◆「サッカー界の田澤」に見る、田澤ルール撤廃の必然性田澤純一が語ったMLB時代と今後 前編「チームに貢献し、日本の皆さん…
◆「サッカー界の田澤」に見る、田澤ルール撤廃の必然性
田澤純一が語ったMLB時代と今後 前編
「チームに貢献し、日本の皆さんに応援してもらえるようにしたい」。
7月12日、ルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズが、元メジャーリーガーの田澤純一の入団を発表。田澤はその翌日に「あの日」以来12年ぶりという日本での記者会見に臨んだ。
7月に埼玉武蔵ヒートベアーズに入団した田澤 photo by Shiratori Junichi
初めてプロ野球を意識したのは、新日本ENEOSで3年目のシーズンを迎えた、21歳の時だったという。
「この頃、具体的にプロ野球へと進む話になりました。でも、この年の交流試合でプロ選手と対戦させてもらった時に、『自分は、このままだとプロに行っても通用しないな』と思ったんです。社会人野球を経由した選手は、プロでは『即戦力』として見られますが、この時はその期待に応えられる自信がなかったんですよね」
ドラフトの指名が解禁(高校卒業から3年目)される2007年、上位での指名が有力視されるなか、田澤はチームへの残留を決めた。
「大久保秀昭監督(元近鉄)に、『プロ選手として必要なことを教えてほしい』と伝え、チームに残してもらいました。お世話になったチームを優勝させたいという思いもありましたし、リリーフしか経験がなかった僕がプロ選手として活躍していくためには、先発もできないといけない。多くのことを勉強させてもらった1年間でしたね。今でもチームに残ってよかったと思っています」
2007年の秋頃から先発にも挑戦した田澤は、翌2008年の都市対抗野球で4勝を挙げてチームの優勝に貢献。大会MVPにあたる「橋戸賞」も獲得した。
「ドラフト有力候補」として日に日に注目度が高まる田澤だったが、NPB12球団宛に指名の見送りを求める文書を送付した。そしてドラフトを1カ月後 に控えた 2008 年9月、記者会見を行ない、メジャーリーグ挑戦を表明した。
前例のない田澤の挑戦は、当時の日本野球界に大きな衝撃を与えた。
NPBは、「ドラフトの指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、海外球団を退団した後の一定期間(大卒・社会人は2年間、高卒は3年間)はNPB所属球団と契約できない」とするルールを新たに制定。田澤のメジャーリーグ挑戦表明がきっかけだったことから、通称「田澤ルール」と呼ばれ、広く知られるようになった。
「当初は日本のプロに進むつもりだった」という田澤が、メジャーリーグ入りを考えるきっかけになったのは、社会人3年目に日本代表として出場したIBAFワールドカップ(2007年11月・台湾)で海外の打者と対戦したことだった。
「(メジャーリーグに挑戦することで)自分自身が成長できると思ったんです。活躍できる自信があって渡米したわけではありませんでした」
日本球界でドラフト1位指名が確実視されているなかで、「茨の道」のようにも見えるメジャーリーグへの挑戦も、「自分の選んだ道に後悔はなかった」と振り返る。2008年12月にボストン・レッドソックスと契約を結び、渡米後は異国の文化を柔軟に受け入れながらステップアップ。そして翌年8月、1年目にしてデビューを果たした。
初登板は、レッドソックスの宿命のライバルであるニューヨーク・ヤンキース戦。敵地のヤンキースタジアムで、0-0のまま迎えた延長14回裏だった。嵐のようなブーイングを背にしてマウンドに上がった田澤は、「小学生の時からテレビで見ていたバッター」と話す松井秀喜と対戦。センターフライに打ち取ったものの、次のイニングでアレックス・ロドリゲスにサヨナラ本塁打を打たれ、敗戦投手に。ほろ苦いデビューだった。
「あらためて振り返ると、なかなかできない経験をしたと思います。(敗戦は)不名誉なことですけど、名前は残せたんじゃないですか(笑)。試合後には、キャッチャーが『変化球を要求した俺が悪いから気にするな』と言ってくれましたし、いい勉強になりました」
