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関連記事>>石川佳純が目指すのは「最強のプレー」。東京五輪でリベンジを期す

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーーー蘇る記憶 第37回 

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。 

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2012年ロンドン五輪卓球女子団体で銀メダルを獲得した日本代表メンバー。左から福原愛、平野早矢香、石川佳純

 1988年ソウル五輪から正式競技になった卓球。日本が初めてメダル獲得した2012年ロンドン五輪女子団体の銀メダルは、チームをけん引した福原愛にとっても、ひとつの集大成となるものだった。

 幼い頃から「天才卓球少女」と注目され、史上最年少の15歳でアテネ五輪に出場した福原は、05年から2年続けて世界最高峰の中国スーパーリーグに参加。05年ワールドカップでは3位に入り、世界卓球選手権団体も10年までの4大会連続銅メダル獲得に貢献するなど、実績を積み上げた。男子史上最年少の15歳10カ月で世界選手権代表になり、その後ドイツのブンデスリーガにも参戦した1歳年下の水谷隼とともに、福原は、日本卓球界を引っ張り、世界トップと争う原動力となってきたのだ。

 そうした中で、福原を追うように育ってきたのが、4歳下の石川佳純だった。中学進学とともに福原も所属したミキハウスJSC(ジュニア・スポーツ・クラブ)卓球部に入ると中学2年で日本代表候補入りし、07年世界選手権にはこちらも史上最年少の14歳で代表に。福原とペアを組んだダブルスで、09年モロッコオープンを優勝して以来、石川は各種大会で結果を残すようになっていた。10年7月のモロッコオープンでは、ITTF(国際卓球連盟)ワールドツアーのシングルス初優勝を果たした。

 そんな福原、石川の2人に加え、福原より3歳上で08年北京五輪代表だった平野早矢香も入ったロンドン五輪代表メンバー。大会直前の世界ランキングは個人戦にも出場する石川が6位で、福原は7位。団体のみの平野は18位で、チームランキングは中国に次ぐ2位。

 メダル獲得を狙う団体では、決勝まで王者の中国と当たらない組み合わせになった。

 その前哨戦ともなるシングルスの戦い。第4シードの石川と第5シードの福原はともに3回戦からの登場だった。福原は五輪自己最高のベスト8に進んだが、そこで前年の世界選手権女王で世界ランキング1位の丁寧(ディンニン/中国)に0対4で敗戦。第1ゲームは10対6とリードしたが、「勝ち急いでしまった。してはいけないところでミスをしてしまった」(福原)と反省が残る戦いとなった。

 石川もランキング下位の選手に着実に勝ち、日本人初のベスト4進出を果たした。準決勝では、金メダルを獲得することとなる李暁霞(リシャオシャ/中国)に第1、第2ゲームをあっさり連取された。「1ゲーム目でチャンスボールをミスしてしまい、第2ゲームまで焦り過ぎた」(石川)。そこから踏ん張り、第3ゲームは接戦に持ち込み13対11で取った。だが最後は相手のパワーに屈し、1対4で敗戦した。

 翌日の3位決定戦は、第6シードの馮天薇(フォンティエンウェイ/シンガポール)を相手に1ゲーム目の中盤まではリードしたが、最後は競り負けて9対11でゲームを落とした。その後も「流れをつかめないで簡単なところでミスが出た」とゲームを連取されて0対4でメダルを逃したが、若き日本女子のエースの役割は十分果たした。

 石川と福原はともに、自分のランキングどおりの戦いができたことで気持ちは高まっていた。

 石川は「シングルスで当たる相手は団体でも当たるだろうと思っていた。(シングルスで)いい試合ができたので、その勢いが切れないように戦いたいと考えていました」と言い、福原は「シングルスで負けた時は悔しかったけど、その分『団体戦は絶対頑張るぞ』と心に誓うことができました」と話す。そして平野も「シングルスの試合を見ていてすごいと思ったし、チームとしても勢いをつけてくれたので、私も入りやすかったです」と述べた。

