東京六大学野球のマネージャーという仕事は、人を育てる。  例えば、明大野球部でチーフマネージャーを務める太田空主務(4年)の場合--。  選手と同じ東京・府中の「島岡寮」に住み込み、平日は朝6時半に起床。チーム全体で行う寮の掃除をこな…

 東京六大学野球のマネージャーという仕事は、人を育てる。

 例えば、明大野球部でチーフマネージャーを務める太田空主務(4年)の場合--。

 選手と同じ東京・府中の「島岡寮」に住み込み、平日は朝6時半に起床。チーム全体で行う寮の掃除をこなし、朝食を取ると、練習準備するチームと分かれ、マネージャー事務室に入る。そこからメール確認、書類作成、電話対応。練習中に来客があれば、マネージャーが応対する。

「メールは例えば、取材申請だったり、ファンの方からの問い合わせだったり。最近なら『オープン戦のこの試合は無観客ですか?』というものも一つ一つ、返信します。あとは連盟からのメール。部に関わることが多いので、特に見落とさないように気をつけています」

 100年近い歴史と伝統の分だけ、野球部に関わる人は多い。「来客」は記者、スカウトから野球部OB、用具メーカーまで様々。必要があれば、帰りは東府中、武蔵小金井などの最寄駅まで野球部車で送っていくこともある。

 1日の練習が終われば、多少は時間ができるが、夕食を取ったら翌日の準備に追われ、消灯時間の午後11時近くまで事務室にこもっていることもざら。もちろん、本分は学生。複数いるマネージャーでシフト制を敷き、学業と両立しているが、多忙であることには変わりない。

 部員は120人。ちょっとした企業と同じような規模の組織を学生主体で動かすのは、責任も大きい。運営費の面もそう。「普通の学生では扱うことがないような金額の管理を任され、請求書の扱いも常にミスがないように心がけています」と、社会人さながらに言う。

「『マネージャー』というと高校野球を一般にイメージされがちだと思いますが、大学野球の主務は渉外業務が多いです。携帯電話はいつでも鳴るし、様々な企業、野球関係者と、野球部の間に入って仕事をさせてもらい、大変ですが、その分、やりがいもあります」

事務室ではメール確認など多岐に渡る業務をこなす【写真:明治大学野球部提供】

 東京六大学に興味を持ったのは、中学生の時だった。明大付属の明大中野中・高(東京)出身。学校行事で観戦した試合で驚いた。マウンドで山崎福也(現オリックス)が投げる試合を応援席から見た。「学生野球って、こんなに盛り上がるんだ」--。

 小学1年から白球を追いかけた野球少年。中・高も野球部に所属したが、体が小さく、怪我がちだった。「もともと、そんなに野球は上手くなかったので」。高2でマネージャーに転向。選手としての道は諦めたが、慶大で投手としてリーグ戦登板経験もある2歳上の兄・力さんに言われた。

「もし、大学でも野球に関わりたいなら、マネージャーという道もあるぞ」

 そんな言葉に後押しされ、内部進学した明大でもマネージャーを続けようと決めた。ただ、東京六大学のくくりではなく、全国でもトップクラスの名門校である明大野球部。「マネージャー業も想像していたものと違う世界だった」というのが、本音だった。

 1年生は掃除からマネージャー事務室の掃除から始まり、雑用がメイン。「リーグ戦の運営に中心になって関われる」と思い描いていたが、実際は上級生が主体。試合中は部のホームページで1試合1枚掲載するプレー写真を撮影するため、スタンドでカメラを構えていた。

「それでも、先輩方の仕事を見て、自分も上級生になったらこういう風にやらなきゃと学びながら過ごす日々でした」

 転機が訪れたのは、3年生の新チーム発足のタイミング。善波達也監督(当時)に食事に誘われ、その席で言われた。

「お前、主務できるか」。主務とは、本来なら最上級生の4年生が務めるチーフマネージャーの仕事。しかし、その代に男子マネージャーがおらず、3年生に白羽の矢が立った。

 1つ上の代が抜けていることは入学時代から分かっていた。先輩たちには「お前でやれるようにしておけよ」と言われ、心の準備はできていた。だから、指揮官の問いに迷わず出した答えは「はい、頑張ります」だった。

昨年は3年生で主務を務め、森下主将(左)ら4年生と日本一を達成【写真:明治大学野球部提供】

 ただ、言うは易く行うは難し。

 3年生ながら、エースで主将の森下暢仁(現広島)ら4年生が主体であるチームの運営に責任を持つ。時には先輩に対して意見、注意をしなければならない。「最初は言わなければいけないことも物おじしてしまい、無駄な気遣いばかりしてしまって……」

