同級生で親友、そしてライバルとして刺激し合ってきたプロサッカー選手の太田宏介(名古屋グランパス)と小林悠(川崎フロンター…
同級生で親友、そしてライバルとして刺激し合ってきたプロサッカー選手の太田宏介(名古屋グランパス)と小林悠(川崎フロンターレ)。互いに母子家庭で育ったという共通点がある中、当時を2人はどう思っていたのか。プロ、そして父になった現在の環境にも触れながら、2人で掲げていた「夢」や、これからの目標、そして母への思い、父親になったからこそ感じたこととは…。
〈小学生時代、そしてプロになってからのお互いの存在〉
-お二方はいつからのお知り合いですか?
太田 小学4年ぐらいの時からかな。
小林 小学校の時の町田(東京都町田市)の選抜の時からだと思う。対戦相手からとかになると、もっと早くから知っていた。
-そんな小学生時代からのお知り合いというお二方ですが、プロで同じピッチに立った時に思うことや、意識されていることは何かありますか?
小林 最初の頃は、プロの舞台で戦えることに対して、お互いめちゃめちゃ意識していましたね。
太田 僕がエスパルス(清水エスパルス)で悠がフロンターレ(川崎フロンターレ)に入って、初めて同級生とプロの舞台で一緒に戦えるのに感動したことは覚えています。それからお互いがキャリアを築いていく中で、代表として一緒に戦ったりしたこともあったので、いろいろ思い返せば、思い出となるようなシーンはたくさんあります。
小林 最近は何年も一緒に試合をしたりしているので慣れてきたというのもあります。最初ほどの感動はないけれど、宏介がいるチームとの試合は無意識にお互いの存在については認識していると思います。
太田 これで、もっと高校の時の後輩とか、自分たちが関わってきた選手が1人2人いれば楽しくなっただろうなと思います。
小林 確かにそうだけど、この年になったら高校の後輩はきついでしょ(笑)

-当時と違ってこみ上げる感情というものはないかもしれないですけれど、30代を迎えられた今だからこそ思うお互いの存在については出会った当初と変わったことはありますか?
小林 宏介が高校を卒業してプロになったので、当時は先を越されたって思っていましたね。高校の時も宏介がエース番号の「10番」で、僕は「8番」とかですごく悔しかったです。僕は大学卒業後にプロになったので、全然追いついた訳ではないんですけど、やっと同じ土俵で戦えると思って、その時はすごく嬉しかったことを覚えています。
太田 悠はフロンターレに入ってから、得点王をとったり、MVPに輝いたりと、常に活躍し続けているので、刺激を受けています。僕たち2人はどちらかと言えば遅咲きの方なので、年齢を重ねるごとに自分たちのキャリアもいいシーズンが送れるような1年が増えていったし、負けないように頑張らないとなって思える悠の存在が原動力になっています。
小林 一言でまとめると、お互いがお互いを高め合えるような存在ですね。
-お二人が共通して印象に残っている試合とかはありますか?
太田 新潟スタジアムで2014年10月に開催されたジャマイカ代表との親善試合です。確か、悠が先に後半から途中出場とかで出ていて、僕が残り5、6分ぐらいで出ていました。少ない時間の中で僕が1本だけいいクロスを上げた時に、悠がヘディングで合わせたんですけど、ゴールにならなくて...。
小林 決めていれば、もうちょっと美談になっていたよね(笑)。本当あの時は、ごめんなー(笑)。
太田 悠が決めていればもっともっといい思い出になっていて、輝かしい将来が待っていたのかなーって(笑)。
〈当時裕福ではない環境の中でもサッカーを続けられたのは、母親の愛情があったから〉
-日本代表でも競演されていたということですが、高校時代の時からお2人で共通の夢を持っていたりとか、何か話されたりしていたのですか?
小林 してたよねー。僕がプロになった時に一緒に代表になろうねっていう話はしていました。
太田 悠の結婚式で着いた席に「日本代表のユニフォームを着て一緒に頑張ろうぜ」と書かれた一言メッセージが置かれていて、当時の情景を鮮明に覚えています。その後のシンガポールで戦ったブラジルとの親善試合(2014年10月)では一緒に先発出場して、実際にその夢が叶った時は本当に嬉しかったです。あの時は自分たちだけでなく、周囲の関係者も喜んでくれました。
小林 そのシンガポール戦でお互いの親を招待して、お母さん同士で見に来てくれたよね。
-お母さん同士も仲良しだったりするんですか?
小林 仲良いですね。小学校ぐらいからお互い選抜とかで一緒だったので、ずっと顔見知りではありました。麻生大学付属渕野辺高校(現麻布大学附属高校)で一緒になってからは宏介とも仲良くなって、親同士も一層仲が良くなった感じですね。
太田 もう家族ぐるみの付き合いです。小学校の時に選ばれていた関東選抜の練習が茨城や千葉といった、いろいろな地域で練習があって練習のたびにどちらかの親の運転で練習に向かっていました。さらには、高校に入るきっかけも悠のお母さんで、進路の選択に悩んでいた時に、誘ってもらって入ることができたので、何かとそういう縁で繋がっています。
小林 こうした繋がりがなければ、今があったか分からないと思っています。多分、刺激し合える同級生がいないと、プロになれていたとしてもこうしたキャリアは築けていないです。幸せですね。

