あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>第10回トーレス(後編)>>前編を読む アーセン・ベンゲルの目に留まり、19…

あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>
第10回トーレス(後編)>>前編を読む

 アーセン・ベンゲルの目に留まり、1995年にヴァスコ・ダ・ガマから名古屋グランパス入りしたトーレス。日本でプレーした5年間はいいことづくめだったが、1年目だけは少々難しかったという。

「たぶん日本で一番苦しかったのは、1年目にケガをした時だ。チームは昇り調子で、私はベンゲルの構想の中心にあり、多くの勝利を挙げていた。私は自分に自信を持っており、ボールが足元にある時に強い力を感じていた。しかし、私はケガをし、プレーを続けられなくなった。もしあの時、故障していなかったら、優勝できたと私は固く信じている」

 彼が人生で最も幸せを感じた瞬間も、日本でのことだった。

「私の一番下の息子は日本で誕生した。彼が生まれたその週に、私は息子とグランパスサポーターにゴールをプレゼントすることができた。私の人生の中でも忘れることのできない特別なゴールだった」



名古屋グランパスで5シーズンを過ごしたトーレス photo by Yamazoe Toshio

 一方、日本滞在の5年間で最も印象に残っているのは、彼が名古屋を去る時だったという。

「ブラジルに帰ることを決めた時、みんなが私との別れを悲しんでくれた。チームも、サポーターも、そして私自身も。ブラジルに郷愁は感じながらも、私の魂は名古屋とともにあった。そしてそれは今も変わらない。日本での最後の日のことを、私はまるで昨日のことのように覚えている。

 私はブラジルに帰るために空港に向かい、建物の中に入った途端、目を見張った。そこには何百人という人々が、私を見送るために集まってきてくれていた。サポーターだけではない。チーム幹部、スタッフ、10人近くのチームメイト、そしてなんと会長までも、私に別れを言うために来てくれていた。

 思いもよらないことで、とてつもなく大きなサプライズだった。今でもあの時の感動は忘れられない。これほどの感激を味わったサッカー選手はそうはいないと思う。日本はなんてすばらしい国なんだとあらためて思ったよ」

 トーレスは、リーグ優勝はできなかったものの、日本で3つのタイトルを勝ち取っている2度の天皇杯とスーパーカップだ。

 ところで私はトーレスに、まだ誰もしたことのない質問をしてみた。

 彼はひとりのプロ選手として立派にその名を残した。しかし、彼の父親カルロス・アウベルトが、ブラジル代表のキャプテンを務めた世界有数の選手であったこと、W杯の歴史に残るすばらしいゴールのひとつ(1970年メキシコW杯の決勝イタリア戦での4ゴール目)を決めたことは誰も忘れない。偉大な父に持ちながら、自分はサッカーの世界ではメジャーとは言えない日本でプレーしていたことを、彼自身はどう感じていたのだろうか?

「私は何度も父に、日本に来るように誘ったんだ。父は長身なので、狭い飛行機の座席が嫌いだったし、ブラジルから日本への道のりは長い。だが、ついにそれは実現した。1年目のシーズンの終わりに、父は日本にやって来た。彼は1カ月間私の家に滞在し、その間に私の試合を2試合観戦し、練習にも来た。いくつかのアドバイスも与えてくれた。父もまた日本のサッカーの組織力のすごさ、成長の著しさ、そして何よりそのスピードに驚いていたよ」

 カルロス・アウベルトが近くにいることはトーレス自身のプレーにもプラスに働いたようだ。

「父が名古屋の家にいることで私は落ち着いてプレーすることができた。父が傍らにいることは私にとって大事なことだった」

 伝説的DFもまたこの日本滞在を楽しんだようである。

「父はなによりゆっくりと外を歩けることに感動していた。ブラジルでは絶対に不可能なことだ。自転車に乗ったり、買い物をしたり、父が普通の生活を楽しんでいるのを見て、私もうれしかった。

 父と私が一緒に歩いていると、時には人が立ち止まり私たちの方に向かってくることもあったが、彼らがサインを求めるのは、父ではなく私だった。これには思わず2人で顔を見合わせて笑ってしまったよ。日本では私の方が父より有名人だった。これは我々親子にとって新鮮な体験だった。

