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第11回エドゥ(前編)>>後編を読む
ジーコは言う。
「我々兄弟の中で、一番サッカーをわかっているのはエドゥだ」
ジーコには兄弟が6人いる。そのうち姉を抜いた男全員がサッカー選手になった。ジーコは末っ子、そして今回の主役、エドゥ―エドゥアルド・アントゥネス・コインブラは上から4番目だ。彼は「ジーコの兄」と呼ばれ続けているが、彼自身、すばらしい選手であり、Jリーグでプレーしたことはないが、何より指導者として大きな足跡を日本に残している。

1994年から95年にかけて鹿島アントラーズの監督を務めたエドゥphoto by Yamazoe Toshio→キャプ
エドゥは少年時代から優れた選手だった。リオデジャネイロのアメリカで選手として成長し、16歳の時には、たった15日間で4つのカテゴリー(U-16、U-18、U-23、トップチーム)でプレーしたことで、ギネスブックに載ったこともある。1966年にトップチームに入ってからは8年間で400試合以上に出場し、200ゴール以上を決めている。
1967年にはブラジル代表入りも果たしているが、代表ではあまり運がなかった。彼は背番号10の選手だったが、同時代のブラジルにはペレ、リベリーノと、あまりも偉大な背番号10がいたからだ。巡り合わせもついていなかった。ブラジルが優勝した1970年にはぎりぎりのところで代表落ちをし(23人目の候補だった)、74年には大会直前にケガをしてしまった。しかし1969年には、ペレやトスタン、リベリーノなど、その半年後に世界を制するスターたちを抑えて南米最優秀選手に選ばれてもいる。
エドゥは10番でありながら、ストライカー以上に多くのゴールを決めた。また、ピッチでは常に紳士で、タサ・ディシプリーナ(ブラジルのフェアプレー賞)に2度も選ばれている。この賞を2度得たのはブラジルサッカー史上でもエドゥだけだ。ピッチで言い争いをしたことは一度もなく、記者に悪い態度をとったこともなかった。
エドゥの何よりの才能は、人の心をすぐにつかむことだった。サポーターとの関係はいつも最高、人を引き寄せる力を持っていた。長年プレーしたアメリカでは絶対的なスターであり、その後プレーしたヴァスコ・ダ・ガマでもチームのアイドルだった。
76年には1シーズンのみだがフラメンゴに在籍し、弟のジーコとともに戦った。その時のことを思い出し、ジーコはこう語っている。
「私の兄はサッカーのことをよくわかっている。プレーだけでない。ロッカールームでの振る舞い方、監督やサポーターやメディアとの付き合い方、サッカーのすべての面において完璧だ」
そんな完璧なプレーヤーだったエドゥが81年に引退してその後、監督となったのは、なるべくしてなったという感がある。
引退してから3カ月後、エドゥはまず彼の心のチームであるアメリカの監督に就任した。ここで手腕を見せたエドゥは、その1年後にブラジル代表監督の候補に挙がる。82年、CBF(ブラジルサッカー連盟)は、ためしに3試合だけ彼に指揮を任せ、その結果、82年W杯の後から84年まで、セレソンを率いることになった。その後、古巣のヴァスコ・ダ・ガマの監督を引き受け、チームをリオ州チャンピオンに導き、イラク代表監督なども務めている。
他にもさまざまなチームを率いてきたエドゥだが、特筆すべきは87年に率いたコリチーバだろう。この時、チームにはひとりの日本人選手がいた。名前を三浦知良という。はじめてカズのプレーを見た時、彼はすぐにこの若者が世界に名を馳せるような選手、日本サッカーを牽引するような選手になると看破したという。
「だから私は彼に、自分が教えられるだけのことを教えようと思った。テクニック、創造性、そして何よりピッチで自信を持つことだ。彼のサッカー人生に何らかの影響を与えることができたのではないかと思う」
エドゥは、ブラジル時代のカズが正当に評価されていないことを、常々不満に思っていると言う。
「多くの日本人は、ブラジル時代のカズが、それほど知名度がなかったと勘違いしている。私はその誤りを訂正したい。彼はコリチーバの主力選手であり、私と一緒にチャンピオンにもなっている。ほとんどすべての試合に出場し、優秀で真面目な彼を、私はとても頼りにしていた。
当時は今のようにインターネットや通信が発達していなかったから、こうした情報が伝わりづらかったのかもしれない。州リーグ決勝で、カズが後半に出場し、ゲームの中心となり優勝を確実にした2ゴール目を挙げたのを忘れられない。彼はボールを決して離さず、相手のPKを誘い、彼自身がそのPKを決めたのだ」
カズがCKで直接ゴールを決めることに長けていたのを見て、エドゥはその点も伸ばそうとしたという。
「何カ月もかけて最も危険なコーナーを蹴る方法を彼に教えた。彼は聡明で貪欲だったので、学んだことを自分の中でより磨きをかけた。彼がゴールを決めるたびに、その中に自分の教えも息づいていることを感じて、大きな喜びを感じる。カズというすばらしい選手を作り上げる手伝いができたことに、大きな満足を感じている」
94年、エドゥは鹿島アントラーズでプレーしていたジーコに呼ばれ、まずはテクニカルコーチに、その後監督に就任した。その後アントラーズのサッカースクールなど若手のコーチをした後、2002年にジーコが日本代表監督に就任すると、彼はサブコーチに就任。2006年には念願だったW杯にも出場した。以後はジーコの傍らにエドゥの姿があり、トルコのフェネルバフチェ、ウズベキスタンのブニョドコル、ロシアのCSKAモスクワ、ギリシアのオリンピアコス、そしてイラク代表でもサブコーチを務めた。
