サッカー名将列伝第5回 アレックス・ファーガソン革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせて…

サッカー名将列伝
第5回 アレックス・ファーガソン

革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介する。今回はマンチェスター・ユナイテッドで長く監督を務め、数多くのタイトルを獲得した、アレックス・ファーガソン監督。ルーツのスコットランドの系譜。有能なコーチを使ったマネジャーとしての活躍ぶりを振り返る。

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<スコットランドの系譜>

 アレックス・ファーガソンについては語り尽くされているのではないかと思う。マンチェスター・ユナイテッドで13回のプレミアリーグ優勝、チャンピオンズリーグも2回獲っている。ユナイテッドでは27年におよぶ長期政権だった。



マンチェスター・ユナイテッドで数々のタイトルを獲得したファーガソン監督

 1974年に32歳でスコットランドのイーストスターリングシャーの監督になった時は、専門のGKさえおらず、週給40ポンド(当時約2万7000円)という待遇だったそうだ。

 ただ、もうこの時からファーガソンは恐い監督だったという。のちに、「ヘアドライアー・トリートメント」と呼ばれた、選手の髪の毛が逆立つほどの説教が有名になるが、たぶん持って生まれた迫力なのだろう。

 ファーガソンはいつも拳を握りしめて歩いていた。顔つきが柔和な時でも、同じコートを着て、やっぱり拳は握られていた。本人が気づいているかどうかはわからないが、拳を握ったまま歩いている監督なんて、どうしたって恐い。

 セント・ミレンを経てアバディーンの監督を8年務めた。ファーガソンの名声が一気に高まった時期だ。3回のスコットランドリーグ優勝、1982-83シーズンはレアル・マドリードを破ってカップウィナーズカップで優勝している。

 マンチェスター・ユナイテッドの監督に就任したのは86年11月だが、その年の夏はメキシコワールドカップのスコットランド代表監督だった。この時のファーガソンはまだアバディーンの監督だったので兼任である。

 このワールドカップの予選までは、ファーガソンの師匠だったジョック・ステインが監督だったのだが、プレーオフ進出を決めたウェールズ戦で心臓発作を起こして他界してしまい、コーチだったファーガソンが暫定的に継ぐ形になったのだ。無事プレーオフを通過してワールドカップに臨んだが、グループリーグ敗退に終わっていた。

 ステインはセルティックでリーグ9連覇を成し遂げた、スコットランド史上に残る大監督だった。1966-67のチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)ではインテルを破って優勝。スコットランド初のヨーロッパチャンピオン、英国でも最初の快挙である。ファーガソンにアバディーン監督就任を勧めたのもステインだったと言われている。

 リーグの規模として、イングランドはスコットランドよりはるかに大きい。ただ、イングランドのクラブサッカーを牽引していたのは、スコットランド人だった。

 1970~80年代の、リバプールの黄金時代の礎をつくったビル・シャンクリー、その黄金時代にプレーしたケニー・ダルグリッシュ、グレーム・スーネスなどもスコティッシュ。50~60年代の、マンチェスター・ユナイテッドの名監督だったマット・バスビーもしかり。イングランドのリーグを盛り上げていたのは、スコットランド人と言っても過言ではないかもしれない。

 時代を遡ると、イングランドにサッカー協会(THE FA)ができた当初、選手は主にパブリック・スクール出身の貴族の子弟たちだったが、やがて北部の工場労働者を中心とするクラブが台頭した。多くの選手はスコットランド人であり、彼らがプロ化の先駆けだった。

 サッカーが労働者たちのスポーツになる段階から、スコットランド人は大きな役割を果たしていたわけだ。

<観察する監督>

 ファーガソンは監督として戦術家のイメージはない。スコットランドと言えば、イングランドに対抗してショートパス戦法を考案した点で、最初の戦術的イノベーターだったわけだが、80年代になるとイングランドとスコットランドのプレースタイルに大きな違いはなかった。マンチェスター・ユナイテッドの戦術もその時代の標準で、とくに何か革命的な変化をもたらしたこともない。

 ファーガソン以前のイングランドの監督といえば、コーチというよりマネジャーという呼称が相応しい人が多かった。先述のマット・バスビーが「トラック・スーツ・マネジャー」として珍しがられたように、練習で指揮を執るというよりも事務方であり、現在のGMの役割である。

 ファーガソンはグラウンドで練習を指導するコーチでもあったが、伝統的なマネジャーの雰囲気を持っていた。

 ユナイテッドで練習を仕切るのはむしろアシスタント・コーチだった。ブライアン・キッド、スティーブ・マクラーレン、カルロス・ケイロスといった優れた右腕が常にいた。マネジャーとコーチの二人三脚はイングランドの伝統でもある。トレーニングの組み立てと進行をコーチに任せ、ファーガソンは選手たちを注意深く観察していた。

 コーチがトレーニングを主導するのはイングランドに限ったことではなく、たとえばトヨタカップで来日した時(92年と93年)のサンパウロもそうだった。テレ・サンターナ監督はフィールドの周りをゆっくり歩いていただけだ。ただ、戦術を重視する監督はそうではない。

 ヨハン・クライフはバルセロナの選手に混ざって練習していたし、ミランのアリゴ・サッキは、いくつかに分けたグループの重要なパートは陣頭指揮していた。パルチザン・ベオグラードを率いて来日(91年)したイビチャ・オシムも、ミニゲームの主審をやりながらアドバイスを欠かさなかった。

 ファーガソンは、そうした陣頭指揮タイプとは違っていたようだ。

 戦術や技術を直接指導するとなれば、どうしてもそこに集中する。選手にアイデアを伝えるのがメインになるだろう。ファーガソンはもっと全体を把握することに力を注いでいたのだと思う。選手の反応やコンディションなど、一歩引いたところからのほうが見やすい。指導に熱中するのではなく、少し離れた場所から些細な変化も見逃さないようにしていたのではないか。

 有名なエピソードだが、デビッド・ベッカムの昇格を決めたのは監督室でベッカムの練習を見ていたからだ。ベッカムの練習というより、エリック・カントナのシュート練習に付き合わされて、クロスボールの供給役をやっていたベッカムである。

 監督室からは練習場を見ることができた。ベッカムによると「(カントナのシュート練習は)お金をとって見せていいぐらい」だったそうだが、監督室で見ていたファーガソンは、正確なクロスボールを蹴るベッカムを観察していたわけだ。

アレックス・ファーガソン
Alex Ferguson/1941年12月31日生まれ。英国スコットランド・グラスゴー出身。選手時代はFWでプレーし、スコットランドリーグ得点王を獲るなど活躍。引退後1974年から指導者となり、セント・ミレン、アバディーン、スコットランド代表などを指揮。86年からは27年間マンチェスター・ユナイテッドを率い、リーグ優勝13回、チャンピオンズリーグ優勝2回などの偉大な成績を残すと共に、ライアン・ギグス、デビッド・ベッカム、ウェイン・ルーニー、クリスティアーノ・ロナウドら数多くの選手をトップクラスに育てた