ホームランに憑かれた男〜孤高の奇才・門田博光伝第2回 門田博光と話をしていると、しばしば野村克也が登場する。ある時、「ワ…
ホームランに憑かれた男〜孤高の奇才・門田博光伝
第2回
門田博光と話をしていると、しばしば野村克也が登場する。ある時、「ワシがまだ現役で、ぶきさん(穴吹義雄)が監督の時にな......」と言って、こんな思い出話を聞かせてくれたことがあった。
「西武球場での試合前や。ネット裏におっさん(野村克也)がひとりでおってな。なんか寂しそうにしとったから、しゃべりに行ったんや。『僕が現役を辞めて監督になったら、ヘッドコーチでどうですか?』と。『優勝したら1億で』って続けたら、ニヤーっとしとったわ。まだ評論家の時で、ヤクルトの監督になる前やったけど、あの人にそんなこと言うのオレぐらいやろ。
あの時、どう思うとったんやろうな。『やっぱり、コイツはおもろいこと言いよる』と思ったのか、『コーチで誘われるなんて屈辱や』と思ったのか......。まあ、どっちでもええんやけどな」

現役時代、ホームランを打つことにこだわり続けた門田博光
野村ヘッドはともかく、当時の雰囲気では"門田監督"は十分に現実的な話だった。しかしそのプランは、南海ホークスの消滅とともに消え、監督どころか、臨時コーチでさえ、どの球団からも声がかかることはなかった。
「ごんたくれやったからな。監督にしろ、オーナー連中にしろ、オレを使いこなせる上司がおらんかったということやろ。そこに巡り合わなかったことがすべて。そういう宿命やったということや」
そう自らを納得させるようにつぶやく門田と最近のプロ野球について話していると、よくこんなセリフを耳にする。
「なんであいつがバッティングコーチなんかやっとるんや?」
門田の知る範囲での現役時代の力量、実績、打者としてのイメージ......「なぜ?」は門田にとって素朴な疑問だった。
名前が挙がった人物について、その都度コーチとしての実績や打撃指導の持ち味、さらには監督とのつながりなど、こちらの知る限りを伝えると、大抵はつまらなさそうな反応を見せる。
「要するに、お友達か。みんなどないしてつながるんや......そんな時間、どこにあるんや。オレの現役時代は、試合に行っても『おはようさん』と『お疲れさん』の2つだけ言うて帰ることがしょっちゅうやった。ニコニコ、ペチャクチャとくだらん話なんかしているより、どうやってホームランを打つか、どうやって大型戦車(助っ人外国人選手)に負けん打球を飛ばすか、そんなことしか考えてなかったからな」
そして、最後にこうつぶやく。
「(ホームランを)打ったことないヤツが何を教えるんや」
門田が言わんとするところは、寝食を忘れるほど打撃を突き詰めたことがあるのか、年間40~50本のホームランを本気で目指したことがあるのか、ということだ。そうした経験のない者がプロの打者相手に、いったい何を教えられるのかということだ。
門田は現役を引退したあと、しばらくは何の縛りもない暮らしにどっぷり浸り、心ゆくまでの解放感のなかで過ごした。
「選手時代はひたすらトライして、引退した時には余力なんか一切残ってなかったからな。だから辞めた瞬間、いっぺんに歳をとった気分になって、野球はもうええと思ったし、指導者としてという考えもまったくなかったんや」
だが、病や人間関係のこじれなどもあり、評論活動に区切りをつけ人里離れた場所で気ままな暮らしを続けていると、ふとグラウンドが恋しくなった。やがてその思いは、「オレの教えを注ぎ込んだ打者を育ててみたい」と膨らんでいった。
門田が初めて仕事として選手を教えたのは2009年。のちに関西独立リーグにも参戦した大阪ホークスドリーム(現在は日本野球連盟に所属)の前身である野球塾のような組織に指導者として参加した。
練習場は大阪南部にある緑地公園内のフットサル用の小スペースで、門田はそこでふたりの若者相手にティーバッティングのボールを上げていた。練習がひと段落したところで声をかけると、「ナンバーワン(王貞治)を超えるようなバッターを育てたいんや」と熱く語ってきた。だが、壮大な夢を語る門田と重そうにバットを振る若者とのギャップに、なんとも切ない気持ちになったものだ。
