オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響第2回:2008年北京五輪・西川周作(前編)後編はこちら>>本来であれば、2020年7月22日から8月9日の日程で開催される予定だった東京五輪。新型コロナウイルスの感染拡大の影響によって、1年後…
オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響
第2回:2008年北京五輪・西川周作(前編)
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本来であれば、2020年7月22日から8月9日の日程で開催される予定だった東京五輪。新型コロナウイルスの感染拡大の影響によって、1年後に延期されることになったが、サッカー選手にとって、五輪とはどういう舞台になるのだろうか。また、五輪はその後のサッカー人生にどんな影響をもたらすのか。第2回は、2008年北京五輪に出場した西川周作に話を聞いた――。
北京五輪での戦いぶりについて振り返る西川周作
北京五輪は、2008年に開催された。
その頃の日本サッカー界は、厚い雲に覆われていた。というのも、当時「史上最強」と言われた日本代表が、2006年ドイツW杯で1勝もできずにグループリーグ敗退。長年、代表チームをけん引してきた中田英寿が引退するなど、ひとつの時代が終わった感が漂っていたからだ。
そのため、世間では潮が引いたようにサッカー熱が冷め、それまで常に満員だった日本代表の試合も、空席が目立つようになっていた。
そうした状況のなか、北京五輪代表チームは始動した。
「当時、僕らへの注目度はもうひとつでしたね」
西川周作(当時大分トリニータ。現在は浦和レッズ)は、そう苦笑する。
彼が、初めて五輪でサッカーを見たのは、2000年シドニー五輪だったという。
同チームは、中田英や宮本恒靖をはじめ、柳沢敦や中村俊輔、さらに高原直泰や稲本潤一ら「黄金世代」など、豪華メンバーが名を連ねていた。そこに、楢崎正剛らOA(オーバーエージ)枠の選手が加わって、国民の期待が非常に大きかった。
「シドニー五輪は鮮明に覚えています。とくに(準々決勝のアメリカ戦で)GKのナラさん(楢崎)が血だらけになってゴールを守っていたのが、すごく印象的でした。あの時、(味方と接触して)顔を骨折していたと思うんですけど、それでも最後までゴールに立ち続けてプレーしていて、素直に『すごいな』と思っていましたね。
まあでも、その頃は、五輪は見ているだけの世界。自分とは無縁の大会、という感じでした」
西川が五輪出場を現実的に捉えるようになったのは、オランダで開催された2005年ワールドユース(現U-20W杯)での戦いを終え、内田篤人らひとつ下の世代が戦った2007年U-20W杯カナダ大会が終わってからだった。
「(ワールドユースは)僕はオランダの大会に出ていたんですが、やはり世界大会は、Jリーグでは味わえないような経験ができて、自分をすごく成長させてくれた。だから、ワールドユースを戦ったあとは、『次の(世界大会となる)五輪にも絶対に出るんだ』という気持ちになりました。
そして、カナダのU-20W杯が終わって、北京五輪に向けてのチームが立ち上がってからは、『自分ら上の世代が中心になってやらないといけない』と思いました。勢いは(下の世代の)”調子乗り世代”のほうが、すごかったんですけどね(笑)」
ハツラツとした戦いを披露して”調子乗り世代”と称されたU-20W杯「カナダ組」は、たしかに勢いはあった。しかし、北京五輪出場を目指すチームの軸になっていたのは、ワールドユース「オランダ組」を含めた上の世代だった。西川をはじめ、青山敏弘、本田圭佑、岡崎慎司、李忠成らが奮闘し、アジア最終予選を突破。4大会連続の五輪出場を決めた。
ただ、西川がそこで安堵することはなかった。「ここからが本当の勝負になる」と覚悟したという。
「最終予選のメンバーが、そのまま本大会のメンバーではない、というのは理解していました。五輪メンバーは18名。OA枠もあるので、本大会までのメンバー争いは、めっちゃシビアになると思っていました。GKも3枠ではなくて2枠なので、(予選を終えたあと)かなり危機感を抱きながら(所属)チームに戻りましたね」
そうして、北京五輪を前にして、五輪代表の指揮官・反町康治監督は、最終的にOA枠を使用することなく、本大会のメンバー18名を選出した。
「ソリさん(反町監督)は、積極的に選手とコミュニケーションを取ってくれて、僕らを信頼してくれていました。ただ、そうは言っても、最後まで(OA枠の選手については)誰が入ってくるのかはわからない。
とくにGKは、過去2大会続けてOA枠の選手が起用されていたので(2000年シドニー五輪=楢崎。2004年アテネ五輪=曽ヶ端準)、今回もGKは(OA枠の選手が)入ってくるかもしれないと思って、『ヤバいな』っていう気持ちはありました。ですから、最終的に『OA枠は使用しない』とソリさんが決めた時は、ホッとしましたね」
北京五輪は、アメリカ、ナイジェリア、オランダと同組だった。
