川口能活インタビュー@前編 コロナ禍の影響もあって、ようやく実現した今年初となる日本代表の活動は、史上初のオール海外組で…

川口能活インタビュー@前編

 コロナ禍の影響もあって、ようやく実現した今年初となる日本代表の活動は、史上初のオール海外組で構成されることになった。つくづく、すごい時代になった。フィールドプレーヤーもさることながら、3名が選ばれたGKも、それぞれ欧州を主戦場にしている。

 かつては、ポジションがひとつしかないGKにとって、欧州への挑戦権を手にすることすら容易ではなかった。その舞台にかれこれ20年も前に挑んだのが、日本代表として4度のワールドカップにメンバー入りした川口能活だった。



2001年にポーツマスへ移籍した時の川口能活

 2018年に現役を引退し、今は東京五輪に臨む日本代表のGKコーチを務めている彼に、当時の挑戦について振り返ってもらった。欧州では代えがたい経験も得れば、多くの悔しさも味わったことだろう。きっと、指導者になった今だから話せることもあれば、活きていることもあるはずだ。

「チャレンジしたい。とにかく、その思いが強かったですね」

 川口が横浜F・マリノスから当時イングランド2部リーグ(現チャンピオンシップ)のポーツマスへ移籍したのは、翌年に日韓W杯を控えた2001年10月だった。

「当時を振り返れば......ですけど、自信があったんでしょうね。幸運にも自分は(プロ2年目の)早い段階でJリーグデビューができて、代表では、(1996年に)アトランタ五輪に出場して、試合には勝てなかったですけど、(1998年には)W杯を20代前半で経験することができた。

 自分で言うのもあれですけど、順風満帆なキャリアを歩んでいく中で、『(海外でも)やれるんじゃないか』という自信があったのは事実です。フィールドプレーヤーとは異なり、ポジションはひとつしかないですけど、そこは考え出したらキリがなかったというか。だから、そこを深く考えるよりも、とにかく自分が成長するために、世界の舞台に飛び込みたいという気持ちのほうが強かったんです」

 日本代表のユニフォームをまとい世界の強豪と戦うようになったことで、欧州でのプレーを夢見るようになっていった。いつか訪れるその日のために、語学の勉強も始めていた。

「ただ、当たり前ですけど、今ほど情報というものがなかったんです。だから、移籍のタイミングや、行く先のチームの状況を知る機会や手段がなかった」

 川口がイングランドに降り立ったときには、すでに新シーズンは開幕していた。「今思えば、大ギャンブルですよね」と、本人は振り返る。

「キャンプも一緒にできないわけですから、非常に難しい状況ですよね。いくら代表やJリーグでの実績があったとはいえ、すでに公式戦が始まっているので、自分が合流した時点でレギュラーではないわけですから。ただ、そこはシーズン途中に行っても、レギュラーを奪えるだろうという気持ちで行動に移したのは事実です」

 当時の川口が抱いていた「自信」が示すように、すぐにピッチに立つことはできた。記録をさかのぼれば、ポーツマスでのデビュー戦は11月3日のチャンピオンシップ第8節・対シェフィールド・ウェンズデイ戦。移籍からわずか2週間程度で、ゴールマウスを守ったことになる。ただ、そのまま正位置確保とはいかなかった。

 川口がまず戸惑ったのは、サッカーそのもののスタイルの違いだった。

「すでに代表でプレーしていて、いろいろな国のチームと対戦していたとはいえ、イングランドのスタイルは想像していたものとだいぶ違いました。当時のイングランドは、どちらかというとゴール前が戦いの場になる。それまで代表やJリーグだと、中盤の攻防が多く、ゴールと離れたところでの戦いが多かったんです。

 プレミアリーグであれば、また違ったのかもしれないですけど、下部リーグになればなるほどゴール前での戦いが多くなる。自分としてはゴール前にスペースがあるなかで勝負してきたGKだったので、そのスタイルの違いに戸惑ったことを覚えています」

 現役時代の川口といえば、GKながら積極的に飛び出し、広範囲をカバーするプレースタイルに定評があった。言ってしまえば、ゴール前にボールを放り込み、肉弾戦で勝負してくるイングランド2部リーグの環境は、川口の魅力を半減させるものだった。

「しかも、ゴール前でのバトルにおいてファウルを取られることが少なかったのも苦労したというか。あとはゴール前に選手が密集しているので、自分が出て行くスペースがなくなる。そのスペースがあるのとないのとでは、自分の戦い方も変わってくるので、アプローチを変えなければならなかったんです」

 また、言葉の壁も少なからずあった。ポーツマスには気さくなチームメイトが多く、家に招待してくれたり、食事に誘ってくれたりと、コミュニケーションは取れていたという。だが、日本とは異なる環境・文化だけに、生活していくうえでは当然ストレスもあった。