 個人の決勝から一日置いて始まった団体では、その勢いは続いた。石川が最初のヤマだと話していた準々決勝の相手ドイツは、10年世界選手権で日本と並んで3位に入ったチーム。石川は世界ランキング16位のウ・ジャドゥと対戦し、ゲームの取り合いになりながらも、最終第5ゲームはデュースの後、13対11で競り勝った。

 次の福原も、苦手とするカットの選手を相手に第1ゲームを先取されるも、第2ゲームからは立ち直って3対1で勝利。さらに、石川と平野が組んだダブルスは18分で勝利を決め、トーナメントを勝ち上がった。

 準決勝で対戦したシンガポールは、10年世界選手権で中国を破って優勝し、08年北京五輪と12年世界選手権は2位の強敵だった。勝てば銀メダル以上が確定する大事な戦い。勢いをつけたのが、今度は1番手で登場した福原だった。

 相手は個人戦で石川を破って銅メダルを獲得した馮だった。「手強い相手だと思っていた」という福原は、第1ゲームの後半にリードを奪われたが、最後は粘って11対9でゲームを先取。第2ゲームも11対6で取った。次の第3ゲームは取られたものの、最後まで競り合う展開だった第4ゲームは9対9から2ポイント連取して取り、団体にかけた執念をみせた。

 2番手の石川は、シングルス準々決勝で勝利している王越古(ワンユエグ)との戦い。自信を見せつけるようにサーブで攻め、3ゲーム合計で相手に13点しか取らせず圧勝した。そして、平野と石川で組んだダブルスでは、第2ゲームこそ競り合いになったが、他の2ゲームは3点と4点しか取られない強さをみせて勝利。ストレートで強敵シンガポールを破り、メダル獲得を決めたのだ。

 決勝を戦った中国は、やはり強かった。

 シングルスで優勝している李は、11年までの世界選手権3大会でシングルス銀メダル2個、銅メダル1個、ダブルスは金2、銀1を獲った選手。シングルス2位の丁は世界選手権2大会でもシングルス金1、ダブルス銀2を獲得。3番手の郭躍(グオユエ)は福原と同い年ながら、04年アテネ五輪ダブルスと08年北京五輪シングルスで銅メダルを獲得していた。

 最初の福原は、李を相手に第2ゲームは11対9で取ったが、1対3で敗れた。石川も丁を相手にストレート負けしたものの、第2ゲームはデュースまで持ち込み、粘った。そして平野と石川のダブルスも、第3ゲームを11対9で奪う意地を見せたが負け、中国に破れた。

 中国の強さを認めた石川は「悔しさとうれしさは半々です」と話すが、メダルという夢がかなった嬉しさの方が勝った様子だった。 「今回は『楽しめばいい』という気持ちでやれました。思い切りのいいプレーをする中で、1試合ごとに成長しているような経験ができました」と石川は話した。彼女がそういう気持ちで戦えたのも、メダルへの強い思いを秘めながらも「やるべきことはすべてやる」と決めてそれを淡々と実践していた、福原の存在があったからだろう。

 福原は「団体のメダルへの思いはすごく強かった。北京五輪の3位決定戦で負けた瞬間の写真を、雑誌社に電話して一番大きいサイズに伸ばしてもらい、NTC(ナショナル・トレーニング・センター)に貼って練習をしていたし......。今回もその写真を携帯で撮って持ってきています」と言う。

 同じく北京でメダルを逃した平野も「北京が終わってからはずっと、ロンドンのメダルだけを目標にしてきました」と言い切る。石川もそんな2人の思いを一緒に受け止めていた。

 福原はメダル獲得までをこう振り返る。「昨日、今日でメダルが取れたわけではないし、本当にたくさんの方に支えてもらって、積み重ねてきたことが、今こうして形になったのだと思う」と。

 福原にとってこの念願の銀メダルは、すべてをやり尽した結果でもあった。