-母子家庭のエピソードをお尋ねしたいのですが、当時はどういった思いでサッカーをされていましたか?
小林 母子家庭だからといってというのはあんまりなかったですね。お金がない感じはしていましたけど、高価なサッカー用品もなんだかんだいいものを使わせてもらっていたので、頑張ってお金を工面してくれていたのだなと今だから改めて思います。あとは、プロになって、お母さんを楽にさせてあげたい思いは小さい時からありました。
太田 当時は当たり前のように父親がいない環境で育ってきたので、サッカーに関わるお金とかは周りと比べてどうなのかといったことは分かりませんでした。今となっては、お金のつくり方や流れがある程度分かってきたので、かなり苦労して厳しい中にも関わらず、好きなようにサッカーをさせてもらっていたことに大人になってから気が付きました。振り返ってみたら、スパイクはスポーツショップのカゴの中、クリスマスでサンタさんに有名メーカーの最新のジャージを頼んでも、知らないようなブランド…。お金がないなりに頑張ってくれていて、子どもを喜ばせてくれていたのだと実感しました。
小林 自分のところも、今思うと裕福ではなかったと思いますけれど、当時は狭い団地にお母さんと兄貴と3人で住んでいて、すごく幸せだったので貧乏だったとは感じていなかったです。今思うと、めちゃめちゃ貧乏だったと思うことは、夏とか食べるものがなさすぎて米に麦茶をかけて食べていたことですね。今こうして話すと、周りからは「やべーよ」「泣きそうになってきたよ」とか言われます。ただ、当時はそれがうまいと思って食べていたので本当に幸せでした。
太田 幸せの感じ方って人それぞれですからね。
-お母さんとのエピソードで、一番印象に残っている話や語り継がれる話ってありますか?
太田 父の仕事の失敗が原因で両親が離婚した時の話で、当時は借金を取り立てに来る人が毎日玄関の前で待っていたので学校から帰宅するのが怖かったです。その影響で、母親が精神的にやられてしまい、夜になると2階のリビングから泣き声が聞こえ、荷物まとめて「私もう出て行くわ」みたいなことを言って現実逃避で家を出ようとしているのを僕が泣いて止めるっていうのを毎日繰り返していました。
一方で、その異変に気が付いたのが、兄で大学に通いながらも時間があればバイトをしてお金をつくってくれ、家族のために真っ先に行動してくれていました。
その時の太田家は兄が数日やりくりできるお金を作って僕がお母さんをなだめるというか、そばにいて支えるという役割で支え合っていました。周りの友達にも言えなかったので毎日が必死でした。
小林 ドラマみたいな話だな。