「イングランドは英語が話せて当たり前というところがあったので、監督やコーチが発する単語を聞き取って、自分のなかで整理して使い分けていきました。サッカー用語も多く、端的でわかりやすかったことは助かりましたね。

 たとえば当時、よく発した言葉で言えば、前を見ろという『ルックフォワード』。DFに対しては、『ライトショルダー』『レフトショルダー』という言葉で指示を出しました。要するにどちらの背後にいるかってことなんですよね。これはなるほどなって思いました。

 あとは、『クリア』という言葉はなくて、『アウェイ』と言っていたのも印象的でしたね。今でこそ、国内でもGKがキャッチする時には『キーパー』って叫びますけど、当時は『OK』とかだったので、日本でもさらにサッカー用語が増えたらいいですよね」

 余談になるが、2003年にデンマークのノアシェランに移籍した時にはコーチがデンマーク語で書かれた単語帳を用意してくれて、それを見て必死に覚えたという。そんな川口の脳裏に強烈なインパクトを残しているのが、練習の強度だった。

「ポーツマスは軍港の町なんですけど、加入した1年目は軍の施設内で練習していたんです。スタジアムの芝は最高だったんですけど、練習場はまるで田んぼのようにグチャグチャ。それでもチームメイトは変わらぬクオリティを練習でも試合でも見せていたことには驚きました。

 しかも、練習の最後に必ずミニゲームをするんですけど、その強度が本当に高かったんです。そこにフィジカルやテクニック、加えて判断力のすべてが凝縮されていた。やっぱり、練習で行なわれていることが、そのまま試合に出るというのを体現していたというか。

 当時の2部はリーグ戦が46試合。加えてカップ戦もあったので、今季のJリーグのように週2試合ペースで公式戦を戦っていたのですが、練習強度がずっと高いまま続いていたんです。日本にいた時も練習と試合で同じ意識を持って臨んでいたつもりでしたけど、それをさらに意識づけされました」

 ポーツマスでの1年目は、リーグ戦11試合の出場に終わった。ポジションを争っていたデイヴィッド・ビーサントは、ほかでもない当時の監督が自ら声をかけて連れてきた選手だった。

「経験も豊富で、イングランドのサッカーを熟知していたGKだったんですよね。僕は欧州でプレーしたいという一心で、そうした状況にあることを調べもせずに移籍してしまった。だからもし今、若いGKに言えることがあるとすれば、ポジションがひとつしかないからこそ、当時よりも情報が得られる時代だからこそ、きちんと調べてから決断してほしいなと思います。

 チャレンジする姿勢は持ち続けてほしい一方で、マネしてほしくはないという思いもあるんです(苦笑)。GKにとってシーズン途中の移籍はリスクが伴う、ということも覚悟してほしい。だから、行く先の状況、今いる状況を冷静に見極めて、自分にとって何がベストかを真剣に考えて判断してほしいと思います」

 その後、さらに多くの経験を積み、今や指導者になったから紡がれた言葉でもある。ただ、行かなければわからなかったこと、得られなかったこともある。

「行ったことで、サッカーのスタイルも含めて世界は広いんだな、と感じることはできましたよね。あと、何より当時、ビーサントは42歳。その年齢でポーツマスのレギュラーを務めて、若手と同じトレーニングをしていた。試合中も42歳とは思えない守備範囲の広さと躍動感あるプレーを見た時、GKはこの年までプレーできるんだなって思ったんです」

 川口が43歳まで現役を続けていた背景には、ポーツマス時代をともにしたベテランGKの面影があったのかもしれない。

「僕が海外に行く前から持っていた野心や自信といったパーソナリティに加えて、欧州で出会ったGKたちは、どこか常に余裕がありました。そこにいるだけで安心する包容力というか、雰囲気を感じた。

 自分がプレーで勝てなかったことには悔いが残りますけど、指導者になった今、彼らから吸収した雰囲気、たたずまい、そして人間性を知ることができたのは大きかったと思っています。だから、悔いも残っていますけど、やっぱり、行ってよかったなと思います」

 GKという、ある種特殊なポジションだけに、世界を知る指導者がいることは、技術を伝えるだけでなく、経験という側面においても、日本サッカー界にとって大きな財産になる。その空気を吸ったものでなければ、その雰囲気を知るものでなければ、伝えられないことはある。

(後編につづく)

【profile】
川口能活(かわぐち・よしかつ)
1975年8月15日生まれ、静岡県富士市出身。1994年、清水商高から横浜マリノス(現F・マリノス)に入団。2年目には正GKとなりJリーグ新人王を獲得する。1996年のアトランタ五輪では「マイアミの奇跡」の立役者となり、1997年から2008年まで国際Aマッチ116試合に出場。2001年からポーツマス→ノアシェランと海外に挑戦し、2005年にジュビロ磐田へ。その後、FC岐阜→SC相模原を経て2018年に引退。現在は東京五輪代表GKコーチを務める。