◆巨人と西武との間で起きた鹿取義隆の争奪戦
そのルーキーイヤーに2勝(3敗)を挙げ、順調にメジャーリーガーとしてのキャリアを歩むかと思われた2010年の春。右肘の靭帯損傷が見つかり、トミー・ジョン手術を受けることになった。
「『97%は帰ってこられる手術』だと言われましたが、『もし、残りの3%の結果になったらどうするんだろう?』という考えが頭をよぎりました。人生で初めて1年以上も野球をしない日々が続く不安もありましたが、チームからは復帰までのプランについてきちんと話してもらえましたし、心理的な負担は少なかったように思います」
しかし異国の地での手術は、ヒヤリとした場面もあったという。
「手術を終えて手術台からベッドに移された時に、すごい衝撃を感じました。肘からブチッという音が聞こえたんですよ。麻酔が切れたかどうか、というタイミングだったので、ところどころ記憶が曖昧なんですけど......。次の日に見たら、この時の衝撃で肘が血だらけになっていました。もし、傷口の中だったら大変なことですよね。『アメリカは雑だな』と思いましたよ(苦笑)」
2013年にはレッドソックスのワールドシリーズ制覇にも貢献 photo by Kyodo News
思わぬアクシデントもありながら無事に手術を終えた田澤は、2011年9月に2年ぶりのメジャー昇格を果たし、翌年には37試合に登板。3年ぶりの勝利と初セーブもマークするなど、徐々にリリーフ投手としての地位を確立していった。71試合に登板した2013年は、上原浩治、クレイグ・ブレスロウらと共にブルペンを支え、ワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。
「試合数が多く、休みが少ない。そういう意味ではきつい部分もあったと思います。でも、アメリカのリリーフ投手は、電話が鳴ってからブルペンで投げるんです。一方で日本では、登板の前からキャッチボールをしながら準備するので、それだけ投球数が多くなる。それぞれの『しんどさ』がありました。僕の場合は、トレーナーやコーチと体の状況について話し合いながら、うまくやれたと思います」。
優勝争いを続けるチームで登板を重ねる田澤の心の支えは、2013年シーズンにレッドソックスに移籍してきた上原の存在だったという。
「上原さんは、オンとオフの切り替えがすさまじく早いんです。ブルペンでは他会場の途中経過とかを話しながら肩を作っているのに、試合ではきちんと抑える。先発、中継ぎ、抑えと、すべてのポジションで結果を出している人はあまりいない。マネができたらいいですけど、難しいですよね(笑)」
田澤がレッドソックスの一員として、ワールドチャンピオンを掴み取った2013年。シーズンでもっとも印象に残る試合を尋ねると、デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップを挙げた。
ワールドシリーズの出場と、リーグ優勝がかかった第6戦。7回途中から登板した田澤がミゲル・カブレラを打ち取り、裏の攻撃でシェーン・ビクトリーノの逆転満塁弾を呼び込んで、勝利投手になった試合だ。
「僕は緊張しやすいタイプ。ピンチ(2死1、2塁)での登板だったので、腹を括っていました。『使った監督が悪い』というくらいの気持ちで、やれることを一生懸命やる。無事に抑えられてよかったです。実はこの時、上原さんが、『対戦成績が悪いから、ミゲル・カブレラには投げたくない』と話していたことを後に知りました。『先に伝えておいてくれよ』と(笑)」
その後、2017年にはマイアミ・マーリンズ、2018年にはデトロイト・タイガース、ロサンゼルス・エンゼルスと活躍の場所を移しながら、通算388試合に登板して21勝4セーブ89ホールドという成績を残した。
「一流の選手と一緒にプレーできましたし、貴重な経験ができたと思います。ヒートベアーズのチームメートに聞かれたことは、なるべく答えるようにしていますし、積極的に協力していきたいですね」
9月7日には「田澤ルール」が廃止されて周囲は騒がしくなっているが、田澤は12年ぶりの日本のマウンドで勝利のために投げ続けている。
(後編につづく)