 日本では私が案内できるのもうれしかったね。もちろんチームのみんなが助けあってのことだが。日本で父と過ごした日々は私にとってかけがえのないものとなった。父が帰った後は、より落ち着いて、試合に集中しチームを助けることができたと思う」

 トーレスはブラジル人サッカー選手には珍しく、落ち着いて物静かな人間だ。彼が日本で居心地が良かったのは、自分と似た人たちに囲まれていたからかもしれない。

「日本ではチームの仲間以外にも多くの友人ができた。家の近所に住んでいた家族ともとても仲良くなった。"ウエダさん"を今も覚えている。うちの子供たちはよく遊んでもらっていたよ。彼らのおかげで日本に早くなじめるようになった」

 トーレスは1999年まで名古屋でプレーし、最後の年には優勝はできなかったが、2位(セカンドステージ)につき、2度目の天皇杯も勝ちとった。しかし最終シーズンのスタートは難しかったという。

「私はピッチでいいスタートを切れなかったし、新しい監督(ダニエル・サンチェス)とは分かり合えなかった。チーム自体のプレーも良くはなく、その後、監督が変わった。しかしチームやチームメイトは私をリーダーとしてくれた。しばらくすると私はまたいいプレーができるようになり、チームも結果が出せるようになった。最後にはいい終わり方ができたよ」

 名古屋とトーレスの蜜月もついに終わりがやって来た。

「私の古巣であるヴァスコ・ダ・ガマが、2000年1月に行なわれる初のクラブワールドカップに向け、強いチームを作りたがっていた。そして私にとてもいいオファーをしてきた。私はその時すでに33歳。名古屋との間に契約更新の話はなく、日本の他のチームではプレーしたくはなかった。グランパス以外のユニホームは着たくなかった。それならば日本ではもうプレーは続けられない。

 ヴァスコのオファーを受ければ、クラブワールドカップで、マンチェスター・ユナイテッドやレアル・マドリードを戦うことができるかもしれない。だから、心が張り裂けそうになりながらも、私は日本を離れる決意をした。

 ただし、日本を去っても生涯の友情は残った。私の魂の一部は名古屋に残してある。チームのために私は全身全霊でプレーした。タイトルを勝ち取り、少なくとも3年間は日本を代表する三指に入るチームだった。グランパスを簡単に破れるチームは存在しなかった。チームをそこまで導くことができたので、私は心静かにブラジルに帰ることができた」

 ヴァスコ・ダ・ガマで1シーズンをプレーした後、トーレスは引退した。しかしその後も彼は様々な形でサッカーにかかわっている。

「私はサッカーにおいてすべての立場を経験している。父がプレーするのをサポーターとして応援し、少年の頃はボールボーイをし、ジュニアの選手としてプレーし、トップチームでプレーし、引退後は監督も代理人もチーム幹部も経験した。またヨーロッパのビッグクラブのためにブラジルの若手選手のスカウトをしたこともあった」

 現在、トーレスはかつてのCBコンビの相棒リカルド・ロシャとコンサルタント会社を創立し、ブラジルのチームのいくつかをバックアップしている。

 これまで元Jリーグのブラジル人を何人も取材してきたが、中でもトーレスの日本に対する、Jリーグに対する愛情は格別に大きいと感じた。トーレスは最後にこんな言葉で日本への思いを締めくくった。

「私がこれまで経験してきたこと、すべてを活かし、日本のサッカーの発展に手を貸せたらうれしい」

 実際、2003年から数カ月間は、コンサドーレ札幌のコーチにも就任している。

「日本で5年プレーしたおかげで、日本人のメンタリティはわかっているつもりだ。選手ひとりひとりを助けることもできると思う。マンチェスター・ユナイテッドではプレーにおける哲学も学んだ。もちろん監督もできるが、監督とは言わない。日本のどこかのチームを、スタッフとして縁の下の力持ちとして支えてみたい。そしてまた日本の友人たちと再会し、できればともに仕事がしたい。私や私の家族を暖かく迎えてくれた、愛する日本の人たちへ、何か恩返しができたらと思う。私の心はいつも日本に向かって開いている」

トーレス
本名カルロス・アレクシャンドレ・トーレス。1966年8月22日生まれ。フルミネンセ、ヴァスコ・ダ・ガマを経て、1995年、名古屋グランパス入団。2000年、ヴァスコ・ダ・ガマに復帰し、翌年、現役を引退した。1992年にはブラジル代表にも選ばれている。