メジャーリーグは通常6カ月にわたり162試合が行なわれるが、今シーズンは新型コロナウイルスの影響により7月23日(…
メジャーリーグは通常6カ月にわたり162試合が行なわれるが、今シーズンは新型コロナウイルスの影響により7月23日(現地時間)に開幕し、試合数も60試合に短縮される。この異例のシーズンが開幕するにあたって、全米の野球ファンの間で話題になっているのが、どんな偉業が達成されるかということだ。
たとえば、ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオが持つ56試合連続安打の記録を抜いて史上初めて全試合でヒットを打つ選手の誕生や、1941年に打率.406をマークしたボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムス以来となる4割打者の誕生など、さまざまな可能性について語られている。
それとは別に新聞やサイトなどでは”60試合限定”で、これまですごい数字を残した選手たちを紹介している。
たとえば、1982年にシーズン130盗塁のメジャー記録を達成したオークランド・アスレチックスのリッキー・ヘンダーソンは、ある時期からの60試合で63盗塁を成功させたとか、2001年にシーズン73本塁打を放ったサンフランシスコ・ジャイアンツのバリー・ボンズは、4月12日からの60試合で35本のホームランを量産したとか、2008年に当時36歳だったアトランタ・ブレーブスのチッパー・ジョーンズは、開幕からの60試合で打率.409をマークしたとか(この年、最終的に打率.364で初の首位打者を獲得)など、60試合で達成された偉大な成績が記されていた。

2004年、メジャー記録となるシーズン262安打を達成したイチロー
そしてある記事は、シーズン262安打を放ち、82年ぶりにメジャー記録を塗り替えた2004年のイチローを紹介。シーズン最終戦までの60試合で109安打を放ち、それが歴史的な大記録につながったと書いてあった。
たしかに、ジョージ・シスラーが持つシーズン257安打の記録に近づくと、イチローはプレッシャーを感じるどころか、ヒットを量産していった。しかしこの年、じつはこれよりもすごい”60試合”があった。
7月1日から9月5日までの60試合で、イチローが出場したのは59試合。この間、イチローは260打数119安打(打率.458)という驚異的なペースでヒットを積み重ねていったのだ。
2004年はイチローが渡米して4年目のシーズン。メジャー1年目からシーズン242安打を放ち、首位打者(打率.350)、新人王、MVPを獲得したイチローにとってこの年は、史上初めてデビューしてから4年連続シーズン200安打の偉業達成に注目が集まっていた。
だが、このシーズンは開幕から好不調の波が激しかった。4月は月間26安打に終わり打率は.255だったが、5月は月間50安打を放って打率.400をマーク。しかし6月はまた低迷し、開幕からの3カ月で計105安打。シーズン200安打を達成するには決して悪いペースではないが、6月終了時点での105安打はイチローがメジャーに来てから最少だった。
全米スポーツ誌ESPN.comはイチローの特集記事を組み、「メジャーのピッチャーがようやくイチローにアジャストし、彼の攻撃力が落ちた。我々もイチローのすごさを考え直すべきだ」とまで書いた。
イチローの不安定な成績に比例するように、マリナーズも低迷していた。6月終了時点で31勝45敗と、首位とは13.5ゲーム差。7月に入ってもセントルイス、トロント、シカゴの遠征9連戦を全敗するなど、首位から17ゲーム差という泥沼の状態でオールスター休みを迎えた。
こんな最悪なチーム状況のなか、イチローの歴史的快進撃が始まった。チームは屈辱的な9連敗を喫したが、イチローは遠征中33打数11安打の好結果を残した。
イチローの調子のバロメーターは、ア・リーグ西地区のライバルであるアスレチックスとエンゼルスとの対戦でわかる。
当時のアスレチックスは、ティム・ハドソン、バリー・ジト、マーク・マルダーというメジャーでも屈指の”3本柱”がいた。7月はそのアスレチックスと5試合対戦したのだが、イチローは彼らを苦にすることなく24打数13安打と打ちまくった。
ただ、この強力3本柱を擁するアスレチックスに対し、イチローはメジャー1年目から特別苦手としていたわけではないが、この7月の打ちっぷりは凄まじかった。
その一方で、エンゼルス戦の成績はよくなかった。
エンゼルスの最大の武器は首脳陣だった。元キャッチャーのマイク・ソーシアが監督で、ベンチコーチがジョー・マドン(現・エンゼルス監督)だった。彼らが細かい野球を求め、とくにイチロー対策は徹底した。
独自のデータに基づき、ほかのチームではやっていない二遊間の選手を二塁ベース側に寄せる”イチローシフト”を敷いた。実際、この年の4月の対戦でイチローはエンゼルス投手陣に28打数6安打(打率.214)と抑え込まれていた。
ところが7月の対戦では、イチローが36打数15安打(打率.417)と打ち込み、29日の試合では自身メジャー初となる1試合5安打。苦手としていたエンゼルス戦で圧巻のバッティングを見せた。結局、7月は51安打を放ち、シーズン2度目の月間50安打をマークした。
