この全米オープンはリモート取材だ。記事を書く上で現地の空気を感じられないのは痛いし、特に深夜や早朝の時間帯に自室からリモート記者会見に参加するのは、いまだに慣れない。だが、「これは現地に行っていたら目にすることはできなかったな」と気づき、喜…

この全米オープンはリモート取材だ。記事を書く上で現地の空気を感じられないのは痛いし、特に深夜や早朝の時間帯に自室からリモート記者会見に参加するのは、いまだに慣れない。だが、「これは現地に行っていたら目にすることはできなかったな」と気づき、喜ぶ瞬間もあった。大坂なおみが優勝を果たした直後の国内メディアの反応である。【実際の動画】2度目の全米OP頂点に!大坂なおみvsアザレンカ/全米OP女子決勝&表彰式【実際の動画】大坂なおみ、コートに寝転び優勝の喜びを噛みしめる

現地からの中継が終わり、チャンネルを地上波に切り替えると、情報番組での話題は大坂の2年ぶり2度目の載冠だった。例のマスクについても複数の番組が詳細に報じた。しばらく前から一般紙やスポーツ紙、地上波のニュース番組でもこの話題を扱っていた。

大坂は勝利者インタビューや記者会見のたびにマスクについて聞かれ、「この問題(Black Lives Matter)を多くの人に知ってもらいたい」と意図を説明した。マスクに記されたのは人種差別が関係した事件の犠牲者の名前。目にした人がインターネットで検索し、事実を知り、自分なりの考えを持つ、そして、問題についてだれかと話す--大坂の意図である。実際、筆者もグーグルの検索ボックスにいくつかの人名を入れた。

大坂は前哨戦のウエスタン&サザンオープンの最中、SNSに「私のプレーを見てもらうより、もっと注目すべき重要なことがある」と投稿、黒人男性が警察官に射殺された事件に抗議するため、大会を棄権する意思を示した。投稿は英語、日本語が併記されていた。人種差別問題への関心が低い日本に向けての問題提起である。知らないことは事態を肯定しているのと同じ、と日本の人々に鋭く迫った、と筆者は受け止めた。

この抗議から、大坂はテニスコートの内外で最も注目される選手になった。全米では毎試合、異なる人名が記されたマスクを着けて入場し、「決勝に進んで全部見てもらいたい」と話した。

「コート外での様々なことは、この大会で結果を残すための大きなモチベーションになっています」と話した大坂。ウィム・フィセッテコーチも「間違いなく彼女の助けになっているし、大きなエネルギーを与えています。彼女は常にモチベーションを持っていますが、このことはさらなるモチベーションになっていると思います」と同意見だった。

確かに「エキストラ・モチベーション」を持ち、その力も借りて栄冠を手にしたチャンピオンは過去にもいた。しかし、諸刃の剣というか、大坂の社会に向けての強い意見表明は、同じくらいの強度の反発、反感を招いたはずだ。一人のテニス選手には処理しきれないほど大きなものを背負い込むことになったのではないか。それでも大坂はマスクを着け、意義を説き続けた。

元世界ランキング1位、ビクトリア・アザレンカ(ベラルーシ)との決勝、大坂の出足は鈍かった。すべてを重圧のせいにするつもりはないが、硬さは間違いなくあった。大坂が振り返る。

「とても緊張して、足が動きませんでした。第2セットも先にサービスゲームを落としてしまいましたが、できるだけポジティブにいよう、6-1,6-0で負けないように、とだけ思っていました」

そうして大坂は巻き返すのだ。全米の女子シングルス決勝で第1セットを落とした選手の逆転勝ちは、1994年にアランチャ・サンチェス ビカリオ(スペイン)がシュテフィ・グラフを破った試合以降、一度もなかったという。この大舞台で、先行を許した選手が反発力を発揮するのがいかに困難かを物語るデータだ。

優勝を決めた大坂は、一瞬、目頭を押さえる仕草を見せたが、陣営の歓喜が視野に入るとたちまち笑みがこぼれた。コートに仰向けになって空を見る場面が印象的だった。大坂が心境を明かす。

「偉大な選手たちが地面に倒れて空を見上げているのを何度も見てきました。彼らが何を見ているのか、見てみたいと私はいつも思っていました。本当に信じられない瞬間でした。やってよかったと思います」

視界に入ったのは、夜空とスタジアムの屋根か。だが、見上げたのが虚空であったからこそ、思いを噛みしめることができたのだろう。この瞬間、大坂は重い荷物を下ろしたはずだ。

優勝インタビューではマスクについて、こう話した。

「皆さんがどんなメッセージを受け取ったかが、より大切です。いろんな人がこの問題を考えてくれるきっかけになればいい」

優勝で「Black Lives Matter」が国内の地上波テレビでも広く取り上げられ、対岸の火事のように見ていた人にも問題が認知されただろう。世界中の人たちが、これを話題にしているだろう。これは、大坂がコートの外で手にした、もう一つの勝利である。

SNSには「これほどタフなアスリートがいるだろうか」と称える声があった。この見方に100%同意する。表彰式では、準優勝のアザレンカが「これから何度も決勝で対戦できるといいですね」と話したのを受けて、「私はプレーしたくないです。実際、タフな試合で、全然楽しくなかったので」と返した。優等生の定型に収まることを嫌う、このセンスもまた、彼女らしさである。

(秋山英宏)

※写真は「全米オープン」での大坂なおみ

(Photo by Matthew Stockman/Getty Images)