五輪を経験した選手の多くが、「五輪の舞台は、普通のサッカーの世界大会とは違った雰囲気がある」と言う。西川も初戦のピッチに立った時、その違いを感じた。
「初戦のことは、よく覚えています。すごく蒸し暑くて、観客は地元・中国の人ばかりで、何でもないところで変な大歓声が上がったりして……。なんか、調子が狂うというか、スタジアムは異様なムードでしたね。当時は、まだ(自分も)国際経験が少なかったので、そういう雰囲気がプレーにも少し影響したかな、と思います」
五輪特有のムードに飲み込まれたのか、あるいは、アメリカという相手を少し甘く見ていたのか、日本は0-1で初戦を落としてしまう。
「世界大会では初戦が大事だというのはわかっていたので、初戦を落としたことはすごく痛かったです。勝ち点1でも取ることを考えて、戦えればよかったなと思いましたね。初戦に向けて、コンディションだけではなく、メンタルも整えて自分たちの力を出す、ということの難しさをすごく感じました」
初戦を落として追い込まれたが、選手たちが意気消沈することはなかったという。それから2年後、日本の”エース”となる男がチームを鼓舞し、引っ張っていたからだ。
「あのチームには、ウッチー(内田篤人)もいたし、(香川)真司もいたし、キャプテンは水本(裕貴)がやっていたけど、みんなから一目置かれる存在だったのは、(本田)圭佑だった。選手から何か要望があれば、圭佑がソリさんに言ってくれたし、ソリさんの圭佑への信頼も厚かった。圭佑が声を出して、チームを引っ張っていく存在でしたね」
本田の鼓舞によって、選手たちも気持ちを切り替えた。次のナイジェリア戦、そして最終戦のオランダ戦へ向けて、改めてチームは奮い立った。そんなチームの雰囲気から、西川も残り2試合を勝って「グループリーグを突破する」という気持ちになっていた。
だが、五輪は甘くなかった。
「ナイジェリア戦は、(自分たちに)絶対に勝たなければいけないというプレッシャーがあったし、(グループ内で)『一番強い相手』と言われていたこともあって、試合の入りがちょっと硬かった。(後半に入って)0-2とリードされて、そこからはもう割り切って戦っていました。2点差でも、3点差でも、負けたら同じなので、『失うものはない』という気持ちで攻めたんですが……。1点返すのが精一杯で、力の差を感じましたね。
(ナイジェリアは)チームの組織力はそれほどではないけど、個の身体能力が自分たちとはまったく違うので。仕掛けていって『イケる』と思っても、スッと足が出てきて止められたり、逆にたったひとりに打開されてしまったり……。(ナイジェリアの選手は)なんか、ひとりで二役できるみたいな感じだった。『こいつら、違うな。強いな』と思いました」
結局、ナイジェリアに1-2で敗れると、グループリーグ最後のオランダ戦も0-1で敗戦。3戦全敗で大会を終えた。
北京五輪では3戦全敗に終わった日本。photo by YUTAKA/AFLO SPORT
「全部、1点差負け。Jリーグだと1点取られても、巻き返せると思うんですけど、世界大会では難しい。世界大会での1点の重みを感じました。グループリーグ敗退に終わって、そりゃショックでしたよ。もっと長く五輪の雰囲気を味わいたいと思っていたけど、あっという間に終わってしまって……。
個人的にも、自分はもっと戦えると思っていたんですが、このままでは全然ダメ、というものを突き付けられた。それを受け入れないといけないのは、苦しかったですし、すごく脱力感がありました」
西川はGKとして、具体的にどういったところに力のなさを感じたのだろうか。
「ワールドユース、北京五輪という2つの世界大会を経験して、まだまだチームを勝たせられるGKではないと思いました。GKは、ビッグセーブでチームを救う時もあるけど、それ以上に試合展開を読むことが大事。たとえば、『今は時間を作って、(チーム全体を)落ち着かせよう』とか、試合をコントロールするのが、GKの重要な仕事なんです。その時間の使い方で、得点できたり、失点を防げたりしますから。
そういう部分が(自分には)足りなかった。結局、いくら自分がビッグセーブを連発しても、2点取られて負けてしまったら、意味がない。チームが結果を出すために、まだまだ(自分には)すべきことがたくさんあるな、ということを改めて感じられた貴重な大会でした」
大会を終えて、西川はグループリーグを突破できなかった悔しさが募る一方で、もうひとつ悔いが残ることがあったという。
「五輪の本番前に、アルゼンチン(の五輪代表)と試合をしたんですよ。ただ、親善試合だったので、その時はメッシがいなかった。(相手は)本気じゃなかったんです。
本番でも、グループリーグを突破すれば(アルゼンチンと)対戦する可能性があったんです。その時は、メッシがいて、アグエロやリケルメらのコンディションもよくて、得点力が半端ない強力なチームだった。そのチームと、五輪の舞台で試合がしたかったなぁ、と」
そのアルゼンチンは前評判どおり勝ち進んで、2004年アテネ五輪に続いて2大会連続で金メダルを獲得した。
翻(ひるがえ)って、早々に帰国した西川は、次の目標に向けて決意を新たにしていた。
(つづく)
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