8月になってもイチローの勢いは止まらない。8月3日のボルチモア・オリオールズ戦のダブルヘッダーで通算6打数6安打。一気に打率は.355まで上がり、デトロイト・タイガースのイバン・ロドリゲスを抜き、このシーズン初めて首位打者に浮上した。
ちなみに、6月30日の時点でのロドリゲスの打率が.381だったのに対して、イチローは.315と、6分6厘もの差があったのだ。
また、オリオールズにはイチロー、ロドリゲスとともに首位打者争いをしているメルビン・モーラもいた。彼は6月30日の時点で打率.357(2位)とイチローに4分2厘差をつけていたが、わずか5週間の間に追う立場に変わってしまった。モーラは悔しそうな顔でこう語っていた。
「どうしようもありません。だって、イチローはメジャーでベストプレーヤーです。賢くて、走攻守すべて揃っている。本当にすごい選手です。もうお手上げです」
8月17日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で、イチローはまた猛打賞となる4打数4安打。118試合を消化した時点で189安打となり、この頃からメジャーのシーズン最多安打の記録を持つジョージ・シスラーの名前が出るようになった。
シスラーが持つ257安打に到達するには、残り44試合で68本のヒットを打たなければならない。いくらすぐれた打者とはいえ容易なことではない。ただ、7月1日から驚異的なペースでヒットを積み重ねていくイチローを見れば、決して届かない数字ではないように思えた。
ところが、思わぬアクシデントがイチローを襲う。4安打した翌日の試合で、ロイヤルズの新人が投じた146キロのストレートがイチローの頭部を直撃。その場で倒れこんだイチローは交代となり、その後、軽い脳震とうと診断された。記録達成のためには1試合も無駄にしたくないが、翌日の試合は休まざるを得なかった。
しかし、野球の神様はイチローに味方した。19日の試合は、雨により中止となったのだ。そして20日からのデトロイトでのタイガース戦でスタメン復帰したイチローは、何事もなかったかのように3連戦で16打数7安打の活躍。新記録更新に向かって加速した。
このイチローの止まらぬ活躍に、つい2カ月前にイチローへの辛辣な記事を書いたESPN.comの記者が、珍しく頭を下げて謝罪文を掲載したのだ。
「申し訳ございませんでした。以前、イチローの衰退についての記事を書きましたが、ずっと打ち続けています。この場を借りて謝罪させていただきます」
8月26日、シアトルでのロイヤルズ戦の9回、イチローはセンターへ7号ソロを放った。この一打で、イチローは史上初となるルーキーから4年連続200安打を達成した。126試合での200安打到達は1930年以来、74年ぶりのことだった。ひとつの目標をクリアしたイチローは次のように心境を語った。
「常にプレッシャーを感じていられる選手でありたい」
シスラーの記録まで残り36試合で57安打となったイチローは、目の前に迫る大記録について、このように話した。
「勝手に期待してもらって結構です。ただ、短期の目標をしっかりと立てていきたいです。257? それが具体的にイメージできるような状態にしたいですね」
8月は56安打を放ち、シーズン3度目の月間50安打。全米の注目が高まり、ファン、メディア、チームメイト、そしてライバルからもイチローを讃えるコメントが溢れていた。さらに、イチローへのリスペクトは言葉だけでなく、グラウンドでも表れるようになっていた。
9月1日、トロントでのブルージェイズ戦。同点の7回、二死一、二塁の場面で、この日2安打を放っていたイチローに回ってきたが、ブルージェイズベンチからすぐさま敬遠のサインが出た。勝ち越しのランナーを三塁に進めるのは、野球のセオリーからすればあり得ない作戦だ。それでもブルージェーズは目論見どおり次打者を抑えてピンチを脱したが、イチローへのリスペクトは明らかだった。
9月4日のシカゴでのホワイトソックス戦ではこんなこともあった。対戦するのは、豊富な球種と抜群のコントロールでメジャー屈指の左腕となったエースのマーク・バーリー。すでにイチローに3安打を許していたバーリーは、第4打席の初球でなんと106キロのスローボールを投じたのだ。つまり、イチローに対してもう投げる球がないという意味だった。
結局、その2球後、二遊間に抜けるこの日4本目のヒットを打たれたバーリーは、マウンドから一塁にいるイチローに向かって脱帽し、降参した。
さらにサプライズは続いた。9回にホワイトソックスの3番手からこの日5本目のヒットを放ったイチローに対して、敵地シカゴの24191人の観客はスタンティングオベーションで称えた。
翌日の試合でさらに1安打を放ち、これでシーズン通算224安打となったが、この日は7月1日から数えてちょうど60試合目だった。先述したように、この間イチローは119安打を放ち、打率.458という驚異的な数字を残したのだ。
この”奇跡の60試合”もあって、イチローはメジャー記録となる262安打を達成し、打率.372で2度目の首位打者も獲得。イチローにとっても、ファンにとっても忘れられないシーズンになった。
いよいよメジャーリーグが開幕する。この2004年のイチローの偉業を思い出しながら、これから始まる異例のシーズンを楽しみたい。