〈母子家庭支援活動への強い思い「諦めず、前を向いて乗り越えてほしい」〉
-今はそこから父親になってお子さんもいらっしゃると思うのですが、コロナ禍の影響で家族との時間が増えたことにより、改めて家族へのありがたみや父親としての意識など考えさせられたことはありますか?
小林 自粛期間中は家族と一緒にいられたからこそ、気持ちも常に前向きになれたと思います。サッカー選手としてサッカーができないとなった時に自分に価値がないのではないかなって思わされる時が何度かあったので、家族もいて子どもいるっていうだけで父親という役割を果たせたことは本当にありがたかったです。
SNSに家族の写真を投稿していたのも、サポーターや、ファンに自分たちのサッカーを見せられない上、コロナで苦しい状況の中で少しでも笑顔を届けたいと思ったのがきっかけです。自分はこういう過ごし方をして元気にやっていますというのを見せることがサッカー選手としてやれることだと思ったので時間がある時は投稿するようにしていました。
太田 僕は小さかった時に父親と過ごした時間というのが全く記憶にないので、この自粛期間中は子どもと居られる時間が何より幸せでした。自身が母子家庭で育った生活は辛かった分、すごくいい経験もさせてもらったので母親に感謝していますけど、息子に同じ思いをさせたくないので、自分の子どもが幸せな人生を送れるように近くに寄り添い、Jリーグが再開した時に活躍できるよう家でできる体作りに集中していましたね。

-太田選手は母子家庭支援活動に取り組まれていますが、始めようと思ったきっかけや背景を教えてください。
太田 僕はこれまでに母子家庭の環境で育って、様々な苦難を乗り越えての今があります。ただ、世の中には、現実的に乗り越えられず、押しつぶされそうになっている小中学生はたくさんいます。そんな私と同じような経験をしている子どもたちに、何かエネルギーを与えられることはできないかと考えていました。
-小林選手は太田選手の活動を聞いて、今後同じような活動をやっていきたいと思われましたか?
小林 今回、宏介が行っている活動を初めて知って、すごく興味を持ちました。宏介が言ったように苦しい母子家庭の環境の中で育つというのはお金の面やいろんな面で苦しいことであると思うんですけど、そういった経験をした人の方が僕は強いと思っているので、小中学生たちの力になり、少しでもお手伝いをできればと思います。僕も協力できることがあれば支援活動に取り組みたいです。
-太田選手はこのスポーツギフティングサービス「Unlim(アンリム)」を通して、具体的にどういったことに還元していきたいですか?
太田 まずは金銭的なサポートをしてあげたいですね。それが一番現実的ですし、何より直接喜んでもらえるかなと思っているのでそこを第一に考えています。活動にうまくつなげられるように「Unlim(アンリム)」さんの力を借りて、やっていきたいです。

-母子家庭で過ごす子どもたちに向けて、考え方やアドバイスなどをメッセージで送ってもらえますか?
小林 宏介が過去の辛い話をしてくれましたけど、僕自身もかなりありました。ただ大人になってみると、当時はすごく辛かったことでも、今では意外と笑い話にできることもあります。辛い経験を前向きに捉えることで全部自分のプラスに変えることができると思うので、今辛い思いをしている子ども達がいても、頑張れば将来はきっと良いことが待っているはずなので大変かもしれないですけど、今をグッと乗り越えて頑張ってほしいです。
太田 僕は今でもそうなんですけど、どんなに嫌なことや悪いことがあっても、常にポジティブでいることを心掛けています。さっき悠が言っていた通り、母子家庭の環境を周りの人と比べると、恵まれないことがたくさんあるかもしれません。しかし、大人になった時にそういう人たちって本当に強いので、とにかく今を大事に、そしてポジティブに日々を過ごしてほしいと思います。明るい将来が待っているぞっていうのを僕たちが証明し、それをサポートできるように、何かしらの形で寄り添っていきます。(取材・文/山本未来王)
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