水原勇気、「野球狂の唄」。NPB初の女子プロ野球選手を主人公にした漫画のチームではない。紆余曲折を経て立ち上がった、現実のチーム。クラブチーム界での異端児、TOKYO METSに初めて足を運んでみた。■かつてのロッテファン集団が作った異色の…

水原勇気、「野球狂の唄」。NPB初の女子プロ野球選手を主人公にした漫画のチームではない。紆余曲折を経て立ち上がった、現実のチーム。クラブチーム界での異端児、TOKYO METSに初めて足を運んでみた。

■かつてのロッテファン集団が作った異色のチーム、その可能性に迫る

 水原勇気、「野球狂の唄」。

 NPB初の女子プロ野球選手を主人公にした漫画のチームではない。紆余曲折を経て立ち上がった、現実のチーム。クラブチーム界での異端児、TOKYO METSに初めて足を運んでみた。

 誤解を恐れずに言うならば、賛否両論あるチームだろう。メッツは立ち上げ、そして現在に至るまで異色のチームだ。かつてのNPB千葉ロッテマリーンズ(移転前のオリオンズも含め)からの応援団、そしてファン集団が作った。

「野球界に応援の新風を巻き起こした」と言われたマリーンズ・ファン(一部ではサポーターとも言われる)。チーム、関係者と一体となった応援を繰り広げ、05年には日本一にも上り詰めた。

 だがその中でいくつものひずみも生じ始めた。チームとの方向性の違い、フロントへの抗議活動の方法論……。09年、ファンの中でも「ボタンの掛け違い」が生まれる。結果、当時の応援団は解散。熱くサポートしていた集団「MVP」もスタンドを去った。

 翌年の10年に再びマリーンズが日本一になったのは、なんとも皮肉なことであった。一念発起した旧応援団や「MVP」の有志たち。「ファンの声がストレートに届く、そして日本一クールでカッコいいチームを……」。今のこのご時世では、照れくさくなるようなコンセプトを掲げ、メッツは誕生した。

■「ハイディ」と歩んだ第一章

 仕事や学業を抱えるかたわら、メッツに情熱を注ぐ人は多かった。そしてまず驚かされた。日本野球連盟に加入した12年、かつてアメリカのマイナーリーグやホークス2軍で監督をつとめた、「ハイディ」古賀英彦氏を監督に呼んだのだ。(※1)

「こんな年寄りに声をかけていただきうれしかった。若い選手の成長を側で見られるのがうれしい。そして何よりこの年まで野球に関われることがね」

 就任当初はレベルの低さに驚いたそうだが、選手の成長が何よりもうれしかった。そのハイディ氏が今シーズン、9月でユニフォームを脱いだ。自身の年齢や家族との時間など様々なことが絡み合った。ハイディ氏の最終戦となった試合後、選手は大粒の涙を流した。

 まさに家族。メッツの第一章はここで幕を閉じた。

「世間の逆風との戦いみたいなものですよ(笑)」

 メッツ関係者はそう語ってくれた。企業チームならともかく、クラブチームの試合を見に来るのは、関係者や家族ぐらい。閑散としたスタンドも当然の風景。そんな中、毎試合のように50人近いファンが旗を振り、声をはる。時にはトランペットなど「鳴り物」も。大会関係者に厳重注意をもらったことも珍しくなかったそうだ。

 また、以前のマリーンズとの件もあり、ネット上などでは批判の対象にされ続けた。それでも前を向いた。その姿勢に賛同したものが集まり、選手数は年々、増えている。

「もちろん選手の入れ替わりは激しい。大学生も多いので就職活動などもあるし。でも独立リーグにも何人か入っているし、良い選手多いですよ」

 11月23日には茨城県の竜ヶ崎市でトライアウトもおこなった。そこには18歳などの若い選手も数多く訪れていた。

■東京メッツが見せる魅力的な野球、ここから先がネクストステージ

 監督も変わり、フロント体制も変化し始めた。メッツの第二章が始まろうとしている。16年シーズンの最終戦である11月26日、駒沢球場に足を運んだ。「あいつ、この前まで野手で、投手になったばかりなんです」。先発した背番号「34」の赤坂優斗はキレの良いスライダーで相手打者に簡単にスイングさせなかった。

 また2番手の背番号「25」越沼君斗はインステップのサイドスロー。右打者はかなり打ちにくそうにしていた。その他、塁に出たら盗塁をどんどん仕掛ける。セフティスクイズを敢行する。面白い野球を魅せてくれた。(※2)

「こういう細かい野球はハイディさんの財産なんです。大きいのが打てないからいかにして点を取って行くか……」

 東京都クラブチームでリーグ優勝した理由がわかるような、良い野球だった。

 16年最後に見た試合がメッツだった。クラブチーム。NPBや野球日本代表「侍ジャパン」とは大きく違うカテゴリー。だがメッツのプレーする環境はピュアな部分が多いのではないか、と感じたのは言い過ぎだろうか……。

「ボビー(バレンタイン=元マリーンズ監督)とも話したことあるけど……。いつかメッツからアメリカのマイナーとかに選手を輩出したいですね」

 これからも様々な逆風が吹くだろう。でも前を向いて進んでほしい。

 最後に、メッツの応援で使用していた、中山美穂(竹内まりや、も唄っていた)「色・ホワイトブレンド」。ロッテ時代から続くウィットにとんだ選曲、応援、笑わせてもらった。

◇TOKYO METS(東京メッツ)
2010年にNPO法人として立ち上げ、12年に東京都野球連盟への加盟が承認。14年に東京都クラブチーム春季大会で優勝し、15年全日本クラブ選手権2次予選進出。BCリーグなど独立リーグにも選手を輩出している。

※1「ハイディ」古賀英彦
39年熊本県出身。ジャイアンツでプレー後、渡米。マイナーリーグなどで投手として活躍。帰国後はホエールズ、ライオンズ、ホークスでコーチ、通訳、編成担当などを歴任。90年からサリナス・スパーズ(カリフォルニア・リーグ)で日本人初の監督を務める。その後ホークス、マリーンズでヘッドコーチ、2軍監督も務めた。

※2背番号
本来の背番号は、#31赤坂、#25越沼。この日のゲームではユニフォームを忘れたことと、仮登録であった。

山岡則夫●文 text by Norio Yamaoka
1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。 Ballpark Time!オフィシャルページ(http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。