その後、20名ほどの選手が集まり、大阪ホークスドリームとして関西独立リーグに参加。門田は総監督(のちに監督)としてチームを指揮し、選手への指導も積極的に行なった。体の不調を抱えていた時期ではあったが、久しぶりに野球にのめり込んだ日常は、門田にとってやはり幸せな時間だった。
ただ、この時も、のちに臨時コーチとして社会人チームを指導した時期も含め、門田の思いを満たす選手との出会いに恵まれることはなかった。
「教える前は、オレの目に留まったヤツをマンツーマンで鍛えたら、誰でもプロに行かせられる自信はあったんや。『オレがやれたんやからできる』『オレの哲学は通じるはずや』と。でも、そうやなかった。そのうち徐々に自分の野球哲学を疑い始めて、指導するのが怖くなった時期もあったな」
現実に直面しながらも、一旦スイッチが入った門田は、自らの財産を託す選手を探し求めた。
2009年の秋、自宅のテレビでオリックス戦の中継を見ていると、門田の目を奪う選手が現れた。その年の夏にプロ初ホームランを放ち、売り出し中の岡田貴弘(T-岡田)だった。翌日には車を飛ばし京セラドームに向かうと、当時監督だった大石大二郎をつかまえ、こうストレートに言った。
「55番(T-岡田)をオレに見させてくれんか」
門田の意図を察した大石だったが、すでにそのシーズン限りでの退団が決まっており、話は広がらなかった。
こんなこともあった。5、6年前のある夜、門田から電話があり、阪神の東京遠征時の宿泊先を聞かれた。何事かと思いながらホテル名を告げると、「ありがとさん」と言って電話は切れた。
後日その話を聞くと、阪神のある選手のバッティングが気になっていて、門田によると「1つ、2つ伝えたいポイントがあった」という。そこで南海時代のチームメイトで、当時阪神のコーチをしていた黒田正宏に連絡を入れるため、宿泊先を聞いてきたのだった。
「『鳥谷(敬)とちょっと話できんか』と黒田に言うたけど、進まんかった。そういうのは難しいらしいな」
球団には専属のコーチがおり、外部の人間が所属選手に対して技術的な指導をすることは普通ありえない。
また、ある年のオフにはNPBを自由契約になったスラッガーから、共通の知人を通じてマンツーマン指導の相談が来たが、これも実現には至らなかった。この時は本人と門田が直接やりとりをするまで話は進んだが、最後の最後で立ち消えになってしまった。
大まかな経緯を聞いて思ったことは、門田と組むなら、独特の打撃論や強烈すぎる個性を盲目的に信じることができなければ良好な関係は築けないということだ。
ちょうどその頃、「もうワシの出番はないわ」という弱音を聞いたことがあったが、情熱の炎はまだ消えていなかった。今年2月に72歳になった門田は、こんなことを語っていた。
「国のトップ同士の赤電話みたいなものがあったらええのにな。トランプ(大統領)と安倍(晋三/首相)がよくやりとりしている直通電話や。オレが家から電話を入れて、気づいたことを選手に直接言うんや。12球団に1台ずつ通じる電話があって、こっちからは広報にコンタクトを取れば、あとは選手と話し放題。おもろいと思わんか? 今の時代、みんなええ体しとるし、パワーと技術を持ったヤツもようけおる。その気になったら40から50発打てるようになりそうなのがおるのに......もったいないわ」
12球団を見渡すと、門田がうらやむ選手を見つけることは難しくない。ただ、高校時代まで本塁打0本。プロ入団時のサイズも170センチ、70キロちょっとだった男が球史に残るホームランアーチストに上り詰めた最大の理由は「志」にある。門田博光になりえるかどうかの分岐点はここにあるのだ。
「そうや、そこなんや。この10数年でわかったことは、ナンバーワン(王貞治)を超えようとする志を持ったヤツがおらんということ。それがわかってしもうたんや」
断ち切れない未練に引きずられながら、今年もまた何事もない1年が過ぎようとしている。
つづく
(=敬称略)