 そんな状態で迎えようとしていた4月の春季リーグ開幕直前。グラウンドでの練習中だった。善波監督に言われた。

「お前がそんなんじゃチームがまとまらない。お前がもっと前に立って言わないと、主務としての立場がなくなるぞ。自分の立場をもっと考えろ」

 就任当初は「物おじせずにどんどん言っていきます!」と宣言していたにもかかわらず、言ったことができていないことを指摘された。弱さを見透かされた思いだった。「監督に一喝されて、自分が変わらないといけないと、はっとしました」

 自分の弱さが、チームの弱さにつながる。改めて、主務という肩書きを自覚し、思っていることは口にした。ただ、やみくもに行動するだけでなく、「4年生同士の方が浸透しやすいこともある」と、内容によっては学生コーチの4年生を通じて伝えてもらうなど、工夫した。

 そして、戦った春季リーグ戦。主にチーフマネージャーが入る試合のベンチに初めて加わった。選手と戦い、ともに喜び、ともに悔しがり、声を張り上げた。チームは5季ぶりに優勝。さらに、全日本大学選手権で38年ぶりに日本一を達成した。

 大学選手権はベンチではなく、大会運営スタッフとして奔走したが、忘れられないのは表彰式の後。ベンチで善波監督のそばにいると、ふと言われた。「いつも、ありがとうな」。褒められるより、怒られることが多かった指揮官の言葉がうれしかった。

「達成感というか、やってきて良かったなと……。報われた気がしました」

 昨季限りで善波監督は退任。田中武宏コーチが昇格し、新体制となったが、2年連続で主務を務めている。特に、今年は新型コロナウイルスが蔓延し、集団生活が基本の学生スポーツも集団感染の危機が付きまとうが、ここまで感染者を出さず、秋のリーグ戦を戦っている。

「うちは120人の部員全員が寮生活。密が生まれやすいけど、不要不急の外出自粛はもちろん、どういう対策があるのか自分なりにネットで調べて、食堂は感染症対策でパーテーションを敷いたり、いろんな場所に消毒液を配置したりして工夫してきたつもりです」

最後の秋、チーム一丸で優勝を目指して戦っている【写真:荒川祐史】

 東京六大学野球で過ごした4年間。青春時代を神宮で戦うために捧げた日々で何を手にしたのか。

 1つ上の先輩がいない分、本来は上級生がやるような仕事も下級生の頃からたくさん振ってきたが「いろんな経験ができる分、成長につながる」とプラスに変えた。そんな六大学のマネージャーという仕事に求められることを聞くと、善波監督に教わった言葉を挙げた。

「心で考えて、心で行動しろ」

 例えば、お客さんが来た時は「自分がやられてうれしいことをやりなさい」「明治のグラウンドに来て良かったと思ってもらえる対応をしなさい」と指導された。その教えが最も心に響き、今もマネージャーをする上で大切にしているという。

「社会人の方と同じような経験を大学生から積ませてもらったと思います。心がけているのは、何か部外の方に協力をしていただいた際にお礼の電話やメールも入れること。最初は疎かになっていることもありましたが、今はもう癖として身についたことは社会に出る上で大きいと思います」

 全国から甲子園経験者の球児が揃い、将来はプロ野球を目指すのが珍しくない環境。そんな意識の高い集団だから得られたことも多い。作新学院(栃木)で甲子園優勝し、同級生のドラフト1位候補のエース・入江大生(4年)を見ていると思う。

「ああいう注目される選手でも日々の努力を怠らない。練習の後もピッチングだけじゃなく、走り込み、ウエイトで追い込んでいる。夜な夜なバッティングもやっている姿を見ると『ああ、野球が好きなんだな』って、すごく刺激をもらっています」

 6校のマネージャーが力を合わせる試合運営の経験もそう。早慶戦になれば3万人が入る、一つの大きなスポーツイベントを連盟、球場と協力し、学生たちが主体となって、通常は年間およそ70試合が開催される。

「もうすぐ100年になる伝統あるリーグ戦を学生主体で運営できるのは重責もありますが、光栄なこと。6校のマネージャーで行うことで、それぞれの学校で学んできたことを互いに吸収できるし、成長できる。それが、六大学のマネージャーの一番の魅力だと思います」

 その一つ一つが、歴史と伝統のある東京六大学だから得られた、かけがえのない財産だ。卒業後は大手芸能事務所に内定しており、同じ「マネージャー」として経験を生かし、人を支える仕事を続けるという。

 六大学に憧れ、六大学に育てられた太田主務。

「善波監督から教わった『心で考えて、心で行動する』は将来に生かせると思うし、ずっと忘れてはいけないこと。まずは秋の残り3カード、6連勝して優勝することはもちろん、部員たちが『このチームで良かった』と思えるチーム作りをして、後悔しないように卒業したいと思います」


<Full-Count 神原英彰>