内田篤人が引退した。 シーズン中に突然の発表。その3日後には現役ラストマッチ。内田らしい、疾風のごとき早業だった。J1…

 内田篤人が引退した。

 シーズン中に突然の発表。その3日後には現役ラストマッチ。内田らしい、疾風のごとき早業だった。



J1第12節のガンバ大阪戦を最後に現役から退いた内田篤人

 内田の引退試合となったJ1第12節、鹿島アントラーズvsガンバ大阪は当然、感傷的な雰囲気に包まれていた。勝負がかかった公式戦であることは誰もがわかっていても、そうと割り切って試合に集中することが難しかった選手は、おそらくひとりやふたりではなかったはずだ。

 内田はベンチスタート。だが、試合前の段階で、鹿島のザーゴ監督は"主役"の起用を示唆していた。試合展開にもよるだろうが、ラスト5分、あるいは10分くらいか。いずれにしても、内田の出場があることは容易に想像できた。

 ところが、出番は想定外の早さでやってきた。右サイドバックで先発出場したDF広瀬陸斗が、前半15分にして右足首を負傷したからだ。

 出てほしいとは思っていたけど、こんなに早く?――。思わぬ事態にスタンドがざわつくなか、ベンチ前に姿を現したのは、もちろん背番号2。内田はピッチに入ると、MF三竿健斗から譲られたキャプテンマークを左腕に巻き、幸か不幸か、前後半のロスタイムも含めれば、80分以上プレーすることになったのである。

「率直に言うと、寂しい。今日のプレーを見ると、まだできるんじゃないかと思ってしまう」

 かつては内田とともに鹿島に在籍し、現在はG大阪でプレーするDF昌子源がそう語っていたように、試合後は敵味方を超えて、両チームの監督、選手から内田の引退を惜しむ声が聞かれた。この日のプレーを見せられれば、誰だってそう思うに決まっている。

 まずは、タッチライン際のオーバーラップから精度の高いクロス。かと思えば、クロスをチラつかせながら、ニアゾーンへグラウンダーのパス。相手の陣形を見ながら、次々に最適なプレーを選択する頭脳は、少々試合から遠ざかったところで、まったく錆びついてはいなかった。

 試合終盤には、ロングボール1本に合わせてDFラインの裏を取る、実に内田らしいフリーランニングも見せている。

 0-1で迎えた後半ロスタイム。土壇場で追いつき、1-1の引き分けに持ち込んだDF犬飼智也の同点ゴールを呼び込んだのも、内田の正確なアーリークロスがきっかけだった。内田のプレー一つひとつが、最後まで彼らしさに溢れていた。

 もちろんそこには、相手のカウンターを阻止するため、激しく当たりにいってファールをもらい、現役最後のイエローカードを受けたことも含まれている。

 もったいない。やはり、そう思わずにはいられない。

 とはいえ、その一方で、彼はサッカー選手であり続けるために、こんなにも無理をしていたのかと、切なくなるような場面もまた多かった。

 ずっと痛めていた右ヒザにテーピングが施されているのは、もはや見慣れた姿ではある。だが、この試合の内田は、後半なかばの給水タイムを利用して、テーピングをし直してもらっていた。

 白いテープでがっちりと固められた右ヒザは、カシマスタジアムの2階記者席からでも、太くなって見えた。それほど再処置は緊急、かつ厳重なものだったのだろう。

 ヒザの痛みが酷くなっていたのか、試合が進むにつれ、内田は味方の攻撃に合わせて、押し上げられないこともあった。また、逆に相手ゴール前まで攻め上がったあとには、素早く自陣に戻れないこともあった。最後まで内田らしいプレーが見られたことにウソはないが、相当な痛みを感じているのだろうことは、随所に想像できた。

 だが、そんなときは、同じ右サイドでプレーするMF遠藤康が、内田を追い抜いて守備に戻った。

「内田さんのラストマッチ。みんな気持ちの入ったプレーが多かった」(MF土居聖真)

 勝って内田を送りたい。それが、チーム全員の総意だったに違いない。

 試合終了を待たずに交代で退くのではないか。内田の様子を見ていると、そんなことも想像できた。あるいは、試合の大勢が決していれば、それもあったかもしれない。

 しかし、1点のリードを許していた鹿島は、次々に前線の選手を投入。後半30分までに5枚すべての交代カードが切られたことで、内田は最後までピッチに立つことが決まった。

 残り時間は、まだ15分。早すぎる判断にも見えたが、ザーゴ監督はこの試合を内田に託すと決めた。誰より内田自身が交代を望んでいなかったのだろう。

 試合後、引退セレモニーが終わると、内田は二人の子どもを連れて場内を一周し、カメラマンの求めに応じ、3人で並んだ。

 まだ小さな子どもの目線に合わせて姿勢を低くしようとする内田だったが、右ヒザを曲げることができず、自然にかがむことができない。その姿は、この日の彼が、どれほどの苦痛のなかでプレーしていたかを物語っていた。

 シーズン途中の現役引退は、まさに限界までやり切った末の決断だったのだろう。

 振り返ってみると、内田のプレーを初めて見たのは、2004年9月のアジアU-17選手権、すなわち、翌年開かれるU-17世界選手権のアジア最終予選を兼ねた16歳以下の国際大会だった。

 当時、U-16日本代表で背番号8をつけていた内田のポジションは、4-4-2の右MF。スピードを生かした突破力が光るサイドアタッカーだった。16年前のノートを開くと、内田のドリブル突破が日本の重要な武器だったと記されている。

 だが、線が細く、肉体的には恵まれているとは言い難い内田が、もしスピードと突破力だけを武器に上を目指していたら、今の彼はなかったに違いない。

 その後、内田は清水東高在学中に右サイドバックへ転向。縦に上下動を繰り返す槍のようなサイドバックがまだまだ主流だった時代に、従来の特長は残しつつも、ボランチのごとくパスを出し入れしながら攻撃に加わっていくスタイルを確立し、自らの希少性と重要度を高めていった。

 2007年U-20ワールドカップに出場し、初めて世界の舞台に立つと、翌2008年1月にはA代表デビュー。同年、北京五輪にも出場し、その後はA代表の主力となり、ワールドカップやアジア予選など、主要な国際試合を数多く経験してきた。

 国際Aマッチ出場は74試合。しかし、キャリアのスタートが早かったことを考えると、ケガさえなければ、その数はきっと3桁に届いていたはずである。

 まして、若さゆえの勢いや身体能力に頼っていた選手ではない。経験を重ね、ベテランと呼ばれる年齢になってもなお、熟練の技に磨きがかかるプレースタイルだっただけに、一層、右ヒザのケガが引退を早めたことが惜しまれる。

 しかしながら、昌子の言葉を借りれば、「大きな決断をしたなかで、本人が一番いろんな思いがある。周りが何か言うことではない」。

 自身が納得し、下した決断なら、それでいい。今はただ、労いの拍手を送りたい。