのです。ノバクがやろうとしたのは、決して恵まれた国でなくてもコロナに打ち勝てるということを証明して励ましたかった。そして戦争で解体されてバラバラになった旧ユーゴ諸国の融和と団結を、テニスを通じて計りたかったのです。彼の周りの識者やアドバイスをした人も無理解だったことが残念です。
あのチャリティツアーを批判する人は多い。アメリカのメディアもそうです。しかし客観的に見てもノバクがチャリティのアドリアツアーで得るものは少ない。彼はそれでもやろうとした。観光を大きな収入源にしているモンテネグロ、クロアチアはあの大会でアピールをしようとしました。EU(欧州連合)が当時機能していなかった時期に旧ユーゴスラビアの諸国があらためて連帯感を持って立ち上がろうとしたのです。
ノバクは自分の国のことだけを考えてはいなかったのです。結果的に感染者を出したことでの非はもちろんあり、叩かれましたが、彼の姿勢は理解する必要があります。ノバクはアタランタの病院に100 万ユーロは寄付しています。匿名でしたのですが、ドクターが言ったことでわかりました。こういう時期でこそ、アスリートは何ができるのかを考えることが必要です。香川もサラゴサで大きな寄付をしたと聞いています」
確かにジョコビッチは、2014年春にバルカン半島を襲った100年に1度という巨大な洪水災害の際にも「今こそかつてユーゴスラビア人として生きてきた時代を思い出して皆が手を取り合うべきだ」と声を上げ、自らセルビアのみならずボスニアやクロアチアにも義援金(約1億1千万円)を寄付し、世界に向けても支援を訴えた。これによって各国の市民から大きな支持を得て、1990年代の紛争以降、政治家に出来なかった民族融和を成し得たと評価された。コロナ禍においても同様の意志でアクションを起こしたという。ポポヴィッチは最後に言った。
「叩くことは簡単で実際に結果責任はありますが、ただ災害時にノバクのアクションから私たちアスリートが感じることは少なくないのです」