~クイーン・オブ・アスリートを目指して~ヘンプヒル恵インタビュー 競技編"七種競技"とは、2日間にわたり、トラック競技で100mハードル、200m、800mを走り、フィールド競技では、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、やり投げと合わせて七種…
~クイーン・オブ・アスリートを目指して~
ヘンプヒル恵インタビュー 競技編
"七種競技"とは、2日間にわたり、トラック競技で100mハードル、200m、800mを走り、フィールド競技では、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、やり投げと合わせて七種目を戦って、総合力を争う競技だ。その"七種競技"で日本のクイーン・オブ・アスリートとしてトップにいるのが、ヘンプヒル恵(めぐ/アトレ)である。
まもなく開催される日本選手権に向けて調整中だというヘンプヒル恵
彼女の輝かしい競技歴は、京都文教中学校時代から始まる。進学とともに陸上競技を始め、中学3年生の時に四種競技で出場した、全日本中学校選手権で優勝を果たした。高校では七種競技で2年生の時に世界ユースに出場し、その直後のインターハイでは優勝。3年生のインターハイでは、七種競技を日本ジュニア新記録で連覇したほか、100mハードルでも勝って2冠を達成している。中央大学進学後は、1年生で日本選手権を制して以降、3年連続で制覇。3年生の2017年にはアジア選手権で2位に入り、日本女子七種競技を牽引する存在になった。
「何をやってもうまくいく感じで、練習を一生懸命やればやるほど強くなる。だから正直、一つひとつの試合をあまり覚えていないんです」
しかし、圧倒的な強さで勝ち続けていたヘンプヒルを悲劇が襲った。大学3年生の2017年8月だった。
その年の6月上旬に開催された日本選手権は自己ベストの5907点で優勝し、1カ月後のアジア選手権は2位。初出場を予定していた8月下旬からのユニバーシアードへ向けて、まさに絶好調だった。<
その大会後の合宿中に、左ひざ前十字靭帯と内側半月板を損傷する。重傷だった。
「ケガをして一度立ち止まったときに『なぜ私は競技をやっているんだろう』と感じたし、勝てなくなった時は『自分はもういらない存在になったのでは......』と思いました」
どん底に落ちた瞬間だった――。
「手術する予定だったんですが、ユニバーシアードまで頑張って調整しました。エントリーはしたんですが、結局は棄権しました。スタンドから全種目を見ていて、悔しいという感情よりも、『なんでこんな目に遭わなくてはいけないんだろう』という、むなしさを感じていました。
帰国後すぐに手術をして、リハビリを経て12月からジョグができるようになっても、ポジティブに考えることができなくて......。『これもできない、あれもできない』と考えてしまって、負の連鎖に陥っていました。体の状態を考えればできなくて当たり前なのに、そんな自分を認められず、『なんでこんなこともできないんだろう』と考えてしまっていたんです」
翌年2018年、驚異的な回復力で復帰して6月の日本選手権には出場したが、結果は2位で4連覇を逃した。その後、中大を卒業して社会人になって、体も徐々に戻りつつある中で出場した19年4月のアジア選手権では、足首に痛みが出て途中棄権。ひざにも痛みが出るようになり、続く日本選手権は欠場した。
「ずっと勝つのが当たり前だったので、負けるのがすごく怖くなっていました。今までは『できるだろう』と思えばできていたのに、そうじゃなくなったことで心と体がマッチしなくなっていました。日本選手権欠場は、もちろん足も痛かったけど、練習ができていないことで気持ちがしんどくなってしまい、正直に言えば逃げたんです。
その時は怒ってくれる人もいたし、逆に『逃げてもいいんだよ』と言ってくれる人もいました。いろんな意見を聞いた時にあらためて思ったのは、『私は誰かに強要されて陸上をやっているわけではない。自分がやりたいからやっているんだ』ということでした。