今回、私はこの記事を書くにあたって、旧知のエドゥに電話をかけた。彼の日本への想いはとても強く、かの地でおこった様々なエピソードを語ってくれた。そこには日本サッカーの成長を支えてきた彼の姿があった。日本の皆さんにもぜひ知ってもらいたい物語だ。
「日本行へ行くことは私の選択ではなく、日本が私を選んでくれたのだと思っている。ある時、弟は言った。『レベルの高いトレーニングができる信頼できるプロの指導者がアントラーズには必要だ』と。当時のアントラーズには、ジーコはもちろん、すでにカルロス・アルベルトやアルシンドもいたが、チームは今ひとつ飛躍できないでいた。
監督の宮本(征勝)さんは親しみやすく、優秀な監督だったが、アントラーズがあるべきポジションにチームを持っていくことができてはいなかった。この頃のJリーグに必要だったのは、若い日本人選手のテクニックを伸ばし、ハイレベルなプレーができるグループを作れる監督だった。
そこでジーコは鹿島の幹部に私の名を告げ、アントラーズは最終的に私を選んでくれた。私には彼らが求めていた指導者としてのスキル、経験、人間性があり、鹿島の監督にふさわしいと判断したのだろう。
アントラーズは私の人生の中でも最も誇れるチームのひとつだ。この栄光あるチームの最初の外国人監督であったことを名誉に思う。当時、日本はプロサッカーの黎明期で、正直、苦労することはいろいろあった。しかし、それも今のアントラーズを見れば報われる。人々の努力もあって、あの頃の苦労はきちんと実を結んだ。アントラーズは日本で、アジアでトップのチームとなった。そのうちの何パーセントかで私が貢献していると思えるのはうれしいことだ。
当時にタイムスリップしたとしても、私はもう一度日本行きを選ぶだろう。
ブラジルから向かった日本はちょうど大雪に見舞われて、私は成田ではなく札幌に降り立ってしまった。私にとっては大雪も日本もすべて初めての経験で、それはこれから私の前にはだかる、これまでないような現実を象徴しているような錯覚に陥った。私は途方に暮れていた。結局、その日は空港の小さなスペースで眠らねばならなかった。翌日私は札幌から名古屋に飛んだ。依然として成田は閉鎖されていたからだ。
私の日本での最高の思い出は、日本代表のテクニカルアドバイザーとして、アジアカップを制覇した時だ。兄弟ふたりで力を合わせて手に入れたものでもあった。決勝の相手の中国は強かったが、我々は彼らのホームで勝利を手に入れた。スタジアムは中国人のサポーターでいっぱいだったが、日本の選手たちはそんなアウェーの空気をものともせず、美しく、見ていて楽しいサッカーをしてくれた。日本サッカーの歴史に残る勝利にかかわることができたことを嬉しく思っている。
そして最も忘れ難い思い出は、弟ジーコの引退試合だ。彼の長い選手人生に思いを馳せ、胸がいっぱいになった。この日、私はアントラーズの監督に就いたことを、日本のサッカーにかかわれたことを心から誇りに思った。アントラーズのサポーターも、対戦相手のジュビロ磐田のサポーターも本当にすばらしかった。満員のスタジアムで鹿島は2-0で勝利した。そのうちの1ゴールはジーコ自身が決めたものだ。
私は終了10分前にジーコを下げたが、その後に繰り広げられた光景を私は生涯忘れないだろう。そこにいるすべての人が、相手チームのサポーターも含め、全員が立ち上がりジーコに拍手を送ったのだ。引退試合ではない、リーグ公式戦であったにもかかわらず、だ。
タイムアップの笛が鳴ったあと、ジュビロのサポーターたちも帰ることなくそこに留まり、拍手を続けた。もう一度ジーコが見たいというアンコールだった。弟はそれを理解し、一度脱いだシューズを履き、ユニホームを着てピッチに姿を現した。拍手が一段と大きくなり、歓声が起こった。ジーコはゆっくりとスタジアムを一周した。私は弟がどれほど日本の人々に愛されているのか、弟がどれだけのものをこの国のサッカーに与えてきたのかを目の当たりにし、本当に胸が熱くなった。これほど感動的な光景を見たことがなかった。
最低だった時のことも話さなくてはいけないだろう。それは私が心筋梗塞を起こした時だ。三重県に『エドゥサッカーセンター』があった時代のことで、私は名古屋の空港に向かっていた。その日はとても寒かったので、私は体を温めようと少々酒を飲んだのだが、その時、とても強い痛みを胸に感じだ。なんて強い酒なんだと思ったが、酒のせいではなかった。
そのまま空港ではなく病院に行くと、医者に『数日間入院する必要があります。あなたは今心筋梗塞を起こしつつあります』と言われた。心臓が悪いのは家系で、私はすでに長兄アンツネスをこの病気で亡くしている。このまま死にたくないと、私は強く思った。
私の心臓の手術をしてくれたドクターには心から感謝している。感謝なんてものではない、彼は文字通り私の命の恩人だ。ブラジルに帰ってからも、彼は私に花を贈ってくれた。そこにはいつもカードも添えられ、私の体調を気にしてくれている言葉が書かれていた」
(つづく)
エドゥ
本名エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ。1947年2月5日生まれ。アメリカでプロになると、ヴァスコ・ダ・ガマ、フラメンゴなどでプレー。ブラジル代表に選ばれたことも。1981年に現役を引退すると指導者の道へ。ブラジル代表監督などを務めた後、1994年、鹿島アントラーズ監督に就任。その後も日本で指導・育成活動を続け、ジーコジャパンでは日本代表のテクニカルアドバイザーを務めた。