応援してくれる人も元気にしたいし、自分も楽しくやりたいはずなのに、『苦しみながら競技をやって、そんな姿を人に見せるのは私のやりたい陸上じゃない』と思い、(考える時間として)しばらく競技を離れることにしたんです」
自分と向き合う中で、ヘンプヒルは気がつくと陸上のことばかり考えていた。そこであらためて、「自分は陸上が好きなんだ」と思った。競技をすることが好きだし、それを応援してくれる人がいることのありがたさをあらためて感じた。そして、その人たちの喜んでいる顔を見たいと思って競技をしていたことを思い出した。
今年7月の東京陸上競技選手権では、七種競技で優勝を飾ったヘンプヒル恵
photo by Morita Naoki/AFLO SPORT
「勝つためだけではなく、『私が頑張る姿を見て誰かが喜んでくれたり、自分自身が楽しく競技できればいいんじゃないか』と思ったんです。もちろん勝つことは大事だけど、負けることでしか得られないものもあるんじゃないか、とも思いました。
『勝つって何だろう?』ってすごく考えたけれど、自分が苦しんでいるときにサポートしてくれた人たちへの恩返しになる、ということが答えのひとつだと思いました。そこからは、自分から動いて前進する陸上に変わりました」
大学を卒業してアトレに入社してからは、練習環境やコーチを変えたが、指導してもらっている意識から、自分から提案して話し合い、その練習をサポートしてもらう形へと変わっていった。
「何か新しいことをやって、『力になってきたかな』と感じるまでには大体3カ月くらいかかるんです。でも、それが七種目もあるから、今は本当に時間が足りない」とヘンプヒルは笑う。
新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延で、東京五輪は来年に延期されることになったが、この事態も彼女にはプラスに働いているという。
「今年1月に右足首の捻挫剥離骨折をしたため、2カ月間ほど十分な練習ができませんでした。ケガをしてからは気持ちの浮き沈みが激しかったのですが、五輪の延期が発表されて、少し安心したというか......。正直なところ、時間を作れてよかった、という気持ちもありました」
その後は、感染拡大の影響から自粛期間をすごし、競技場を使えない時期がしばらく続いた。その期間中は自宅近くの河原に行って石を投げたり、坂道で負荷をかけて走ったりしていたという。ヘンプヒルは「自然の物を使い、自然のパワーを借りて練習をしていました」と笑顔を見せる。
「自粛期間を有効に使えたことで、(練習を再開した)6月からのトレーニングがうまくいきました。100mを走る中でもスタートからゴールまでの意識を分割して考え、それぞれの動きを自粛期間中に固めて、6月になってそこにパワーを足す、という形で取り組みました。だから今は本当に楽しくて、ここ数年では感じたことのないワクワク感があります。『試合をしたい』『これを試したらパフォーマンスがどうアップするんだろう』と思っています」
ケガのタイミングで自分と向き合い、さらに五輪延期により、今度は競技と向き合ったことで、世界のトップレベルで戦いたいという目標が明確になってきた。
「今まで私は『なぜそこへ行きたいのか、どうやったらその舞台で勝負できるのか』を考えられていませんでした。でも、ケガをしたりコロナの自粛期間をすごして、『なぜ私は頑張りたいのか』ということまで考えた時に初めて、今までとは違う感覚の『陸上をやりたい』、『勝ちたい』という思いが出てきたんです。『この気持ちは本物だ。嘘じゃない』と思えたので、今後はその気持ちを大事にしていきたいと思っています」
プロフィール
ヘンプヒル恵(へんぷひる・めぐ)
1996年5月23日生まれ。京都府出身。アトレ所属。
七種競技/100mハードル
アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた。
中学生の時に陸上競技と出会い、中学3年で全日本中学体育大会の四種競技で優勝。
高校3年で出した七種競技の日本高校記録(5519点)は、いまだ更新されていない。
大学では日本選手権3連覇を達成している。